車道から離れて駐車場の奥へ歩いていく。店の裏は土手になっていて明かりはほとんどない。
腰くらいの高さのフェンスが駐車場を囲むように張られていて、土手の方へは行けないようになっていた。
仕方なくフェンスに凭れるようにして暗い夜空を仰いだ。
夜闇に慣れてきた目に星が次第に数を増していく。
今見上げている空は、わたしが一昨日まで見ていた空とは違うものなのだろうか。
違うと言えば背の高さが高い分、空に近くなったこと? 眼鏡がなければぼんやりとしか見えないわたしが、今は裸眼でくっきりと星が見えていること?
この空の下にわたしの帰る場所がないなんて、そんなこと信じられる?
――帰りたい……
――こんなことになる前のわたしに、何も知らないわたしに戻って……
わたしは空に向かって伸ばそうとしていた手を下ろした。
そんな無責任に無気力に、誰かに頼って生きていくことはもうできない。
きっと星を見る度に思い出す。亡くなった友達を偲んで毎年集まるサトシさんたちのことを。
星さんがそろそろ帰ろうと呼びに来て、三人でタクシーに乗った。
佳織さんを初めに降ろすと、星さんが「明野農園まで」と運転手さんに行先を告げる。
「明日の朝送るからさ、今夜はうちに泊まってくんない?」
理由が分からず戸惑うわたしに、星さんは言葉を重ねる。
「一人にしとくの心配だし、あ、それに野菜食わせる約束だし」
うんうんと頷く星さん。
「それと、サトシから宿題預かってる」
「宿題?」
「そ。明日仕事行くことになりそうだから、予習が必要だろ?」
その言葉にわたしは青ざめた。そうだ。今日元に戻れなかったわたしは、明日サトシさんとして学校に行かなきゃならない。
初めて会う子どもたちに、サトシさんとして授業をするってこと?
「む、無理っぽくないですか? わたし教員免許持ってな」
星さんが慌てたようにわたしの口を塞ぐ。そ、そうだ。タクシーの運転手さんに聞かれたらサトシさんが困ったことになってしまうところだった。
わたしは教員免許なんて持っていないけれど、サトシさんは本物の先生なのだ。
わたしは星さんに目で分かったと伝える。星さんが手を離して「話は家に着いてからな」と言うと、あとは二人で口を閉ざしたままタクシーに揺られていた。
「ちょっと星! ふらふら遊んでばっかりいないでちょっとは手伝いなさいよ!」
カラカラと玄関の扉を開いて、星さんが家に入った途端、そんな声が飛んできた。
苦虫を噛み潰したような顔で片耳を塞ぐと、わたしに早く入って入ってと手招きする。
「今のお母さん?」
小声で尋ねるていると、目の前にパジャマ姿の女性が現れた。
「あら、サトシ君来てたの。明日朝ごはん食べる?」
「食べる食べる」
わたしが「お邪魔します」と言う前に星さんがそう言ってわたしの背中を押す。
「早く寝なさいよー」
そんな声を背中に聞きながら、星さんに連れて行かれた部屋は八畳程の和室だった。
「あの人話が長いから」
そう言いながら部屋の隅に置かれた机の上のパソコンの電源を入れる。
ポケットから取り出したUSB を差し込んで、ファイルを開くと、ずらりと子どもたちの写真が現れた。
「これが宿題。顔と名前、一晩で憶えられる?」
何を隠そう。わたしは人の名前と顔を憶えるのが一番苦手だ。
けど、やる前からできないなんて言えない。
「頑張ります!」
パソコンの前に正座して気合いを入れたわたしに、星さんが、
「それじゃ、いいもん作ってきてやるよ」
そう言って部屋を出ていく。
わたしは写真の中に叶夢君を見つけて、あの後叶夢君がどうなったのか気になった。
明日学校に来られるかな……。
そう言えば、わたしがいなくなった後もサトシさんはわたしが戻って来ることを予測していたのだとすると、やっぱりわたしはサトシさんの中にずっといたんだろうか。
もしそうなら、昼間はサトシさんが体を使って、夜少しの間だけわたしに体を使わせてくれるだけでいいのに。
どうにかサトシさんと会話ができないだろうか。
昨夜、腕だけがサトシさんの意思で動いたみたいに、たとえばわたしの質問にキーボードで答えてくれるとか。
今までのところ、すごく切羽詰まった時にしかサトシさんは現れていない。
自由に入れ替われるというわけでもないのだろうか。
そんなことを考えているところに、星さんが戻ってきた。
手には大きなグラスを持っている。
中には緑色の液体。中身は……何となく想像がつく。
「あけのん特製野菜ジュース!」
今まで見た中で一番の笑顔で差し出されたそれを、断ることなどできようか。
「あ、ちなみにあけのんてのは明野農園の愛称ね」
星さんのニックネームではなかったらしい。
手渡されたグラスは手にずっしりと重みがある。ふと目に入ったグラスに描かれたロゴは見覚えがあった。
インターネットの広告などによく出てくる有機栽培野菜の宅配サービスだ。今まで特に興味がなくてじっくりと見たことはなかったけれど。
「……あけのん」
丸の中にきゅうり、トマト、かぼちゃ、大根などが擬人化されたイラストと太陽、そしてachenonの文字。
「そ、明野農園とノンケミカルをかけて俺がデザインした」
誇らしげな星さんの顔とグラスのロゴマークを見比べて、何だか星さんがかわいく見えてきた。
すごく野菜愛に溢れてる。
「いただきます」
両手でグラスを掲げ、そっと口をつけてみる。驚くほど飲みやすい。
新鮮な野菜の栄養がたっぷり詰まったジュースに、星さんの野菜への深い愛を感じた。
改めて星さんを尊敬の眼差しで見ていると、星さんが野菜を好きになった理由をぽつりと話してくれた。
「俺、子どもの頃体が弱くてさ。二十歳まで生きられないかもって言われてたんだ。それで、母さんが絶対俺を長生きさせてやるって、無農薬野菜の栽培始めて。そしたらほら、25歳になってもピンピンしてる。だから野菜には人間を元気にするパワーがあるって俺は信じてる」
星さんが叶夢君に言った言葉は慰めなんかじゃなくて、本当に星さんがそう思ってるからあの時ああ言ったんだなって分かった。
自分が信じてるものがあるっていいなって思えた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった」
空になったグラスをトレーに戻していると、星さんがタオルでわたしの口をグイッと拭った。
びっくりして見上げるわたしに、星さんは困ったような顔で言った。
「どう見たってサトシなのに、話してるとなんでか燿子ちゃんが見えてくるんだよ。俺ヤバイ……」
「や、やばいって何が、どう……?」
恐る恐る尋ねるわたしに、星さんは頭を抱える。
「俺は幽霊とかそういうの、今まで見えたことないんだよ。それが急に見えるようになったりしたら……」
な、なんだそっちか。わたしはドキドキする胸を押さえて勘違いしそうになった自分にバカッと内心で毒づいた。
「もしかして、それでわたしを家に……?」
「そ、そんなわけないじゃん! 片付けてくるから、ちゃんと宿題しろよ!」
まるで子どもに言うようにそう言って部屋を出ていく。
星さんがいない間、わたしは必死に子どもたちの顔と名前を覚えようとした。
でもついつい他のことを考えてしまって、なかなか集中できない。
点滴のチューブで首を絞められていたこっちの世界のわたし。
命が助かったから良かったけれど、どれほど苦しかっただろう。
それにお母さんも……。