騒ぎに気付いた看護師さんたちがスタッフステーションから出てくる。
その中に佳織さんの姿も見えた。
しかも男が走っていく正面で、こちらを振り返るように立っている。
嫌な予感がした。
逃げてと叫ぶと間もなく、一瞬のうちに男は佳織さんを盾にして非常口の方へ後退り始める。
その手にはハサミが握られており、佳織さんの首に刃先が当てられている。
追いかけていた星さんもそれ以上近寄れずたたらを踏む。
わたしたちが追いかけて、逃げたということがやましいことがあるという証明に他ならない。
「落ち着けって。ちょっと話がしたいだけじゃん」
星さんが男に向かって軽い調子で言葉をかけるけれど、男は何も言わない。
ぶるぶると震える手で力任せに佳織さんを引き摺っている。
助けなきゃ、そう思うのに、わたしの足は床に縫い止められたように動かない。
――サトシさん!
今度ばかりはわたしの呼びかけに応じるまでもなく、わたしの魂がサトシさんの身体から引き剥がされた。
わたしはふわりと空中に浮かぶ。
「星!」
サトシさんの声にちらりと振り返った星さんが不敵な笑みを浮かべる。
その一声で誰か分かったのだろう。
星さんが男の気を引くように喋り始める。その間にサトシさんがゆっくりと移動する。
「昨日さぁ、あ、あれ、マンモスシティにあれ来てたの知ってる? 何だっけ、ご当地アイドルの……」
「……ハニーレモンズ」
「そうそう、それ! あのピンクの子すっげー可愛いくない?」
「……ゆにたん」
「え? ゆにたんて言うの? 詳しいね。もしかして、ファン? 俺もファンになろうかなぁ」
何気に男が会話に反応していることに驚く。
その間にもサトシさんは犯人との距離を詰めている。
「お兄さんも昨日のイベント行ったんでしょ? どっかで会った気がすると思ったんだよねー」
「…………」
「お兄さん、昨日一緒にいた女の子のお見舞いに来たの?」
「…………」
「その子の様子見に来たんじゃないの?」
次第に軽口から冷たい口調になっていく星さんの言葉に、男は動揺を隠せず一瞬の隙ができた。
その瞬間を見逃さず、佳織さんが男に肘打ちを入れ、怯んだ男の手を逆手に握って捻る。
その一瞬でサトシさんが二人に駆け寄り男の足を払って膝をつかせ、素早くハサミをたたき落とした。
三人の息の合った捕物劇に遠巻きに見ていた看護師さんや患者さん達から拍手が起こる。
ほっとしたのも束の間、遠くで女の人の悲鳴がした。
スタッフステーションでコール音が鳴り響く。
わたしはその声に引き寄せられるように廊下を飛んで、見覚えのある病室にたどり着いた。
横たわる女性の首に巻かれた点滴のチューブ。
乱れた布団の上に散った赤い花弁。
倒れた点滴台の先には見覚えのある靴。
泣き叫ぶ母の声。
そして――
目の前に立つもう一人のわたし。



ベッドに横たわっているわたしが息をしていないのは確かだろう。
目の前のわたしは悲しげな表情で、わたしの方を向いてはいるけれど、わたしが見えてはいないようだった。
わたしはわたしの幽霊に手を伸ばす。
――お願い、戻って!
その指先が触れるかどうかというところで、激しい静電気のような光と音がスパークした。
わたしは弾き飛ばされ、気が付くと道路の真ん中に立っていた。
緩やかなカーブから続く交差点。
バイクがタイヤを軋ませながら走ってくる。
わたしは動けずにいた。
何故かその先に起こることが予測できた。
バイクはわたしを避けて斜めに倒れながら路上を滑っていく。
その先にトラックが現れ――
二台がぶつかる瞬間に曇天の空がぱっくりと口を開きわたしを飲み込んだ。
再び吐き出されたのは白い玉砂利の上。
黒い服の人達の列に、響く読経の声。
白黒の幕が風に捲れ、その向こうで一対の目がわたしを見ていた。
――星さん?
何故か学ラン姿の星さんがそこにいた。
周りをよく見れば、高校の制服姿の子達が何人か立っている。

中には泣いている子もいた。
わたしはゆっくりと棺の方へ歩いていく。
階段を一段、また一段と昇る。
けれど、どこまで昇っても棺にたどり着くことはできなかった。
ふと、我に返ったわたしの手にはグラスが握られている。
溶けた氷がカラッと音を立てる。
白い紙のコースターに水滴が落ちた。
「おとなしく助けられてないところが、やっぱ佳織だな」
星さんの声がした。
「当たり前でしょ? 言っとくけどあんたたちのせいよ」
佳織さんの手に握られた華奢なグラスにはピンク色の液体が揺れている。
全体的に甘ったるい匂いが充ちていて、少し目が霞んだ。
頭を振って何度か瞬きをする。
ゆっくりと見下ろした体はサトシさんのものだ。
いつの間にかサトシさんの体に戻っていたらしい。じゃあ今までのは夢?
どこからどこまでが夢だったのか分からない。
不意に吐き気が込み上げて、慌ててトイレを探して駆け込んだ。
ひどい頭痛がした。
洗面所で口をゆすいで、化粧をしていないのをいいことにパシャパシャと顔も洗う。
目の前の鏡の中には、顔色の悪い男性の顔があった。
真っ直ぐな目に睨まれて一瞬ゾワリと背中が粟立つ。
ぎゅっと目を閉じ再び開けば、背後に佳織さんが立っているのが見えた。
慌てていたせいでうっかり女子トイレに入ってしまったことに気付く。
「大丈夫?」
「あ、うん。なんとか……」
佳織さんに支えられるようにして席に戻る。
いつの間にこんな店に来たんだろう。時計を見れば八時を回っている。
病院に行ったのが9時頃だったから、10時間ほど記憶が飛んでいる。
「星さん……」
何が起きたのか教えて欲しくて、星さんに縋るような視線を送る。
星さんの目が僅かに見開かれ、またわたしに入れ替わったことに気付いたようだ、
「サトシ具合悪そうだし、今日はこれでお開きにしよっか」
わたしの気持ちを察した星さんが、そう言って立ち上がる。その腕を佳織さんが掴んだ。
「あんたたち、何か隠してるわね?」
「いやいやいや、何も隠してなんか」
「あなた、本当にサトシなの?」
佳織さんに真っ直ぐ見つめられ、わたしは誤魔化すように手近にあったグラスを煽った。
喉が焼けそうな強いアルコールにむせて咳き込む。
その時ふと、テーブルの上に置かれていた小さなアルバムに気付いた、
四人の制服姿の男女がお寺のような場所で並んで立っている。修学旅行だろうか。
白いブラウスの女の子はすぐに佳織さんだと分かった。
一人おどけて腕を振り上げているのは星さんだ。
佳織さんの右にはサトシさん。左側が尚也さんだろうか。
その顔に見覚えがあるような気がする。
次の写真はバイクに凭れて立つ男性。
その黒いバイクはさっきの夢に出てきたものに似ている。
もしかして、サトシさんがこれを見ていたからわたしの夢に出てきたのだろうか。
確か尚也さんはバイク事故で植物状態に……
お葬式の夢がリアルに蘇る。
玉砂利の鳴る音。
艶々と輝く葉っぱの上に影が揺れ、お線香の香りと喪服の匂いにわたしは顔を上げられずにいる。
隣りにいるのは母だ。
握りしめた数珠の珠をひとつづつ指で送りながら、反対の手でわたしの腕を掴んでいる。
いったい誰のお葬式なんだろう。
背中を伝って流れ落ちた汗と、誰かの泣き声。
何故そこにあなたがいるの……?