⑭
飲み物のお代わりがくるのを待つ間、わたしの目は自然とテーブルの上のアルバムに吸い寄せられた。
「この人が尚也さん、ですよね?」
斜めに分けた前髪。通った鼻筋と鋭角な顎が繊細そうな印象の高校生。
尚也さんの最後を聞くのは恐ろしい。写真の中の男の子は生きていて、本当ならここで星さんたちとお酒を飲んでいたかもしれないのだ。
「事故、だったんですよね……?」
聞きたくないと思う一方で、それを知らなければいけないとも思っていた。もし、わたしが元に戻る方法を見つけられなかった時のために。
「そ。尚也の叔父さんがバイクショップのオーナーでさ。誕生日に速攻免許取りに行って、将来レーサーになるとか言ってたくせに」
星さんの声が少し湿っぽくなる。
「事故や病気で、大人になれずに亡くなっていく人はたくさんいるわ」
佳織さんは看護師さんだから、人よりたくさんそういう人を見てきたのだろう。冷たくそう言いながらも星さんを慰めているようにも見えた。
「尚也はあの一年でやれることはやったんだから」
そして自分に言い聞かせるみたいにそう言って俯く。
「それよりも、どうしてまたサトシがこんなことになってるのか説明してよ」
運ばれてきた飲み物で何にかは分からないけど乾杯する。
それからわたしがサトシさんの体に入った経緯を説明することになった。
一通り話し終えると、
「もう、八年も前のことだし、わたしの記憶が正しいかどうか分からないけど……」
佳織さんはそう前置きして意外なことを告げた。
「病院で燿子さんのお母さんを見かけて、どこかで見たことがあるような気がしたの。
尚也の事故の後、当時のわたしたちと同じくらいの年の子が唯一の事故の目撃者でいたでしょ?」
佳織さんが星さんに同意を求める。星さんも「あーいたね」と頷く。
「その子は現場に倒れてて何も憶えてないってことで、深くは追求されなかったみたいだけど、尚也のお葬式に母親と二人で来てたのを見たのよ」
一瞬の沈黙の後、星さんが目を見開く。
「その子の母親が燿子ちゃんのお母さん!? え、ってことはその時の目撃者は……」
二人の視線がわたしに向けられる。
わたしが尚也さんの事故の目撃者?
「…………」
わたしには答えられるような記憶がない。
けれど、否定するだけの記憶もまた持ち合わせていなかった。
ただ一つ、さっき見た夢の中で。
道の真ん中に飛び出したわたしを避けるようにバイクは急ハンドルをきった。
もし、尚也さんの事故の原因がわたしだったとしたら?
何故今わたしがここに居るのか、その理由に説明がつくような気がした。
わたしは二人にあの春のことについて話さなければならない。
それがどんなに思い出したくない記憶だろうと、きっとこれはわたしに与えられた罰なのだから。
「……わたしの母は」
そう切り出したものの、その後に何と続けたらいいのか分からなくなった。
今から二人に伝えようとしていることは、母を抜きにしては語れない。
その為に母の為人《ひととなり》から話そう、そう思ったのだけれど、いざ話そうとすると、雲を掴むように曖昧になった。
「母とわたしはすごく仲がいいんです」
母娘なのに仲がいいという表現が相応しいかどうか分からない。
「よく買い物にも一緒に行くし、本の好みも似てて、ドラマもよく一緒に見てました」
二人は黙ってわたしの話に耳を傾けてくれている。
「わたしが高校2年になった頃、母が段々と元気がなくなり始めて、わたしが一番傍にいたのに全然気付いてあげられなくて」
思い出すとまた胸が苦しくなった。そうなる前に何故気付いてあげられなかったのか、わたしの目は何も見ていなかったし、わたしの耳は何も聞こえていなかった。
「ある日、学校から帰ると母は、……睡眠薬を大量に飲んで倒れていました」
おしゃれな方ではなかったけれど、白髪なんかはなくて、いつも身綺麗にしていた母。
倒れていた母を見て始めて、髪も肌もボロボロになっていることに気付いた。
それまで一緒に食べていたごはんもダイエットしてるから、なんて言ってたけど、本当は食べられなかったに違いない。
原因は父の浮気だった。
それも相手の女性との間には小学生になる子どもがいたのだ。どれほど長い間母を裏切り続けていたのか。
「母は一命を取り留めて、その代わりわたしがおかしくなっていったんです。その頃の記憶はほとんどありません。毎日ふらふらと歩き回って、母は自分のことを考える余裕もなくなったと思います」
母が苦しんでいる時に何もしてあげられなかったどころか、その後の半年ほどは二人でどうやって生き延びたのかと思うような酷い状態だった。
わたしは母の自殺未遂と父の裏切りにショックを受け、心がどこか遠くへ逃げ出してしまっていた。
だから、当時のことをほとんど憶えていない。
気がつくと知らない場所にいたり、お店の物をお金を払わずに持ち出したり。その度に母が呼び出され、最終的には入院することになった。
父は娘が精神科に入院することが許せなかったようだけれど、母が父に「このままでは燿子が死んでしまう」と始めて父に逆らってまで訴えた。
この言葉だけは後から聞いたのではなく、わたしの耳にはっきりと残っている。
そのおかげで、わたしは治りたい、普通に戻りたいと思うようになったのだ。
「……だから、八年前のその頃、もしかしたら尚也さんの事故の原因はわたしだったかもしれません」
わたしは両手を膝の上で握りしめて、どうにかその言葉を口にした。
今助けてくれている人たちの親友を殺したのが自分だったかもしれない。
その考えは一度頭に浮かんでしまうと、事実はそれ以外にありえないような気がした。
「ちょっと待ってよ。それとこれと、そんな簡単に結びつけたらダメだろ」
星さんは片手を振りながら否定してくれる。
「でも……、そうじゃなければ尚也さんのお葬式にわたしと母が参列していた理由が分かりません」
「いや、遠い親戚だったとか、お母さんの知り合いだったとか、あるかもしれないじゃん」
星さんは敢えて軽い調子でそんなふうに言ってくれる。それでもわたしは「そうですね」とは言えなかつた。
「わたしが飛び出したりしなければ、尚也さんは今も生きていたかも」
「燿子ちゃん、落ち着いて。たとえそうだったとしても、あれは事故だったんだし、尚也だって誰かのせいだなんて思ってなかった」
「そうよ。あなたに恨みがあったなら、尚也にはいくらでもあなたを糾弾する時間はあったのよ。でも尚也はそうしなかった。むしろあなたに怪我をさせなくて良かったと思ってたはずよ」
わたしは責められることを覚悟していたのに、星さんも佳織さんもわたしの考えを否定してくれる。二人の優しさにわたしは込み上げてくる涙を堪えることができない。
「……すみません、事故のことちゃんと憶えてなくて。ちょっと飲み過ぎたみたいです。外で頭冷やしてきます」
二人に頭を下げてわたしはお店の外に出た。
しっとりとした夜気の中に滑り込むと、サトシさんの服の袖を借りて涙を拭いた。
それほど賑やかな街ではない。この時間に開いているお店は少なく、歩いている人もほとんどいなかった。
ただどこに向かっているのか、車は絶えず道路を行き交っている。
そのライトが目の前を過ぎる度に、わたしの中ではあの夢で見た事故のシーンが蘇る。
あれはただの夢じゃない。
わたしが憶えていない記憶の断片に違いない。
知らずに足が震えていた。
一瞬の出来事で未来は大きく変わる。もし、平行世界が本当に存在するなら、どこかに尚也さんが生きている世界があるのかもしれない。
けど、この世界にその世界を引き寄せることはできないだろう。どうしたって死んだ人は生き返らない。
尚也さんの周りの人たちの悲しみが消えることはない。
わたしはどうすればいいんだろう。
サトシさんまでわたしのせいで死んでしまったらどうしよう。
一刻も早くわたしは自分の体に戻らなければ。そう思う一方で、戻った先の世界で何が起きているのか分からない不安に胸が押し潰されそうだった。
飲み物のお代わりがくるのを待つ間、わたしの目は自然とテーブルの上のアルバムに吸い寄せられた。
「この人が尚也さん、ですよね?」
斜めに分けた前髪。通った鼻筋と鋭角な顎が繊細そうな印象の高校生。
尚也さんの最後を聞くのは恐ろしい。写真の中の男の子は生きていて、本当ならここで星さんたちとお酒を飲んでいたかもしれないのだ。
「事故、だったんですよね……?」
聞きたくないと思う一方で、それを知らなければいけないとも思っていた。もし、わたしが元に戻る方法を見つけられなかった時のために。
「そ。尚也の叔父さんがバイクショップのオーナーでさ。誕生日に速攻免許取りに行って、将来レーサーになるとか言ってたくせに」
星さんの声が少し湿っぽくなる。
「事故や病気で、大人になれずに亡くなっていく人はたくさんいるわ」
佳織さんは看護師さんだから、人よりたくさんそういう人を見てきたのだろう。冷たくそう言いながらも星さんを慰めているようにも見えた。
「尚也はあの一年でやれることはやったんだから」
そして自分に言い聞かせるみたいにそう言って俯く。
「それよりも、どうしてまたサトシがこんなことになってるのか説明してよ」
運ばれてきた飲み物で何にかは分からないけど乾杯する。
それからわたしがサトシさんの体に入った経緯を説明することになった。
一通り話し終えると、
「もう、八年も前のことだし、わたしの記憶が正しいかどうか分からないけど……」
佳織さんはそう前置きして意外なことを告げた。
「病院で燿子さんのお母さんを見かけて、どこかで見たことがあるような気がしたの。
尚也の事故の後、当時のわたしたちと同じくらいの年の子が唯一の事故の目撃者でいたでしょ?」
佳織さんが星さんに同意を求める。星さんも「あーいたね」と頷く。
「その子は現場に倒れてて何も憶えてないってことで、深くは追求されなかったみたいだけど、尚也のお葬式に母親と二人で来てたのを見たのよ」
一瞬の沈黙の後、星さんが目を見開く。
「その子の母親が燿子ちゃんのお母さん!? え、ってことはその時の目撃者は……」
二人の視線がわたしに向けられる。
わたしが尚也さんの事故の目撃者?
「…………」
わたしには答えられるような記憶がない。
けれど、否定するだけの記憶もまた持ち合わせていなかった。
ただ一つ、さっき見た夢の中で。
道の真ん中に飛び出したわたしを避けるようにバイクは急ハンドルをきった。
もし、尚也さんの事故の原因がわたしだったとしたら?
何故今わたしがここに居るのか、その理由に説明がつくような気がした。
わたしは二人にあの春のことについて話さなければならない。
それがどんなに思い出したくない記憶だろうと、きっとこれはわたしに与えられた罰なのだから。
「……わたしの母は」
そう切り出したものの、その後に何と続けたらいいのか分からなくなった。
今から二人に伝えようとしていることは、母を抜きにしては語れない。
その為に母の為人《ひととなり》から話そう、そう思ったのだけれど、いざ話そうとすると、雲を掴むように曖昧になった。
「母とわたしはすごく仲がいいんです」
母娘なのに仲がいいという表現が相応しいかどうか分からない。
「よく買い物にも一緒に行くし、本の好みも似てて、ドラマもよく一緒に見てました」
二人は黙ってわたしの話に耳を傾けてくれている。
「わたしが高校2年になった頃、母が段々と元気がなくなり始めて、わたしが一番傍にいたのに全然気付いてあげられなくて」
思い出すとまた胸が苦しくなった。そうなる前に何故気付いてあげられなかったのか、わたしの目は何も見ていなかったし、わたしの耳は何も聞こえていなかった。
「ある日、学校から帰ると母は、……睡眠薬を大量に飲んで倒れていました」
おしゃれな方ではなかったけれど、白髪なんかはなくて、いつも身綺麗にしていた母。
倒れていた母を見て始めて、髪も肌もボロボロになっていることに気付いた。
それまで一緒に食べていたごはんもダイエットしてるから、なんて言ってたけど、本当は食べられなかったに違いない。
原因は父の浮気だった。
それも相手の女性との間には小学生になる子どもがいたのだ。どれほど長い間母を裏切り続けていたのか。
「母は一命を取り留めて、その代わりわたしがおかしくなっていったんです。その頃の記憶はほとんどありません。毎日ふらふらと歩き回って、母は自分のことを考える余裕もなくなったと思います」
母が苦しんでいる時に何もしてあげられなかったどころか、その後の半年ほどは二人でどうやって生き延びたのかと思うような酷い状態だった。
わたしは母の自殺未遂と父の裏切りにショックを受け、心がどこか遠くへ逃げ出してしまっていた。
だから、当時のことをほとんど憶えていない。
気がつくと知らない場所にいたり、お店の物をお金を払わずに持ち出したり。その度に母が呼び出され、最終的には入院することになった。
父は娘が精神科に入院することが許せなかったようだけれど、母が父に「このままでは燿子が死んでしまう」と始めて父に逆らってまで訴えた。
この言葉だけは後から聞いたのではなく、わたしの耳にはっきりと残っている。
そのおかげで、わたしは治りたい、普通に戻りたいと思うようになったのだ。
「……だから、八年前のその頃、もしかしたら尚也さんの事故の原因はわたしだったかもしれません」
わたしは両手を膝の上で握りしめて、どうにかその言葉を口にした。
今助けてくれている人たちの親友を殺したのが自分だったかもしれない。
その考えは一度頭に浮かんでしまうと、事実はそれ以外にありえないような気がした。
「ちょっと待ってよ。それとこれと、そんな簡単に結びつけたらダメだろ」
星さんは片手を振りながら否定してくれる。
「でも……、そうじゃなければ尚也さんのお葬式にわたしと母が参列していた理由が分かりません」
「いや、遠い親戚だったとか、お母さんの知り合いだったとか、あるかもしれないじゃん」
星さんは敢えて軽い調子でそんなふうに言ってくれる。それでもわたしは「そうですね」とは言えなかつた。
「わたしが飛び出したりしなければ、尚也さんは今も生きていたかも」
「燿子ちゃん、落ち着いて。たとえそうだったとしても、あれは事故だったんだし、尚也だって誰かのせいだなんて思ってなかった」
「そうよ。あなたに恨みがあったなら、尚也にはいくらでもあなたを糾弾する時間はあったのよ。でも尚也はそうしなかった。むしろあなたに怪我をさせなくて良かったと思ってたはずよ」
わたしは責められることを覚悟していたのに、星さんも佳織さんもわたしの考えを否定してくれる。二人の優しさにわたしは込み上げてくる涙を堪えることができない。
「……すみません、事故のことちゃんと憶えてなくて。ちょっと飲み過ぎたみたいです。外で頭冷やしてきます」
二人に頭を下げてわたしはお店の外に出た。
しっとりとした夜気の中に滑り込むと、サトシさんの服の袖を借りて涙を拭いた。
それほど賑やかな街ではない。この時間に開いているお店は少なく、歩いている人もほとんどいなかった。
ただどこに向かっているのか、車は絶えず道路を行き交っている。
そのライトが目の前を過ぎる度に、わたしの中ではあの夢で見た事故のシーンが蘇る。
あれはただの夢じゃない。
わたしが憶えていない記憶の断片に違いない。
知らずに足が震えていた。
一瞬の出来事で未来は大きく変わる。もし、平行世界が本当に存在するなら、どこかに尚也さんが生きている世界があるのかもしれない。
けど、この世界にその世界を引き寄せることはできないだろう。どうしたって死んだ人は生き返らない。
尚也さんの周りの人たちの悲しみが消えることはない。
わたしはどうすればいいんだろう。
サトシさんまでわたしのせいで死んでしまったらどうしよう。
一刻も早くわたしは自分の体に戻らなければ。そう思う一方で、戻った先の世界で何が起きているのか分からない不安に胸が押し潰されそうだった。