かくりよに咲くは夢見の月かな

 息を切らせながらなんとか石段を登り終えると、目の前には朽ち果てた社が現れた。屋根瓦はところどころ落ち、障子は穴だらけ、木の扉は風で飛ばされたのか影も形も無くなっていた。
 誰もが住んでいないどころか、久しく手入れをされていないのは一目瞭然だった。

「ここなら誰にも迷惑をかけないよね……」

 それだけ呟くと、弥生は直接地面に座り込む。空を見上げれば、弥生を軸に社の辺りにだけ暗雲がかかっていた。弥生の顔に雨雲から落ちてきた雫が当たると雨が振り始め、やがて風を伴う嵐となった。

(どうしてこんなことになったんだろう……。バイトを終えて、ただ帰るだけだったのに……)

 いつもだったら今頃自宅に着いて寛いでいる時間だろう。夕食を食べながらテレビを観ているか、もしかしたら外食をしていたかもしれない。
 それがどうして誰かに追われて車に轢かれて、かくりよに迷い込んで鬼の力を手に入れてしまった。
 水鬼だというあの男は「早く鬼の力を返さないと鬼になってしまう」と言っていた。今ならまだ人間に戻れるのだろうか、それとももう鬼になってしまったのだろうか。

「分からない。何もかも分からない! 何でこんなことになったの……。私はただ平穏に暮らしたかっただけなのに……!」

 弥生の目から涙が零れる。子供の頃からあやかしが見えてしまうが為に苦労してきた。怖いあやかしがいると言っても誰も信じてくれなかった。
 両親には気味悪がられ、せっかく出来た友人からは変人として白い目で見られてしまう。弥生の話を唯一信じてくれた祖母はもうどこにもいない。
 孤独の二文字に押し潰されそうになる度に、どうして自分はこの世界に生まれてきてしまったのかと考えてしまう。

 ――せっかくあやかしが見えるのなら、人間側ではなく、あやかし側に生まれたかったとも。

 それならせめて静かに暮らしたかった。人もあやかしも何もかも関係ない、自分が自分でいられる場所で……。

 強風に煽られた社の屋根瓦がとうとう音を立てながら崩れ落ちてきた。落下地点には地面に座り込んだ弥生がいた。
 避けないと大量の屋根瓦で圧死してしまうのは分かっていた。それでも身体が動かなかった。
 自分が死ぬことでこの暴風雨が収まるのなら――鬼の力を返せるのならそれでいいと思った。
 顔を上げれば滝のような雨粒が顔に当たり、台風の時に吹くような大風が髪を揺らして巻き上げる。乱雲から降ってくる雨雫はこんなに冷たいものだっただろうか。
 目前に迫る屋根瓦を見つめながらその時を待っていた時、怒声が聞こえてきた。

「馬鹿が! ここで死ぬつもりか!?」

 弾かれたように振り向いた弥生の視界で、紺と青の縞模様が動いた。
 ほんの瞬きをする間に、弥生は引き摺られると地面に倒される。さっきまで弥生が座っていた場所に無数の屋根瓦が降り注ぎ、砕けた屋根瓦の破片や泥が辺りを舞ったのだった。

「くうぅ……うぅ……」

 土と雨の臭いが辺りを漂う中、近くで声が聞こえてきて弥生は閉じていた目を開ける。
 目の前には崩れ落ちてきた屋根瓦から弥生を庇うように男が覆い被さっており、屋根瓦の破片が当たったのか苦痛で顔を歪めながら小さく呻いていたのであった。

「あっ……」
「命を……粗末にするな……」

 男はそれだけ呟くと弥生の上からそっと身を引く。やはり痛かったのか身体を押さえたので、弥生も起き上がると男に手を貸そうとする。

「ごめんなさい……私のせいで……」

 涙声になりながら手を伸ばして男の身体を支えようとするが、今度は社を囲む木々から嫌な音が聞こえてくる。この狂風で限界が来たのかもしれない。ここにいたら今度は倒木の下敷きになってしまう。

(自分はどうなってもいい。せめてこの人だけでも)
 
 腕を引っ込めて距離を取ろうとした時、男は片腕を回すと弥生を引き寄せた。
 腰を掴まれて身動きが取れずにいると、頭上からは安心させるような静かな声音が聞こえてきたのであった。

「大丈夫だ。大丈夫だから落ち着け。ゆっくり深呼吸をするんだ。そうしたらこの嵐は収まる」
「で、でも、その前に木が倒れてくるかも……」
「何があっても俺が側についている。木が倒れてきても俺が庇う。もっと肩の力を抜いた方がいい。俺に呼吸を合わせろ。気持ちを落ち着けるんだ」

 言われた通りに何度も息を吸っては吐いてを繰り返す。その間も男は弥生の背中を擦り続けた。まるで泣きじゃくった幼子を落ち着かせるような優しい手つきに弥生の心が落ち着いてくる。
 そんな弥生に呼応するかのように風雨は弱まり、雨雲が霧散する。やがて無数の糠星が輝く宵の空へと姿を変えたのであった。

「収まった……」
「そのようだな」
「もう二度と星空を見られないと思っていたから……」

 男の腕の中から呆けたように空を眺めていると、緊張の糸が緩んだのか力が抜けて、両目から涙が溢れてしまう。
 男に身を委ねて泣いていると、そんな弥生を慰めるように男がそっと抱き上げたのであった。
「少しは落ち着いたか?」

 埃だらけの社の階段に座って屋根から落ちてくる雨垂れを眺めていると、どこかに行っていた男が両手にラムネ瓶を持って戻ってくる。
 男の着物と草履は雨と泥ですっかり汚れて見るも無残な姿になっていたが、それは弥生も同じだろう。服は雨で濡れて、靴下は泥だらけであった。きっと化粧も落ちて、髪も乱れている。

「近くの湧き水を汲んでこようとここを出たら、丁度ラムネ売りが売り歩きをしていた」
「ありがとうございます……」

 男からラムネ瓶を受け取ると、月明りが反射して瓶に自分の姿が映っていた。服や化粧が乱れていたのは思っていた通りだが、それよりも驚いたのはその姿であった。

「あれだけ妖力を暴走させたんだ。しばらく目はそのままだろうな」

 ラムネ瓶を見たまま固まった弥生に気付いたのか、隣に座った男が自分のラムネの飲みながら答えてくれる。
 弥生の目は男が火球や水球を放った時と同じような金色に染まっており、頭の中心には小さな角が一本生えていた。顔の輪郭は人間だった頃より細くなり、目鼻立ちがはっきりしているような気がした。肩まで伸ばしていた黒い髪も胸元まで伸びており、心なしか胸元が窮屈に感じられた。
 自分でありながら自分じゃない姿に、戸惑いを隠せなかった。

「道理で行く先々で女鬼って言われた訳ですね……」

 カラーコンタクトを入れたような鮮やかな金色の目と頭から生えた角。逃げていた時に女鬼と言われて恐れられた意味がようやく分かった気がした。
 こんな姿は鬼以外の何者でもない。人間だと言っても誰も信じてくれるはずがなかった。

「怖がられたのか?」
「化け物って言われて石を投げられました。当たらなかったんですが、ショックが大きくて……」

 ラムネ瓶を開けると弥生も口をつける。乾いた喉に染みる冷たさと炭酸が気持ち良い。瓶を傾ける度に中のビー玉が音を立てるのも懐かしかった。
 
(美味しい……)
 
 ラムネ自体飲んだのは数年ぶりだった。祭りの縁日で飲んだのが最後なのでもう数年以上前だろう。
 祭り会場には人間だけではなく、あやかしも沢山集まる。祖母が亡くなってあやかしと関わらないようにしてからは祭りにも行かなくなった。
 ラムネに意識を向けていた弥生だったが、隣から視線を感じて目線を向ける。そこには空のラムネ瓶を手に男が弥生を見つめていたのであった。

「顔についていますか?」
「何となく、弥彦に……横顔が亡くなった知人に似ている気がしてな」

 男は弥生の角に触れると指先で軽く擦る。くすぐったいようなむず痒い感覚に、弥生は「ひゃ!?」と声を上げてしまう。

「これならもう石は投げられないだろう。今の姿なら人間や他のあやかしと見分けも付かない」

 ラムネ瓶を鏡代わりにして覗き込むと、弥生の頭から角が消えていた。どんな手品を使ったのかと男を見るが、男はただ端的に「角が戻らない時はただ軽く刺激を与えれば身体の中に引っ込む」と教えてくれたのであった。

「生まれたばかりの鬼の子供は角が出ているからな。自分の意思で出し入れ出来るようになるまでこうして誰かに触ってもらう。子供に限らず、興奮して自分の意思で角が戻らなくなった時も同じだ」
「ありがとうございます……。気を遣っていただいて……」
「これで分かっただろう。鬼の力は人間には過ぎた代物なんだ。そろそろ返してくれないか?」
「どうやって返せばいいんですか?」
「鬼の力の取り出し方は鬼ごとに違う。自分が持つ鬼の力に聞いてくれ。誰かが強い力を使って強引に奪おうとしない限りは、本人が死ぬまで取り出せない。鬼の力が無い今の俺には強引に取り出すことも敵わない。お前が返してくれない限りは」
 
 懇願するような男の顔を見ていられなくて弥生は目を逸らす。返せるものなら返したいが、返し方が分からなかった。さっきの暴風雨が止んだ後から鬼の力は鳴りを潜めてしまい、今は物音一つ立てていなかった。

「すみません。取り出し方が分からないんです。鬼の力も何も言っていなくて……」

 ラムネ瓶を両手で強く握りしめていると、「そうか」と男は嘆息する。

「俺の力は別として、最初に取り込んだ風鬼の力が何も言っていないのなら仕方がない。明日まで待ってみるか」
「すみません……」
「そう何度も謝らなくていい。人間とはそういう生き物なのか。それとも弥彦の魂がそうさせるのか?」
「弥彦さん?」
「亡くなった風鬼の名前だ。割れたガラス瓶の中に入れていた風鬼の魂だ」

 ガラス瓶の中に入っていた緑色の光を思い出す。蛍のように暗い部屋で輝いていた緑の球体。それを男は「亡くなった風鬼の魂」と呼んでいた。あれが弥彦の魂なのだろう。

「死んだばかりの鬼の魂には生前の人格や意思が残っていることがあると言われている。鬼の力も魂に触れたからといって、自分のものとして受け継げる訳じゃない。生前の人格が誰に自分の受け継がせたいか決めている必要がある。その相手は必ずしも同族じゃなくていい。他のあやかしでも人間でもいいんだ。ただその為には一度相手をかくりよに連れて来なければならない」
「弥彦さんが私に力を受け継がせたいと考えて、私をかくりよに連れて来たのでしょうか……」
「さあな」

 その時、石段を登ってくる複数の音が聞こえてきた。男も気づいたようで、顔を上げると石段に顔を向けたのであった。
「通報があった暴走している女鬼とはお前のことか?」

 石段を登ってきたのは闇に紛れてしまいそうな紺色の制服姿の男たちだった。歴史の教科書で見たことがあった。昔の警察官の制服だった。

「よくここにいると分かったな」

 男が弥生を庇うように警察官の前に立つ。声を掛けてきた警察官は不審そうに眉を上げたが、すぐに元の無表情に戻った。

「この近辺からも通報があった。誰かが廃社となった社で暴れて、瓦が崩れ落ちたと」
「それにしては到着まで随分と時間が掛かったな」

 両腕を組んで挑発するような男の態度に警察官は舌打ちすると、男の後ろから様子を見ていた弥生を睨め付ける。

「とにかくそこの女鬼の身柄を引き渡してもらおう」
「駄目だ。彼女は渡せない」
「何っ!? 貴様、警察に逆らうのか?」

 他の警察官が二人の脇をすり抜けて弥生を捕らえようとするが、男は両腕を伸ばすと弥生の前に立ち塞がる。

「逆らうつもりはない。だが彼女は俺の身内だ。身内の問題はまず身内で解決させてもらいたい」
「身内? そこの女鬼とどういう関係だ」
「恋人だ」
「こいびと!? 恋人だと……!?」

 驚いたのか声を裏返した警察官と同じように弥生も声を上げそうになって、慌てて手で口を押さえる。
 他の警察官も声は上げなかったものの、目を丸く見開いていたのであった。

「そうだ、恋人だ。今後について話している内に少々意見の食い違いがあってな。痴話喧嘩に発展してしまった」
「痴話喧嘩があの騒動だというのか?」
「別に珍しくないだろう。先日もお偉いさんたちばかりが住む上町では、一反木綿の大旦那夫婦が大喧嘩して木綿製品の生産が止まっただろう。あれと同じだよ」

 弥生の場所からは背を向けている男の顔は見えないが、どんな顔をして弥生を恋人だと言っているのだろうか。
 弥生はそっと動くと、立て板に水のように話し続ける男の斜め後ろに移動した。

「一反木綿の大旦那夫婦は倅の婚姻について揉めたと聞いているが……」
「俺たちも同じだ。近々夫婦になるから式の打ち合わせをしていた。俺は神前式がいいと言ったんだが、彼女は長いこと現世に住んでいたからか西洋式がいいと言う。ウエディングドレスとやらを着てみたいらしい」
「だって憧れるじゃないですか!? 昔ながらの白無垢も良いですが、白以外の色もデザインも沢山あるウエディングドレスも! 現世(あっち)で沢山見ました!」

 男の話に合わせて弥生も話し出す。最初こそ弥生を見下ろす男の顔は驚いていたが、すぐに面白いと言いたげな笑みに変わる。
 弥生の肩を引き寄せながら、「さっきも言っただろう」と話し出す。

「ここには教会なんて数えるほどしか無いんだ。あやかしには神前式が定番だからな」
「でも数えられるくらいの教会はあるんですよね。だったら西洋式も出来ます!」

 警察官は弥生たちがまた痴話喧嘩を始めると思ったのか、わざとらしい咳払いをする。

「騒ぎにしたのは謝罪する。だが、彼女を連れて行くのは止めて欲しい。身内の問題は身内で解決する。当然だろう」
「……今回は注意だけで済まそう。だが次は容赦しないからな」
「肝に銘じよう」

 警察官は去り際に「そこの女鬼」と弥生に声を掛けてくる。

「現世にいたと言っていたな。あっちのあやかし事情は知らないが、ここでは女鬼は貴重だ。若い女鬼となれば、ほとんど残っていないからな」

 そうなのかと男を見れば、弥生を見ながら小さく頷かれる。

「場合によっては我々警察でも手が出せん。くれぐれも気をつけるんだな」

 警察官たちが去り、足音が遠ざかってしばらくすると、二人はどちらともなく笑ったのであった。

「一反木綿の大旦那夫婦が喧嘩して木綿製品の製造に影響が出たのは知っていたが、理由が婚姻とは知らなかった。危うくボロを出すところだった。お前のおかげで助かった」
「そんなことはありません。貴方の作り話が良かったから合わせやすかったんです」
「現世の話題を出したのも良かったのかもしれないな。何にしてもこんなに笑ったのはしばらくぶりだ。弥彦が亡くなって以来だからどれくらいだ?」
「私もこんなに笑ったのは久しぶりです。いつもあやかしから逃げ回るような生活をして、人間関係も上手くいかなくて、ずっと周囲とは距離を取っていたから……」
「元からあやかしが見える体質だったのか?」
「はい……」
「それは……苦労したな」

 労わってくれるとは思わず、弥生は男の顔を凝視してしまう。すると男はわずかに顔を赤くしながら「そういえば……」と何かを思い出す。

「まだ名前を名乗っていなかったな。俺の名前は(おぼろ)。朧月夜の朧だ」
「私は弥生と言います。三月の別名称とも言われている弥生です」
「今の時期に合う名前だな」
「ということは、ここも今は三月なんですか?」
「かくりよは現世の裏側にある。季節や時間は現世と全く一緒だ」

 朧はラムネ瓶を持つと近くの軒下で溜まっていた水溜まりの前で膝をつく。ラムネ瓶を軽く洗うと立ち上がったのであった。

「風邪を引く前にそろそろ帰るとするか」
「帰るって、どこに……?」
「決まっている。俺の家だ。行くあても無いだろう。鬼の力を取り出せるようになるまで、うちで暮らすといい」
「いいんですか……? 私、部屋をめちゃくちゃにしちゃいましたが……」
「こんなところで野宿をさせた方が何があるか分からない。無論、ただでは住まわせない。家のことを手伝ってもらう。鬼の力が無いと人間と同じく地道に片付けるしかないから不便だ……。力を貸して欲しい」
「……っ! はい! しっかり片付けます!」

 弥生は残っていたラムネを飲み干すと、空の瓶を持って朧の後を追いかけたのであった。
 朧の家に着くまでの帰り道で朧から鬼や鬼が持つあやかしの力、そしてあやかしについて教えてもらった。
 鬼は大きく分けて五つの属性に分かれているらしい。
 火の力を操る火鬼、水の力を操る水鬼、土の力を操る土鬼、鋼や鉱物を操る金鬼、そして木を操る木鬼である。他にも弥生が持っている風を操る風鬼、雷を操る雷鬼、氷を操る氷鬼などもいるが、それは木鬼や水鬼の中に属するとのことであった。
 五属性の内、土鬼と金鬼はほんの数人しか残っておらず、他の三属性の鬼も数を減らしていた。近年は妖力が弱く、鬼の力を振るえない者ばかり増え、更に女鬼となると各属性に一割いるかいないかという状態らしい。

「どうして、鬼は減ってしまったんですか?」
「大昔に大規模なあやかし狩りがあったんだ。知っているか。当時の武士や陰陽師といった人間たちが日本に点在するあやかしを討伐した話」
「歴史や民俗学の授業で聞いたことがあります」

 それ以外でも鬼を退治した昔話や民話をいくつも知っていた。山に住んで人間に悪さをする鬼、金銀財宝を人間たちから取り上げて独り占めする鬼の話などがあった。

「昔の現世とかくりよは今よりもっと密接していた。行き来は簡単で、あやかしが見える人間も大勢いた。それがいつからかあやかしは恐ろしい存在として扱われるようになった。そんな俺たちあやかしを退治する為に現世から多くの人間がかくりよに押し寄せたんだ」

 あやかしたちは協力して人間たちと戦い、現世に追い返したが、多くの同胞を喪った。
 どうにか生き残ったものの、戦いで怪我を負って妖力を失ったあやかしもいれば、種族を存続させるのが難しくなり、滅びたあやかしもいた。
 また戦いで武勲を立てたあやかしと逃げ回っていたあやかしとの間には完全な溝が出来てしまい、功績を上げたあやかしとその種族は上町と言われる上級街で贅沢三昧の生活を送り、何もしなかったあやかしは下町と言われる下級街で細々と暮らすようになったのだった。
 下町にも住めない力の弱いあやかしは現世に逃げ、人間を避けるように息を潜めて暮らしているらしい。弥生や弥生の祖母の周りに集まっていたあやかしもかくりよから逃げて来たあやかしたちだったのだろう。

「どうして、人間はそんなことをしたのでしょうか。全てのあやかしが悪いあやかしじゃないのに……」
「これは恐らくだが、当時の権力者たちは自分たちの権力を民や周辺諸国に誇示したかった。それには成果が必要だが、成果に繋がるような出来事が国内で起きていなかった。手っ取り早く成果を上げるには戦いが良かったが、それには敵が必要だった。例えば誰もが知っていて、誰もが恐れているような存在が……」
「それであやかしを敵と定めてかくりよにやって来たんですか。自分たちが強いと示す為だけに……」
「あくまで俺の想像だけどな。本当のところは誰にも分からない。だがその戦いで鬼の大半が討伐されてしまった。女鬼も子鬼も関係なく……。あやかしの中でも特に鬼は古くから民間伝承などで伝えられている恐怖の存在だ。知名度が高い鬼は敵として丁度良かったらしい」
「それでも鬼だからって理由だけで殺されるのは納得がいきません! こんなのただの虐殺です」
「虐殺か……。そういう考え方もあるんだな」

 含むように朧が呟いたので、弥生は「違いますか?」と尋ねるが、朧は何も答えてくれなかった。
 
「生き残った鬼を始めとするあやかしたちは、新しい生き方を考える必要があった。その際に婚姻に対する考え方が変わったんだ。それまでは同じ種族で同じ属性を持つ同族じゃなければ結婚出来なかったからな」
 
 それまでは子孫を残す為に同じ種族内の同族同士が婚姻を結ぶのが通例だったが、人間たちとの戦いが原因で絶えてしまったところもあった。
 そういう時は同種族内の各属性の代表者同士で話し合って、その属性が持つあやかしの力を絶やさないようにしていた。
 また朧がやろうとしていた風鬼の力を受け継ぐ儀式のように、養子として引き取ったあやかしに亡くなったあやかしの妖力ごと力を受け継がせることで存続させている種族もいる。
 ただ今度は力を受け継ぐ側のあやかしたちの妖力が年々弱まっており、あやかしの力を受け継いでも力の受け皿となるあやかしの身体が耐えられずに、力ごとあやかしが消滅してしまう話が増えてきた。
 後継者に定めたあやかしが力を受け継げず、種族が途絶えしまったあやかしの話も出て来るようになった。
 この状態が続けば、いつの日か全てのあやかしが根絶やしになってしまうのではないかと懸念の声もあり、このやり方については、同じ種族の中でも意見が賛否両論で分かれているという。

「俺の両親も水と火で属性が違っていた。俺は父の力を持って生まれたが、その後母が亡くなり、力を受け継ぐことになった。それが火鬼の力だった」
「朧さんの火の力はお母さんの力だったんですね……」
「違う属性を受け継いだ分だけ身体への負担が大きくなる。風鬼だった弥彦が亡くなって、弥彦の力も受け継ぐつもりだったが、さすがに三属性を扱うのは難しいと思っていた。もっとも三つ目に限らず、全ての力は別のところに行ってしまったが……」
「すみません……」
「謝るな。ほらもうすぐ着くぞ」

 ここから逃げようと窓から出た時はゆっくり眺めている暇が無かったが、改めて見た朧の家は昔ながらの日本家屋で、日本庭園や和室以外にも縁側や洋室、書斎もあった。
 玄関で汚れた靴下を脱いだ時に、ガラスを踏んで足裏を切ったのを思い出して弥生は手足を見るが、何故か傷は跡形もなく消えていた。
 その時に流れた血の痕は靴下に残っていたので怪我をしたのは間違いない。何故か傷口だけが綺麗さっぱり無くなって、怪我を負う前の状態に戻っていたのであった。
 背中を丸めながら上がり框に座って草履を脱いでいた朧に聞くと、鬼になったことで妖力が弥生の治癒力を向上させて、傷の治療を促進させたのだと教えられたのだった。
 あやかしは人間よりも寿命が長く、治癒力も高いので不死身に近い。加えて成人すると身体の成長や老化が遅くなるので不老不死でもあるらしい。
 寿命や治癒力は妖力が関係しており、妖力が強いほど不老不死になるが、それでも病気や自力での治癒が困難な怪我を負った時は妖力の強弱に限らず死んでしまうとのことであった。
 夜も更けてきたので、片付けは明日やることにして、弥生は朧の勧めで雨や土埃で汚れた身体を流すことにした。
 朧からは家の中のものは自由に使っていいと言われたので、石鹸や手拭い類をありがたく借りることにする。
 浴室は木の温もりを感じる壁と浴槽、昔ながらの石造りの床で出来ており、祖母の家を思い出して懐かしい気持ちになる。頭からシャワーを浴びて身体を洗っていると、扉の外から声を掛けられる。

「着替えを持って来たから自由に使ってくれ。部屋にも置いておく」

 朧は用件だけ話すと、礼を言う前にすぐに出て行ってしまった。弥生はそっと扉を開けると着替えを確認する。
 木で編まれた脱衣籠の中には、旅館でよく見かけるような明らかに女性ものと思われる薄桃色の寝巻きが置かれていたのであった。

(朧さんのものじゃないよね……?)

 気になりつつも、弥生は程よく身体を温めたところで用意してもらった寝巻きに着替えると、朧から借りた客間に戻ったのであった。
 客間に入ると、部屋の真ん中に敷いた布団の枕元に着物が一式置かれていた。濃紺色の生地に小花柄の小紋と薄茶色の帯、白の帯締めに白と茶の帯留め、といった大人っぽい色でありながらも可愛らしい着物に、弥生の心がわずかに弾むがすぐに沈んでしまう。
 せっかく用意して貰ったが、着物を着たのが数えるほどしかない弥生には着方が分からなかった。朧に聞くと余計に気を遣わせてしまうかもしれない。
 鬼の力を取り出すまで、一時的にお世話になっているだけの朧にあまり迷惑を掛けたくなかった。既に弥彦の風鬼の力だけではなく、朧の鬼の力まで取ってしまったことで、朧を困らせている。これ以上の負担は掛けさせたくなかった。
 一応さっきまで弥生が着ていた洋服は、風呂に入る前に洗濯して、ハンガーに掛けて干してはいるものの、明日の朝まで乾くか分からなかった。

(多少生乾きでも着よう。どこかで洋服を手に入れられればいいんだけど……)

 布団に寝転びながら明日の服について考えている内に、疲れが出てきたのか少しずつ睡魔が襲ってくる。
 今後の心配をして眠れなくなってもおかしくないのに、こんな状況でも眠くなるのは朧が悪い人では無いからだろうか。それとも朧に信頼を寄せているからなのか……。
 気がつくと、弥生は両目を閉じて眠りの世界へと落ちていたのであった――。
 年季の入った猪口に透明な清酒を注ぐと、朧は誰も座っていない、盆を挟んだ反対側に置く。
 弥生の着替えを用意した朧は清酒を入れた徳利と()()()の猪口を用意すると、全ての明かりを消した暗い縁側に座って一人酒を嗜んでいたのであった。

(あの娘はもう寝たのか?)

 離れたところで襖の開閉音が聞こえてくる。耳を澄ませながら猪口を傾けていると、床板が軋む音と共に足音が近づいて来たのであった。

「眠れないのか。それならお前も月見酒でもどう……」
「相変わらずしけた顔をしているな、朧」

 弥生だと思って振り返らず話していた朧だったが、二度と聞けないはずの声が聞こえてきて手が止まる。振り向くと、そこには亡き親友が最後に会った時と同じ姿のまま、何食わぬ顔をして立っていたのであった。

「弥彦! お前は死んだはずじゃ……」
「死んだよ。今のおれはやよちゃんに宿っている風鬼の魂に残った意識。やよちゃんの身体を借りて実体化したんだ」
「やよって……あの娘はどうした?」
「疲れて眠っているよ。死んで鬼になって、力が暴走して散々な目に遭ったからな。布団で横になったらすぐ寝落ちしたよ……。で、いつやよちゃんが目を覚ますか分からないから単刀直入に言う。朧、今すぐ脱げ」
「脱げってなんだ。まさかお前そっちの気があったのか。それとも死んでようやく本性が……」
「ちがうちがう。勘違いするな! お前の背中の傷が心配なんだ。落ちてきた瓦からやよちゃんを庇った時に背中を怪我しただろう。隠しているみたいだがバレバレだぜ」

 弥彦の言う通りだった。廃社となった社の屋根瓦から弥生を庇った時に割れた瓦や瓦の欠片が礫のように朧の背中に当たっていた。幸いにも頭に当たらなかったが、鬼の力どころか妖力も無い、人間も同然の今の状態で当たっていたら、命は無かったかもしれない。
 湧き水を汲みに行った時に軽く背中を冷やしたが痛みは引かず、弥生と話している間もずっと痛み続けていた。それもあって弥生が靴を履いていないことに気づいていながらも、朧は弥生を背負うことも手を貸すことも出来ないどころか、怪我を悟られないようにして、どうにか平静な振りをして歩くのが精一杯であった。
 歩いている間も傷口は疼き続けていたので、朧は背中を丸めて歩いていたが、いつ弥生が気付くか気が気じゃなかった。家に着くまで弥生と話すことで、どうにか自分から弥生の目を逸らさせたのであった。

「お前のことだから、力を暴走させたやよちゃんに気を遣ったつもりだろう。でもおれは気づいてたぜ」
「気づいていたのか……」
 
 朧は深いため息をついてしまう。 やはり弥彦には気付かれていた。もしかしたら弥生にも気付かれていたかもしれない。落ち込んでなければいいが……。
 頭を押さえて苦い顔をしていると弥彦に一笑される。

「でもお前が隠していたからおれが出て来られたんだ。もしやよちゃんに正直に話していたらおれの出る幕は無かった。こうして過去の人間が出て来て話しをするつもりはなかったさ」
「過去の人間って言うなよ。お前は今もあの娘の中で生きているだろう」
「死んだ以上、もう過去の人間だよ。ほら、早く背中を見せてくれ」

 渋々、朧は羽織を脱いで帯を緩めると上半身を脱ぐ。その間に軟膏を持って来た弥彦が後ろに座ったのだった。
 
「こいつは酷いな。あちこち痣だらけだ」
 
 自分では背中が見えないので分からないが、そこまで酷いのだろうか。
 そんなことを考えていると、急に痛いところを押されて、朧は声にならない悲鳴を上げる。

「痛かったか?」
「……ああ」
「痣になっているからな」

 分かっていながら押してきた弥彦を睨みつけると、弥彦は失笑しながら軟膏を指に取って痣に塗ってくれる。
 子供の頃は弥彦とあちこち遊び回り、時には喧嘩をして怪我を負う度に、こうして母親に塗ってもらったことがあった。
 母親が亡くなり、弥彦も死んだ以上、もう背中に軟膏を塗ってくれるような家族も心友もいないと思っていた。今回の怪我も自分の手の届く範囲にない傷は何の手当てをしないつもりだった。
 それなのに心配した亡き親友が、巻き込まれただけの人間の身体を媒介に現れてしまった。昔と同じように傷口に軟膏を塗って、寝間着を着直すのさえ手を貸してくれたのであった。
「今ので軟膏も結構減ったな。明日にでも買い足しておいた方がいい。そして明日はやよちゃんに塗ってもらえ」
「いや。あの娘は明日中に獄卒に引き渡す。俺とお前の力も他の鬼に頼んで強制的に出してもらう」
「何だと?」
「言葉通りの意味だ。人間には人間の理がある。あの娘は人間の元に帰すべきだ。そうすれば輪廻転生の輪に戻って、また次の生を得られる」
「やよちゃんはそれでいいとしてお前はどうする。この先ずっと一人で生きていくつもりか。自宅の縁側で居るはずのない俺の席まで用意して……。現実から目を逸らして、一人で飲み続けるのか?」

 空になった自分の猪口に透明な清酒を注ぎながら、朧は「ああ」と肯定する。

「それが俺の運命だったんだ。生まれつき鬼の力が強かったが為に、母親共々一族を追い出された俺の宿命なんだ」
「それはおれも同じだ。力が強いだけの風鬼――それも風鬼一族にとっては不要な男鬼として生まれた。これが女鬼だったら子孫繫栄の為の子種として重宝されたんだけどな……」

 朧も弥彦も妖力が弱いはずのあやかしの中で桁外れの妖力と鬼の力を持って生まれてしまったが為に、一族が住む上町を追われて下町で息を潜めて暮らすことになった。母親が一緒だった朧はまだ衣食住もあったが、身一つで捨てられた弥彦は浮浪児のような生活を送っていた。
 それが朧と出会い、母親の勧めもあって、やがて三人で共に暮らすようになった。弥彦は朧の親友であると同時に、共に育った兄弟のような間柄でもあった。
 母親が他界した後も弥彦がいる内は良かった。だがその弥彦も亡くなってしまった。もう朧には何も残っていない。
 亡友を想いながら月を眺めて、過去に縋りつく以外は――。

「でも朧。人もあやかしも一人では生きていけない。お前にはやよちゃんが必要だし、やよちゃんにはお前が必要だ」
「それならあの娘じゃなくてもいいだろう。どうしてあの娘なんだ。あやかしが見えるからか?」
「やよちゃんは他のどのあやかしよりも霊力が強い。今のままだと輪廻転生の輪に辿り着く前にあやかしに喰われる可能性の方が高い。現に彼女はあやかしが原因で命を落としている」
「そうなのか?」
「死ぬ直前、やよちゃんは霊力を狙ったあやかしに追われていた。そいつに喰われる前におれがやよちゃんの魂をお前のところに送った。お前ならやよちゃんを悪いようにはしないと思ってな」
「あの娘がここに居たのはお前のせいだったのか……!」
 
 普通の人間は死した後、黄泉の国に行く。悪人は地獄に善人は極楽に行き、それぞれの魂をまっさらな状態に戻す。そうして輪廻転生の輪に戻って、また新たな生を全うする。
 まれにかくりよに迷い込んでしまう魂もあるが、その魂も獄卒によって黄泉の国に連れて行かれる。もしあやかしに魂を喰われてしまえば、その魂は二度と輪廻転生の輪に戻れず、永遠に深淵を彷徨うと言われていた。

「それにやよちゃんの高い霊力なら、おれの魂に宿った妖力と風鬼の力による鬼化にも耐えられる。他の人間やお前以外のあやかしにはおれの力は強すぎて耐えられない。後は名前も気に入った。弥生だぞ。『()彦から()まれた()()』って語呂がいいだろう」
「だが彼女は人間だ。これからも人間としての生を全うさせてやれ」
「あれだけ霊力が強ければ、転生しても霊力は完全に消えないだろう。それなら最初からあやかし側に居た方がいい。欠点を美点に変えるんだ」
「だからって何も俺の側にじゃなくてもいいだろう」
「そんなことをしたら、お前、今度こそ孤独になるぞ。耐えられるのかよ。あやかしの長い人生を一人で過ごすんだ。気が狂ってもおかしくない」

 弥彦の冷たい声に朧は言葉を詰まらせる。
 弥彦の言っていることは間違っていない。あやかしの長い人生に耐え切れなくなり、狂人と化して自死を選んだあやかしも少なからずいる。
 そういったあやかしと生涯を全うしたあやかしの違いは、身近に支えてくれるあやかしがいたかどうかだと言われていた。

「俺にはお前と母と三人で過ごした思い出だけがあればいい」
「お前には未来があるだろう。死んだおれたちには過去しかない。だがお前と鬼になったやよちゃんには未来がある。過去じゃなくて未来に目を向けてくれ。そうすればおれの心残りもなくなるから」

 弥彦はもう一つの猪口を一気飲みする。こうしていると、共に月見酒をしていた日が昨日のことのように思える。それなのに未来を生きる朧と過去でしか生きられない弥彦はもう同じ時間を過ごせない。
 なんともどかしくて……残酷なことだろう。

「お前の心残りは俺だけか?」
「他にもあるよ。例えば、現世の菓子をもっと食べてみたかったとか」
「くだらないな」
「現世で用心棒をやっていた時に必ず守ると誓った人間を守ってあげられなかったとか。それも二人……」

 その時、弥彦の身体が傾いだので朧は慌てて支える。夢現のように弥彦は呟く。

「俺さ……先に逝く悲しみと置いて行かれる悲しみ、どっちがより悲しいのかずっと考えていた」
「……答えは見つかったのか?」
「答えは出なかった。どっちも同じくらい悲しくて……辛いな。おれだって本当はお前ややよちゃんともっと同じ時間を過ごしてみたかったよ……」

 弥彦の身体から力が抜けると、その姿は弥生に戻っていた。弥彦は弥生の中に戻ったのだろう。
 弥生の頭を膝の上に乗せると、身体を冷やさないようにそっと羽織を掛ける。寝顔もどことなく弥彦に似ている気がした。弥彦の魂がそうさせるのだろうか。

「んっ……」

 しばらく弥生の寝顔を見つめていると、弥生が呻いたので朧は慌てて目を逸らす。ここで寝ていたら風邪を引いてしまう。
 朧は弥生の身体に手を回すと、そっと身体を持ち上げる。背中の傷は痛むが、部屋までの短い距離なら我慢できなくない。
 弥生を抱いて縁側を歩いていると、弥生が身じろぎする。

「おばあちゃん……」

 小さく聞こえた寝言に朧は確信する。やはり人間である弥生とあやかしである自分が住む世界は違う。
 弥生は人間として死して、次の生も全うさせるべきだと。
 次の日の朝、台所で朝食の用意をしていると手拭いで顔を拭きながら朧が顔を出したのであった。

「どこからか美味そうな匂いがすると思ったらお前か……」
「おはようございます。朧さん」

 昔ながらの鉄製の雪平鍋に高野豆腐とわかめを入れ、味噌を溶かしながら弥生は振り向く。朧は弥生の洋服姿に何か言いたげな顔をしていたが、タオルを首に掛けながら近づいてきたのであった。

「朝飯を作っているのか」
「はい。勝手に食材や場所をお借りしてすみません」
「それはいい。料理が出来るのか意外だな」
「意外って……こう見えても、現世(あっち)ではファミレスや居酒屋でバイトしていたこともあるんです!」

 あやかしが原因でせっかく就職しても一つのところで長期間働けない弥生は、大学を卒業してから仕事を転々としていた。生前最後に働いていたコンビニエンスストアのアルバイトに限らず、事務職や販売職、営業職、塾講師のアルバイトやファミリーレストラン、居酒屋のアルバイトも経験していた。
 弥生が頬を膨らませて拗ねていると、朧は「そういうつもりで言ったんじゃないんだ」と苦笑した。

「冷蔵庫にほとんど何も入っていなかっただろう。そんな限られた食材の中から料理を作れたのが意外でな」

 台所の卓上には二人分の茶碗や器が並べているが、既に完成した料理も並べていた。ひじきの炒め煮と鯖の焼き料理を作ったが、朧が鯖料理に興味を示したので「醤油と七味、チーズをかけてオーブントースターで焼いたんです」と弥生は説明する。
 
「野菜や卵などの生鮮食品は無かったのですが、お米や保存食の備蓄はありました。味噌やチーズ、高野豆腐にかつお節、あと乾燥わかめや豆類もあったので」
「煮物や鯖はどうした?」
「缶詰がありました。私も食べたことがあるので現世のものでしょうか?」
「それなら弥彦が買い溜めしたものだな。あいつは現世にしかない珍しいものが好きだった。仕事で現世に行く度に現世のものを買って来てはここに置いていた」
「弥彦さんの仕事って……?」
「なんでも屋をしていたよ。荷運びから人探し、現世に行くあやかしの護衛まで何でもな。仕事なら現世とかくりよを自由に行き来が出来るから」

 現世とかくりよを行き来するには二つの世界を繋ぐ門を守護する門番から許可を得る必要がある。その際に現世に行く理由を聞かれるが、仕事や現世に住むあやかしに会いに行くといった理由なら許可は出やすいという。

「もしかして冷蔵庫やオーブントースター、炊飯器やホームベーカリー、炭酸水メーカーまで揃っているのも弥彦さんが現世から持ち込んだものですか?」
「冷蔵庫やオーブントースター、炊飯器はかくりよでも広く普及している。シャワーや洗濯機、照明器具やテレビもな。そのほーむべーかりーやらたんさんすいめーかーとやらは、弥彦が現世から買ってきたものだ。あいつはよく使っていたが、俺は使い方すらさっぱり分からん」
「ホームベーカリーも炭酸水メーカーも使い方を知っています。ただ材料や道具が必要なので、かくりよで手に入るのかどうか……」

 話している間に炊飯器が炊き上がったのか、音を鳴らして知らせてくれる。料理を運んでくれるという朧に完成した分を居間に運んでもらうと、弥生は炊き立てのご飯と完成した高野豆腐とわかめの味噌汁をよそい、朧の後に続いたのであった。

「邪魔をする!」

 朝食を食べ始めてすぐ呼び鈴が鳴ったので弥生たちが見に行くと、群青色の軍服を着た男たちが入って来た。歴史の教科書で見たような軍服と軍帽に黒の軍靴、腰にはサーベルらしき湾曲した刀を下げており、直感的に弥生は朧の後ろに隠れたのであった。

「獄卒が朝から何の用事だ?」
「この家に人間の魂がいると聞いて連行しに来た。その場を動かないでもらおうか。千鳥(ちどり)
「うぃ~す」

 千鳥と呼ばれた獄卒は最初に朧を、次いで弥生を見て来る。金色に目を光らせて舐めるように頭から爪先までじっくり眺めてくる視線から逃れようと、弥生は明後日の方向を向いて目を逸らし続ける。やがて千鳥は意味ありげに口元に弧を描くと戻って行ったのだった。

「どうだった?」
「女の方は人間臭いが微かな鬼の力を感じた。だけど男の方は鬼の匂いがするが、鬼の力を感じなかった」
「なら男の方か……。捕縛しろ!」

 男の指示で後ろに控えていた獄卒たちが朧を囲むと腕を拘束する。弥生は千鳥によって朧から引き離されたのであった。

「離してください! 朧さんは人間ではありません! 人間は私です……!」
「駄目だよ。鬼のお嬢さん。人間はかくりよで生きられないんだ。オレたちが黄泉の国に連れて行く。二度とこっちに来ないように徹底的に痛めつけるんだ」
「痛めつけるんですか!? どうして……!?」
「人間の中にはね。地獄に落ちるのが嫌で、かくりよのあやかしに紛れ込んで暮らそうとする者がいる。特に輪廻転生もさせられないような大悪党に限って。そいつらが再び脱走しないように痛めつけて罰を与えるのがオレたち獄卒の仕事なの。そこの雲雀(ひばり)隊長もね」
「千鳥、いつまで無駄話をしている。対象は捕まえた。すぐに地獄に連れて行くぞ」
「うぃす。じゃあね、鬼のお嬢さん。今度一緒にデートでもしない? 下町に新しいミルクホールが出来てさ……」
「千鳥! 軟派してないで早く来い!!」

 朧を連行するように言った雲雀と呼ばれた獄卒に、千鳥は襟元を引き摺られるように連れて行かれる。弥生も草履を履くと、慌てて後を追いかけたのだった。
「待って下さい! 連れて行くなら私を連れて行って下さい!」
「そこまでして離れるのが嫌なのか。鬼の娘」
「人間は私です。その人から鬼の力を奪いました。地獄に連れて行くなら私を連れて行ってください!」
「それは誠か、鬼の娘。嘘をついたらただでは済まさん。この場で切り捨ててくれる」

 雲雀がサーベルの柄に手を掛けた時、朧が「待て!」と声を張り上げる。

「彼女は風鬼だ。あんたたちもさっき調べただろう。連れて行くなら俺を連れて行け!」
「朧さん!」
「女鬼として生きていけばどこに行っても歓迎される。上町に住む鬼たちなら尚更な。そいつらの元に行け。お前の役目は俺と弥彦の力を次の代に受け継ぐことだ。この世界に鬼が存在していたという確かな証を残せ」
「何で簡単に諦めてしまうんですか!? 私には命を粗末にするなって言ったのに!」

 鬼の力を暴走させて落ちて来た屋根瓦から庇いながら朧はそう言った。その言葉に弥生は救われた。それなのに言った本人が何もせずに諦めてしまうのか。弥生に生きろと言った当人が。

「朧さんも一緒に生きて下さい。私たちは将来を誓い合った恋人……でしょう?」
「馬鹿! 今はそんな話をするな!」

 昨日使った作り話をすると、雲雀は眉を上げて弥生の元にやって来る。

「今の話は本当か?」
「本当です。私たちは恋人です。私が人間で彼が持っていた風鬼の力を奪いました。水鬼と火鬼の力もです」
「いいや。違う! 彼女は風鬼だ。現世生まれの現世育ちの鬼だ。俺を連れて行け」
「千鳥は鬼の娘から人間の臭いがすると言っていた。もし鬼の娘がこの男から鬼の力を奪った人間なら、俺たちは鬼の力をあるべき場所に返して、娘を地獄に連れて行かねばならん」
「どうやって証明すればいいんですか?」
「ここで鬼の力を使え。風鬼なら旋風くらい起こせるだろう。力を使えなければ人間と見なす。鬼の力を回収して地獄に送ってやる」
「……分かりました」

 弥生は両手の掌を上に向けて旋風をイメージする。このやり方が正しいのか分からないが、今は朧を助けたい想いで頭が一杯になっていた。

(お願いします。力を貸して下さい。弥彦さん)

 そう願うが、昨日の暴風雨が頭を過ぎって手が震えてしまう。
 また力を暴走させたらどうしよう。獄卒だけではなく朧まで傷つけたら?
 弥生の中にいる弥彦の大切な人を、これ以上傷つけたくなかった。恐怖で膝まで震えているような気がして、吐き気も込み上げてくる。
 目を瞑っていると、急に弥生の中から何かが溢れるような感覚がした。この感覚には覚えがあった。昨日の風雨が起こった時と同じであった。

(駄目! 暴れないで、昨日みたいな嵐は止めて……!)

 掌を引っ込めようとすると、獄卒たちの間から声が上がった。弥生が目を開けると、目前には朧がいたのであった。

「大丈夫だ。俺が側についている。肩の力を抜いて息を吸え」

 朧は弥生の両掌を包むように掴む。その瞬間、弥生の中で溢れそうになっていたものが朧に吸い込まれていったのだった。

「朧さん、これ……」
「俺の水鬼の力だ。弥生、手の向きが違う。掌は外側に向けろ。押し出すように」

 朧は掴んだ弥生の両掌を外側に向けると、弥生の後ろに回る。身体をぴったりとくっつけると、耳元でそっと話し出す。

「俺が手を離したら、前に押し出すように力を放つんだ。相手は獄卒だ。多少旋風が当たっても死にはしない」
「上手くいきますか……?」
「弥彦の力はお前を悪いようにはしない。それに失敗しても俺がついている。安心しろ」

 朧の言葉が胸を打つ。弥生は目尻に涙を溜めると深く頷く。

「三つ数えたら手を離すぞ。……一、二、三」

 朧が手を離した瞬間、弥生は掌に溜まった力を前に放つ。力に引き摺られて前に飛んで行きそうになるも、朧が抱きしめて引き戻してくれる。
 小動物サイズの小さな旋風は雲雀の真横を通り過ぎると、左右に避ける獄卒たちの間を通って隣家の生垣を穿ったのであった。
 しばらく呆然としていた弥生だったが、千鳥たち獄卒が騒ぐ声で我に返る。

「朧さん、やりましたよ! 旋風を起こせました! ウサギぐらいの大きさでしたが力を使えたんです!」

 後ろを振り返った弥生だったが、何故か朧は弥生を見たまま固まっていた。試しに自分の頭を触ると角が出ていたからだろうか。もう一度弥生が名前を呼ぶと、朧は弥生を抱きしめたまま、肩に顔を埋めたのであった。

「朧さん……?」

 弥生が戸惑っていると、雲雀が賞賛するように両手を叩きながらやって来る。

「見事な旋風だったな」
「いえ……」
「今回はこれで手を引くが、しばらく監視は続けさせてもらう。怪しい動きをしたら即刻地獄に連行させてもらう」

 それだけ言うと、雲雀は振り返らずに帰って行く。他の獄卒たちも無言で雲雀の後に続くが、千鳥だけは「またね〜。鬼のお嬢さん!」と両手を振ったのだった。

 獄卒たちがいなくなっても朧が腕を離す気配が無かったので、弥生はもう一度振り返る。すると、ようやく顔を上げた朧が「弥生」と真剣な声色で言ったのだった。

「結婚しよう」

 理解が及ばなかった弥生は何度か瞬きを繰り返した後、恐る恐る尋ねる。

「どうしてですか? さっきの獄卒たちが怪しんでいるからですか?」
「それもあるが、もっとお前を知りたくなった。弥彦とそっくりで、でも弥彦とは違うお前が……」

 朧が角を触ったのか、くすぐったくて弥生は声を上げてしまう。
 
「小さな旋風を放ったお前の姿を見ていたら、初めて鬼の力を使った弥彦を思い出した。そうしたら急にお前を帰して一人になるのが怖くなった……」
「朧さん……」
「弥彦の力は返さなくていい。風鬼として俺と共に生きて欲しい。これからはどんなあやかしが襲ってきてもお前を守ろう。ここをお前の安住の地として欲しい」

 あやかしから逃げ回っていた弥生がずっと欲しかった言葉。それが朧の口から次々と出てくる。
 自分を信じて、受け入れられた喜びに胸が熱くなる。心を満たしてくれる。
 
「私……」
 
 朧は身体を離すと弥生の両肩を掴む。お互いに見つめ合い、朧が身をかがめて顔を近づけた時、弥生の後ろから声を掛けられたのであった。

「お取り込み中にごめんなさい。うちの生垣に穴が開いているのだけど、何かご存知……?」

 後ろを見ると割烹着姿の年配の女性が申し訳なさそうにしており、その後ろでは大柄な年配の男が二人を睨み付けていたのであった。

「すみません! これは私が……」
「女房と夫婦喧嘩をしていたら穴を開けてしまった。すまない。修理費用はこちらで負担しよう」

 朧がさも当然のように「女房」と言ったので弥生が目を見開いて固まっていると、年配の女性が「まあ!」と顔を赤く染める。

「いつの間にご結婚されていたの? 昨日も騒ぎがあったと思ったら女性が出入りしていたと聞いて、もしかしてと思っていたのよ!」
「昨日は迷惑を掛けた。改めてお詫びを……」
「いいのよ。夫婦喧嘩なんてよくあることよ! そちらの女性は見かけない顔だけど、ここに住み始めたばかり? 困ったことがあったら何でも言ってね」
「ありがとうございます……」

 まるで近所の世話焼きおばさんのように押しが強い隣家の女性に朧と出会った経緯や喧嘩の原因を聞かれている間、朧は強面の男と生垣の修理について話しているようだった。
 朧の話が長引きそうな様子を見ると、弥生は女性にお願いしたのであった。

「お言葉に甘えて、一つ教えていただきたいことがあるんですが――」
 女性から解放された弥生は先に家の中に入って待っていると、しばらくして朧も戻って来る。

「朝から疲れたな」
「朝食を温め直しますね」
「ああ。助かる……」

 話しながら居間に入って来た朧だったが、弥生の姿を見たまま固まってしまう。弥生は微笑むと、立ち上がったのだった。

「着替えてみました。どうですか?」

 弥生は洋服から昨晩朧が用意してくれた小花柄に濃紺の小紋に着替えていた。薄茶の帯には白の帯締めと白と茶の帯留めもしていたのであった。

「着物を着たことがあまりなくて、さっきお隣の奥さんに着方を聞いたんです。似合っていればいいんですが……」
「着方が分からなかったら無理に着なくても良かったんだ。ただあった方がいいと思って用意しただけで……」
「でも折角用意してくださったんです。着ないのも失礼ですし、何より今後ここで暮らしていくのなら知っていた方がいいと思って……」

 さっきの結婚の申し出の返事をしていなかったことを思い出して言えば、朧はハッとした表情の後に顔を赤く染める。
 
「大したものじゃない。母の着物だから多少古臭く、お前の好みに合わないかもしれないが……」
「朧さんのお母さんのものだったんですね! デザインも大人っぽくて素敵なので気に入りました!」

 お隣の奥さんの借りた化粧品で薄っすらと化粧も施した顔で微笑むと、朧は顔を赤くしてますます固まってしまったのであった。そんな初心な反応に笑っていると、突然朧が手を伸ばしてくる。じっと様子を伺っていると、朧は弥生の着物の衿に触れたのであった。

「朝飯より先に着付けをやり直した方がいいかもしれないな。前合わせが逆だ」
「えっ!? でも右前って言いますよね?」
「ここでいう『前』というのは『先』という意味だ。つまり右が先ということだ。右利きなら左が上の方が懐に手を入れやすいだろう」
「そんな……」
「慣れるまでは俺が着付ける。そのまま外に出られたらこっちが恥ずかしい……。あと、その着方だとすぐに着崩れするから腰紐もしっかり結んだ方がいい。歩き方にも気を付けるんだ」
「は~い……」

 さっきの意趣返しなのか肩を落とす弥生を見て笑っていた朧だったが、不意に思い出したのか話し出す。
 
「でもその着物はよく似合っている。朝飯を済ませたら買い物に行こう。最近は現世の影響を受けて西洋の絵柄を取り入れた反物も増えている。いくつか見繕ってもらおう」
「いいんですか?」
「お前の生活用品や食料も買いに行って、何よりも役場に婚姻届を出しに行かないといけないしな。大変かもしれないが、付き合ってくれるか?」
「勿論です。荷物持ちも任せて下さい!」

 弥生の返事に満足したのか朧は頷くと、目を逸らしながら話し出す。
 
「それから一つ頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」
「私に出来ることでしたら」
「背中に怪我を……さっき乱暴に扱われたからか古傷が開いてな。手が届かないから薬を塗ってくれないか? 傷なんて触りたくないし、そもそも見たくもないかもしれないが……」
「それくらいなら大丈夫です! 怪我の具合は大丈夫ですか? すぐに薬をお持ちします!」

 薬棚に向かおうと小走りになると、朧が後を追いかけてくる。
 
「待て! すぐじゃなくていい! 先にお前の着付けを直す!」
「着付けなんて後でも問題ありません。今は朧さんの怪我が大切です!」
「既に着崩れしているのに何を言っている!」

 朧に言われて立ち止まれば、帯が緩んで肩から着物が下がっていた。慌てて衿を合わせれば後ろから朧に抱きしめられる。

「俺の言った通りだろう。先に着付けを直す。その後に軟膏を塗ってくれ」
「すみません。ご迷惑をおかけして……」
「迷惑だったら最初から言わない。着付けや怪我だけじゃなくて結婚もな」

 朧に抱きしめられたまま、外から見えない場所に移動すると、朧は弥生の帯に手を掛ける。

「これからよろしくな……弥生」
「よろしくお願いします。朧さん」

 朧は満足そうに笑うと、弥生の帯を解いたのであった。

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