仕事着である店名入りのジャンパーを脱ぎながらロッカーを開けると、ハンガーに掛けるのももどかしくて放り投げるようにジャンパーを入れる。代わりにショルダーバッグと上着を持ってロッカーを閉めると、上着を着ながらバックヤードを後にしたのであった。

「お疲れ様でした!」

 三月も終わりかけというこの日、弥生(やよい)はアルバイト先のコンビニエンスストアを出ると、夕暮れの道を足早に歩いていた。

(早くしないと、電車に乗り遅れちゃう……!)

 何度も腕時計を確認しては、頭の中で最寄駅の時刻表と照らし合わせる。
 いつもなら電車時間に余裕を持って店を出るが、今日は弥生の後にレジに入る予定だった男子高校生が遅刻してしまった。代わりの人が来るまでレジに入っていたが、その分電車時間ギリギリに店を出ることになってしまった。
 駅から出て来る制服姿の学生やスーツ姿の会社員とすれ違いつつ、どうにかして発車時刻直前に駅のホームに駆け込むと、既に停車していた電車に乗り込む。弥生が飛び込んだと同時に後ろで電車の扉が閉まったのであった。

(良かった……。間に合った……)

 この電車に乗れなかったら、次の電車まで三十分以上も待たなければならなかった。ゆっくりと走り出した電車の駆動音を聞きながらそっと安堵する。

『お客様にお知らせします。駆け込みでの乗車は大変危険です……』

 聞こえてきた車内アナウンスがまるで弥生を指しているようで、バツが悪い気持ちになる。弥生は小さく苦笑すると、人がまばらな車内を見渡す。椅子は全て埋まっていたが、吊り革に掴まる人が少ない場所を見つけた。

「あらやだ。晴れているのに雨?」

 車内を移動しているとそんな声が聞こえてきて足を止める。振り向くと、窓際の席に座っていた年配の女性三人が外を見ながら話していた。
 弥生も外に目を向けると、さっきまで晴れていた夕焼けの空からは雨が降り始めていた。電車が停まって乗って来た人たちも、折りたたみ傘を手にしている人やハンカチで身体を拭いている人ばかりで、誰もが急に振り出した雨に不快感を露わにしていたのだった。
 
「本当ね。狐の嫁入りじゃない?」
「じゃあ近くに狐のお嫁さんと嫁入り行列がいるのね〜」
「狐のお嫁さんなんて迷信でしょう! 亡くなったうちのおばあちゃんはずっと信じていたけども」

 小声で話しながら笑い続ける女性たちから窓外に視線を移す。窓を打ちつける雨粒の向こう側には田畑が広がっており、その間を奇妙な一団が通っていた。
 ぼんやりと光る提灯を手にした一団の中心には白い着物姿の女性がおり、その前後には唐草模様の風呂敷包みを持った宰領、花嫁と花婿の親族や招待客と思しき老若男女が続いていた。花嫁の前を歩いている若い男が花婿だろうか。
 
(狐の嫁入り、だね……)

 一団は二本足で歩いているが、白無垢姿の花嫁の頭からはピンと尖った三角形の耳が立っていた。その前を歩く花婿や後ろに続く人たちも花嫁と同じように頭から耳が生えており、中には服の下から薄茶色の毛を生やした尻尾が出ている者もいた。人間に化けようとして上手く変幻出来なかったのだろう。
 電車の中から狐の嫁入り行列を見ていると、その行列の横を自転車に乗ったお祖父さんと少し遅れてママチャリに乗った母親と女の子も行列を通り過ぎて行った。お祖父さんと母親は全く気付かずに自転車を漕いでいたが、母親の後ろに座っていた女の子は興味深そうに狐たちを見ていたのだった。
 走り出した電車が速度を上げて、狐たちが見えなくなると弥生は窓から視線を外す。すると、不意に後ろから誰かの視線を感じて身震いした。

(この感じ……)

 不審者が見ているわけではない。人が向けてくるものとは違う、どこか冷え冷えとした視線。首筋を舐められているような全身が総毛立つ感覚。弥生は後ろを振り返るが、そこには誰も立っていなかった。
 周囲を見渡しても、他の乗客は知人と会話をしているか、スマートフォンや本に目線を落としており、弥生に目を向けている者はいなかった。
 それでも鳥肌は立ったまま身の危険を知らせており、弥生の身体からはどんどん血の気が引いていった。
 ここから逃げなければならないと、本能が告げていたのだった。
 しばらくその場で身を固めて耐えていると、やがて電車は次に停車する駅のホームに入っていった。電車の扉が開くと、弥生は他の乗客を押し退けるようにして電車から降りたのだった。

(逃げなきゃ。とにかく人が多いところに……!)

 駅の外に出ると狐の嫁入りから遠ざかったからか、雨はすっかり止んでいた。まだ乾ききっていない濡れたアスファルトを歩きながら、人が多そうな近くの商業施設に向かう。
 何も気づいていない振りをしているが、電車を降りても視線は弥生を捉えたままずっと後ろをついてきており、隙を見て逃げ出そうにも片時も離れてくれなかった。幸いなのは、弥生の歩幅に合わせているのか、それとも駅に向かう通行人たちを気にしているのか、一定の距離を保ち続けてくれているところだろう。
 だが、足を止めたら今にも襲われそうな恐怖感があった。
 息を詰めて、激しく音を立て続ける心臓の音を聞きながら足早に商業施設に向かっていた弥生だったが、何の突拍子もなく近くの看板が目の前に倒れてきたのであった。

「きゃあ!」

 看板は誰にも当たらなかったが、向かいからやって来た女子高生たちが倒れた看板に驚いて悲鳴を上げてしまう。近くを歩いていた会社員や近所に住む人たちが看板の近くに集まってきたのであった。
 集まった人たちで小さな人垣が出来てしまい、弥生は足を止めざるを得なくなった。
 
「看板が倒れたのか?」
「どうして急に……今朝工事の人が取り付けたばかりなのに……」
「誰か警察に連絡しろ。下敷きになった人はいないな?」
「不吉だわ……何かが起こる前触れかも」

 弥生はどうにかして人垣を抜けると、そのまま走り出す。足を止めたことで距離が縮んでしまった。早く離れなければならない。
 捕まったら、喰われてしまうかもしれない。子供の頃からそんな危険に何度も遭ってきた。
 普通の人よりもあやかしが見えてしまう為に、あやかしたちが言うところの「霊力」が人より高いが為に――。
 そうして信号をよく見ないまま横断歩道に入った時、近くで車のクラクションが聞こえてきた。

「危ない!」

 若い男が叫んでいるが、それを確認する前に弥生はトラックに轢かれてしまう。ショルダーバッグが宙を飛んで行き、トラックから降りてきた運転手が何か言っているが、弥生の耳には届かなかった。暗くなる視界を移せば、赤信号が点灯している信号機の隣には人の形をした黒い影が立っていた。
 黒い影がいやらしい笑みを浮かべた時、弥生はこの黒い影が自分を追い回していた視線だと気が付いた。
 怒りや悲しみを感じる前に、弥生の意識はそこでぶつりと切れたのであった。