人間とは、慣れる生き物である。
 一ヶ月も経つと、周囲もだんだんと落ち着きを取り戻し、紗良もまたコハクが傍にいることに慣れ始めていた。
 そうすると、だんだんと日々が穏やかになっていく。
 学校の行き帰りにする会話も増え、子どものころの思い出話などもするようになった。

「でも、私……実を言うと、この間コハクに会うまでは小学生の頃にあやかしにあっていたことなんて、忘れていたんだよね」
「……それが普通だ」

 よくよく思い返してみれば、小学生の紗良は人間の友達こそ近所にいなかったが、あやかしの子ども達とはよく遊んでいたのだ。ふわふわ光る球もそうだし、上級のあやかしになると化け狸や天狗、猫又の子などもいたはずだ。
 彼らが今どうしているのかとコハクに問うと、彼は肩をすくめて「しばらくあってないが元気でやってるはずだ」と言っていた。
 それなりに親しくしていたはずなのに、それをすっかり忘れてしまっていた。不思議なことだと思うが、コハクが普通だというのなら、おそらく他の子も多かれ少なかれそんな経験をしているのかも知れない。
 ——ただ、忘れてしまっているだけで。
(でも、そんなのちょっと悲しいよね……)
 ちらりと隣を歩くコハクの表情を窺うが、彼は飄々とした表情を崩さない。こうしてみると、本当になんのために傍にいてくれるのかが疑問になってくる。
(あれから怖い目にもあっていないし……)
 求婚中、といったが、あれからその話題に自分から触れてくることもない。

「ねえ、コハク。今日はうちでご飯食べていかない? いつも送迎して貰ってて……その、お礼というか」

 いつも通り玄関の前まできっちりと送り届けてくれた彼が帰ろうとするのを引き留めて、紗良は思い切ってそう誘ってみた。さすがに外でするのは憚られる話だし、コハクが何を考えているのかを知りたくもある。
 騒ぎに紛れて忘れていたが、結局「おちがみ」というのがなんなのかも聞きそびれたままだし、良い機会だ。
 そう思ったのだが、コハクは目を見開いて紗良の顔をまじまじと見つめてくる。
 ひりひりするような緊張感に満ちた沈黙が、二人の間に落ちた。

「おまえ、わかってるのか……?」
「へ?」

 紗良が目を瞬かせると、コハクが大きなため息を漏らす。それから、ドンと大きな音を立て、紗良の顔の横に手を突いた。
(う、うわ……!? か、壁ドン……ってやつ……!?)
 突然のことにひえっと息を呑んだ紗良の顔を、コハクの金の瞳が真剣な光を宿して見つめている。
 その表情に、どくん、と心臓が大きな音を立てた。

「俺は、紗良……おまえに求婚しているんだぞ? そんな男を家にあげるからには、覚悟を決めたと思っていいんだな?」
「え、ええっ……!?」

 これまで一ヶ月以上もその話題に触れなかったくせに、今それを言うのか。むしろ、聞きたいのはこちらの方だ。
 言いたいことはたくさんある。けれど、コハクの真剣なまなざしに気圧されて、紗良は小さく首を振ることしかできない。
 小刻みに手が震える。それに気付いたコハクが、ハッとしたように手を引くと、ちっと舌打ちした。

「……悪い、今日の所は帰る」

 ぐっと拳を握りしめ、彼はそう告げると踵を返す。遠ざかる後ろ姿を見つめ、紗良は胸が疼くのを感じていた。