「ん、んん……」
どこか遠くでピピピと電子音が鳴っている。うるさいな、と夢うつつに思ってから、少女はそれが自分の枕元に置いてあるスマホのアラーム音だと気がついた。
はっとして飛び起き、スマホを手にして時間を確認する。時刻は午前七時。これから身支度を調え、朝食をとってから学校に向かうことを考えた場合の最終防衛ラインの時刻だ。
どうやらここに至るまでに、他にかけてある3つのアラームはいつもどおりに無意識に止めてしまったらしい。
「まずい……!」
彼女は慌ててベッドから飛び出すと、洗面所に駆け込んだ。鏡をのぞき込むと、そこにはいつも通り、なんの変わりもない自分の顔が写っている。
少女の名は、小鳥遊紗良。十六歳で、地元の公立高校に通う一年生だ。現在は学校にほど近いマンションで一人暮らしをしている。
なぜ一人暮らしをしているかというと、それは紗良の実家が市内で一番高い山の頂上付近に位置する小鳥遊神社だということが関係していた。山のてっぺんから麓に降り、学校まで通うとなると、徒歩で二時間はかかる計算なのだ。
自転車は山道を下るときは良いが、登りが辛すぎて無理。車での送迎も検討したが、毎日両親どちらかの手を煩わせるのはさすがに忍びない。
朝の弱い紗良に早起きは無理だ。小中通して九年間でそれを実感しまくった紗良は、両親を必死に説得して高校からは一人市街地で暮らす権利を獲得したのである。
だが、その際に付けられた条件は「病気などやむを得ない場合を除き、学校には無遅刻無欠席で通うこと」というもの。これは、朝が苦手な紗良を心配し、母親が言い出したものである。
そのほかにも細々とした条件はあるものの、紗良は初めての市街地での生活を満喫して——。
「……?」
不意に、目の奥がじんと疼いた。
何だろう、と口の中に歯ブラシを突っ込んでしゃこしゃこと動かしながら、紗良は鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。だが、そこに映っているのはいつも通りの自分の顔だ。
肩の下まで伸ばしたストレートの黒髪は、わりと寝癖がつきにくい方らしく、手櫛で整えればまぁまぁ見られる程度になる。目はぱっちりとして大きく、肌はインドア派であるせいか白め。友人に言われてキチンとリップを塗るようにしたせいか、唇にも荒れはなく、つやつやしているのが密かな自慢だ。
全体的に見て、まぁまぁ平均よりは少し可愛い部類に入るのではないだろうかと自負している。
(うん……なにもおかしいところはないわね……)
手早く身支度を調え、セットしておいた炊飯器の蓋を開ける。ふわっと漂うのは、炊きたてのお米の匂いだ。これがなくては、紗良の一日は始まらない。
手早くおにぎりをいくつか作り、そのうちの一つを朝食に、残りを昼食用に包むと、紗良は行儀悪く立ったままそれに齧りついた。
「あ、あちっ……」
慌てて冷蔵庫からお茶を取り出し、グラスに注いで一気飲みする。母親が見たら顔をしかめそうだ、と思いながら、残りを口の中に押し込んだ。
この時点で、既に時計は七時四十五分を指している。慌てて鞄に必要なものを詰め込むと、紗良は「いってきまぁす」とからっぽの部屋に声をかけて部屋を飛び出していった。
紗良は鞄を抱え、薄暗い夕暮れの道を一人歩いていた。市街地とはいえ、この辺りは小学生が帰宅時間を迎えると途端に人通りが少なくなってしまう。
「遅くなっちゃったな……」
ぶるりと身体を震わせて、紗良は小さな声でそう呟く。
先生に頼まれものをしたのが日直である紗良一人だったため、友人達は先に帰ってしまった。誰か一人くらい残っていて貰えば、心細さは解消されたと思うのだけれど……。
そこまで考えてから、紗良はふと「自分はどうしてこんなに不安になっているのだろう」と考えた。
確かに、黄昏時の空は紫とオレンジが入り交じり、なんだか不思議な色合いを醸し出している。見ていると、吸い込まれそうな、そんな色だ。だが、だからといって本当に吸い込まれたりするわけはない。
太陽は沈む途中ではあるが姿がある。従って、薄暗くはあるが視界が悪いと言うこともない。
それなのに、なんだか——嫌な感じがする。思わず立ち止まった瞬間、くらりと立ちくらみのような感覚がした。あ、と小さな声が唇から零れ、地面がぐにゃりと歪む。
「きゃ……っ」
なんとか足を踏ん張って、紗良はぎゅっと目を閉じた。転倒することだけは回避し、おそるおそるまぶたを開く。そうして——紗良は呆然と、目を瞬かせた。
先ほどまでは、人通りは少ないとは言え、周囲に民家のある舗装された道路を歩いていたはずだ。だが今は、だだっぴろい広場のような場所で、土を踏みしめて立っている。
「え、ここ……どこ……?」
きょろきょろと辺りを見回してみるが、そこには誰もいない。暑い時期だというのに、にわかに背筋が寒くなって、紗良は震えながら一歩足を踏み出した。
(なにこれ……どうして……? さっきまで、家のすぐ近くを歩いていたのに……)
舗装されていない土の道は、歩くたびにざりざりと不快な音を立てる。それに不安を更に煽られて、紗良は目の奥がつんと痛くなってきた。涙が出そうだ。
だが、とにかく誰かを探して、そしてここがどこなのかを確認しないと——。
「おい、それ以上先には行くな」
背後から声をかけられたのは、そんな時だった。と、同時に腕をぐっと捕まれて、痛みに顔をしかめる。
文句を言おうと振り返って、紗良はあんぐりと口を開いた。
目の前に、とんでもない美形が立っていたからだ。
豊かな銀の髪は長く、腰の辺りまであるのを、首の後ろで一括りしている。紗良よりも頭一つ分高いすらりとした長身で、推定百八十前後はあるだろう。
美しい顔立ちに、神秘的な金色の瞳がよく似合っている。
突然現れた青年に戸惑いはしたものの、とにかくこんな場所で出会えた唯一の人間だ。しかも、外国人のような見た目をしているのに、日本語を話している。ということは、話が通じる!
ほっとした紗良は、だが先ほどの彼の言葉を思い出して小さく首をかしげた。
「なんで——」
「おまえ、このまま進んだら——捕まるぞ」
「……え?」
質問を遮られ、突然おかしなことを言い出されて、紗良は怪訝な顔をした。一体何を言い出したのだろう、この人は。
だが、そんな紗良の気持ちには彼は気付かなかったようだった。ぐっと少し乱雑な仕草で腕を引っ張ると、よろけた紗良を抱き留め、ふんわりと抱え上げてしまう。
「いくぞ」
「え、行くって、えっ……?」
抱え上げられて、青年との距離が近くなる。すると、先ほどまでは気付かなかったが、彼の頭の上にぴょこんと飛び出る一対の獣耳が視界に入った。それは、彼の髪と同じ銀色の毛で覆われていて、ピンと真上を向いて立っている。
(え……っ? い、犬? ……の、耳……? あれ、これ……どこかで……?)
見覚えがあるような、無いような。
混乱した紗良がぱちぱちと目を瞬かせてそれに見入っている間に、青年は勢いを付けるとそのまま上へと飛び上がった。人にはあり得ない跳躍力で、紫とオレンジの入り交じる空へとぐんぐん近づいていく。
あまり高い場所が得意ではない紗良は、あわてて彼にしっかりとしがみついた。得体の知れない相手ではあるものの、ここから落とされでもしたら大変だ。
だが、そんな紗良の様子に彼は一切頓着した様子はない。しっかりと彼女を抱えたまま、ちらりと下方を確認して——それから小さく舌打ちした。
「ち、来やがったか……」
「き、来たって何が……!?」
紗良が叫ぶと同時に、青年が肩を抱く腕に力を入れた。
「落ちたくなかったら、しっかり掴まっていろよ……!」
「え、は? ひゃ、やだ、離すな……!」
あろうことか、青年は片方の手を離すとてのひらを下に向けた。片方の支えを失って宙ぶらりんになった足を、紗良が大きくばたつかせる。スカートが翻り、それが気になって思わず下をのぞき込んだ紗良は、目を見開き「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。
地上から、無数の「紐」が、こちらを目がけて迫ってくるのが見えたからだ。現実にはあり得ない光景に身が竦む。と同時に、なんだか目の奥が熱くなってきた。
「くそ、紗良……目を閉じていろ」
耳元で聞こえた声に、紗良は何も考えずに従った。続けて彼が何事かぶつぶつと呪文のようなものを唱えているのが聞こえる。
(なんだろう、これ……なんか、覚えが……?)
一瞬考え事に気を取られた瞬間、しゅるりと足に何かが巻き付いた。いや、何かなど見なくてもわかる。先ほどの紐だ。
ぞっと怖気が走って、紗良は思わず悲鳴を上げた。
「い、いやあ……っ!」
「落ち着け、大丈夫だ」
再び青年が耳元で囁くのと同時に、風を切るような音がいくつも耳に飛び込んでくる。それと同時に、紗良の靴が紐に絡め取られ、脱げてしまった。あ、と思った紗良が思わず目を開いて下を見ると、バラバラにちぎれた紐に混じって自分の靴が落ちていくのが見える。
それを目で追って、紗良は息を呑んだ。
紐の先には、なにか黒い靄のようなものがある。それに紗良の靴が触れたかと思うと、あっという間にそれに飲み込まれ、消えてしまったのだ。
「な、なに、あれ……」
「落ち神だ」
「は? お、おち……?」
事もなげにそう答えた青年は、困惑に目を瞬かせる紗良を抱え直すと上を見上げた。その視線に釣られて、紗良も同じように上を見る。すると、なんだか薄い膜のようなものが存在するのが見て取れた。
「なに……?」
先ほどから疑問ばかりが口をつく。だが、なにもわからないへんてこりんな状況に身を置いていると、どうしてもそうなってしまう。
だが、先ほどとは違い、青年は紗良の言葉に少し驚いたようだった。
「……あれが視認できるのか」
「あの、薄い膜……みたいなやつよね?」
紗良が確認すると、青年は頷いた。そうして、ふんと小さく鼻を鳴らすと再び視線を上に向ける。
途端に、移動速度がぐんとあがる。風圧に「わぷ」と声をあげた瞬間、その薄い膜をぺりっと突き破るような感覚があった。
視線を向けると、自分たちが突き破った場所から、その薄い膜がひび割れ、ぼろぼろになって崩れていく。青年はそれを一顧だにせず、トンと軽く着地をきめた。
周囲を見回せば、そこは先ほどまで紗良が歩いていた道の上だ。そこにゆっくりと降ろされると、足の裏になじみ深いアスファルトの感触がする。そのことに、ほっと息が漏れた。
目の前で、青年はがつがつとご飯をかきこんでいる。あっという間に消えていくおかず、突き出される茶碗に「おかわり」の声。
一体、どうしてこうなっているのだろう。
しゃもじを持ってご飯をよそいながら、紗良は「ううん」と小さな唸り声を上げた。
あの時、地面に降ろしてもらいほっと息をついた紗良は当然のことながら事情を知っていそうな青年に「アレは何なのか」と尋ねた。
おちがみ、とか言っていたが、それが何なのか理解できなかったからだ。
だが、そんな紗良に返答をしたのは、彼の「ぎゅるるるる〜〜〜〜」という派手なお腹の音だった。
「……お腹、空いてるの?」
「力を使うと、腹が減るんだ……」
紗良が問うと、彼は頭の上の耳をぺしゃりと伏せ、情けなさそうにそう答えた。力、というのはまず間違いなく、紗良を助けてくれた時に不思議な現象を起こしていたアレだろう。
つまり、彼が腹を空かせている理由に、紗良は無関係ではないと言うことになる。少しだけ迷ったが、再び「ぎゅるる」と彼の腹が鳴ると、さすがに気が咎める。
近くにファミレスでもあればそちらに、と思わなくもないが——紗良は彼の頭に生えた一対の獣耳を見て、大きなため息をついた。
これはもう、仕方が無いだろう。
「……うち、来る? 話も聞きたいし、簡単なもので良いなら、ご飯くらい用意できるよ」
「い、いいのか?」
言葉は遠慮しているように聞こえるが、その目はらんらんと輝いて期待に満ちあふれている。冷蔵庫の中身を思い出しながら、紗良はこくりと頷いた。
——というわけで、イマココ。
山盛りにしたご飯を手渡すと、青年は目を輝かせて食事を再開した。見ているだけでお腹がいっぱいになりそうな食べっぷりだ。
しかし、その速度に気を取られがちだが、箸の使い方も所作も美しく、美形効果も相まってなんだか品良くすら見える。
(美形って得だな……)
ぼんやり見つめていると、彼は照れたように微笑んだ。
「そんなに見ていられると、食いづらい、紗良」
「あ、ああ……ごめ……ん?」
何かが引っかかる。だが、紗良はその違和感の原因に気付けず、ひたすら彼が食事を終えるのを待ち続けていた。
「ふい……いや、食った食った……ごちそうさま、紗良。料理、上手なんだな」
「おそまつさまでした……あ、あれ?」
食事を終えた青年は、満足そうに腹をさすり、にこにこしながらそう言った。
あまりにも自然すぎて気付いていなかったが、青年は先ほどから紗良の名前を口にしている。遅まきながらそれに気付いて、紗良は首を傾げた。
「え、私の名前……なんで知っているの?」
「なんだ、まだ思い出せないのか?」
思わず紗良が問うと、青年はにやりと笑って机に寄りかかり、頬杖をついた。そうして、自分の耳をちょいちょいと引っ張ってみせる。
「この耳、見覚えあるだろう? ほら、俺だよ……コハクだよ」
「コハク……?」
コハク、というのがどうやら青年の名前らしい。しかし、どうやら自分と知り合いだと主張したいらしいコハクの言葉に、紗良ははて、と更に首を傾げた。
さすがにこんな美形、見たことがあれば覚えているはずだが……。
「あの頃は子狐だったからな……さすがにわからないか」
「こ、子狐……? あなた、狐なの……?」
「ああ、そうだ。白狐といえば有名だろう」
コハクはそう言うと、金色の瞳を細めて腕組みし、どやっとばかりに胸を張った。だが、紗良は全く心当たりを思い出せず、ううんと唸り声を上げた。
「思い出せないのか」
「う、うん……申し訳ないけど……」
「だが、白狐はわかるだろう?」
「え……うん、まあ……日本の妖怪だよね」
紗良が答えると、コハクは「ああ」と頷いた。
「まあ、俺たちは『あやかし』と自分たちを呼んでいるがな」
「あやかし……」
呼び方の問題だが、当人(?)たちがそう言うのなら、そう呼ぶのが正しいのだろう。紗良が呟くと、コハクは満足そうに頷いた。
「それだけわかれば良い。だから、紗良」
「な、何?」
突然居住まいを正したコハクに気圧されて、紗良はわずかに身を引いた。だが、その腕をがしっと捕まれて、じっと正面から見つめられる。
ひえっ、と紗良が息を呑んだと同時に、コハクが口を開いた。
「俺と結婚しろ」
「は、はあ……!?」
その時、紗良の脳裏に浮かんだのは——変なのと関わり合いになってしまった、という後悔だった。いくら顔が良くても、さすがに出会った当日に求婚はない。
(いや、コハクの話からすると、私のことを彼は知っていたみたいだけど……)
それはそれで怖い。もしかするとストーカーなんじゃなかろうか。それならば、先ほども急に現れたことの説明がつく。
「い、いや、無理です、無理」
「……そうか」
ぶんぶんと首を横に振って紗良が答えると、コハクは至極あっさりとそう言い、すくっと立ち上がった。
「そうすぐに頷いて貰えるとは思ってない。また来る」
「は、はあ!?」
がらがらと窓を開け、コハクはそこから身を乗り出した。それから背後の紗良を振り返ると「戸締まりはきちんとしろよ」とだけ言い残し、ベランダを乗り越えてひらりと宙に身を躍らせる。
紗良は仰天して目をむいた。ここは六階建てのマンションの五階だ。さすがに落ちれば怪我をする。慌てて駆け寄ったが、既に彼の姿はどこにもなかった。
「え、ええ……?」
呆然として、紗良はベランダにへたり込む。
今日の出来事について彼に聞きそびれたことに気がついたのは、そうしてしばらく経った後のことだった。
「ん、んん……」
——夢の中。紗良は幼い頃よく遊んだ、実家である神社の裏手にいた。
どうしてそれが夢の中だと気がついたかというと、紗良自身の姿が小学生の頃のものになっていたからだ。
(そうだ……この頃は良く、神社の裏手にある川で遊んでた……)
神社は山の頂上付近にあるため、川と言っても大したものではない。湧き水がちょろちょろと流れ出した程度の小さな川だ。
近所に友達のいない紗良は、ほとんど毎日をここで過ごしていた。
この日も、そんな何の変哲も無い一日になるはずだった。だが、お気に入りの川縁に来てみると、なんだか白いものが丸まっている。近くによって触ってみると生暖かく——それがどうやら、子犬のようだと気がついた。
さらによく見てみれば、その子犬は足から血を流している。
(怪我をしているのね……)
驚いた紗良は、恐る恐る子犬を抱き上げると慌てたように家の方角へ走り出した。外にある水道で足を洗ってやり、傷口を確認する。
幸い、大きな怪我ではないようだ。だが、しばらくは歩くのが大変だろう。
「どうしようかなぁ……」
『たすけてあげて、たすけてあげて』
紗良が呟くと、小さな光の球がいくつかふわふわと周囲を取り囲み、そう囁いてくる。だが、父や母に見せれば、きっと放っておきなさいと言われるだろう。
だが、これまでにもこの光の球の言うことをきいたほうが、良いことがあるのも知っている。
少しだけ悩んだ紗良は、その子犬をこっそりと自分の部屋に連れ込んだ。
(——あ、そう、だ)
だんだんとその景色が遠のいて、代わりにピピピという電子音が聞こえてくる。
(あれが、コハク——私が付けた名前だ……。そうか、あれは犬じゃなくて……)
最後の最後でそれを思い出すと、紗良の意識は急浮上していく。ゆっくりと目を開き、時計を確認した紗良は「ぎゃあ」と叫ぶと慌てて飛び起き学校へ向かう準備を始めた。
「おう、おはよう、紗良」
マンションのエントランスから出たところで突然声をかけられ、紗良はぎょっとした。慌てて声の発生源を求め、きょろきょろと周囲を見回す。すると、ちょうど近くの植え込み付近に見覚えのある人物が——いや、あやかしがしゃがみ込んでいた。
「コ、コハク……?」
「おう」
ぴょんと跳ねるようにして立ち上がると、コハクは片手をあげて紗良に近づいた。その姿をよくよく見れば、銀髪に金の瞳の美形なのは変わらないが、頭についていた狐の耳が綺麗さっぱり消え失せている。
驚いてまじまじと見つめると、彼はその視線に気付いて「ああ」と頭に手をやった。
「さすがに昼日中、耳を出してうろついていては目立つからな」
「……いや、狐の耳なんてなくても充分目立つでしょうよ……」
現に、今も目の前の道を通る歩行者が、ちらちらとコハクに視線を向けている。髪や目の色もそうだが、とにかくその容貌が整いすぎていて目立ってしまうのだ。
だが、彼は紗良の言葉にきょとんとして、首を傾げた。
「まだどこかおかしなところがあるか?」
「美形過ぎるのよ」
そう言いながら、紗良は鞄のポケットからスマホを取り出すと、時間を確認して「やばい」と呟いた。こんなところで妙なあやかしとお喋りしているような時間は無いのだ。
「ごめん、私急ぐから……」
「ああ、学校とやらだな。遅刻してはならんのだろう? さ、早く行こう」
「え、え? ついてくるつもり?」
紗良の言葉に、コハクは当然のような顔をして頷いた。だが当然ここでお別れするつもりだった紗良は困惑しきりだ。意味も無く周囲を見回せば、通行人の中にはちらほらと紗良と同じ学校の生徒も混じっている。
ここで押し問答になって、目立つのは避けたい。いや、彼がいる時点でもうどうしようもない気もするが——。
紗良は一つため息をつくと、少しだけ急ぎ足で学校に向かって歩き出した。
「ちょっとぉ、紗良ったら、アレなに、なんなの?」
「私達に黙ってあんな美形、どこでつかまえたわけ?」
朝は時間がギリギリだったために助かったが、やはり見逃しては貰えなかったか——と、紗良は小さくため息をついた。
場所は学校の中庭、三人が定位置にしている昼食場所だ。今は昼休みで、こうして弁当を広げている。時間の無かった紗良はおにぎりだけだ。
敷物を敷いて、正面に座っているのが田崎花音。名前はかわいらしいのだが、どちらかというと男勝りな陸上部のホープだ。
その右に座っているのは、曽我実琴。ロングヘアをポニーテールに結った、きりりとした美人で、剣道部に所属している。
二人とも高校に入ってからの友人で、同じクラス。出席番号が近かったため、よく喋るようになって意気投合したのである。
その二人に詰め寄られ、紗良は引きつった笑いを漏らした。
(こうなるから嫌だったんだけどなぁ……)
はぐっとおにぎりに齧りつきながら、紗良は必死になってどう説明しようかと頭を悩ませた。