仕事着である店名入りのジャンパーを脱ぎながらロッカーを開けると、ハンガーに掛けるのももどかしくて放り投げるようにジャンパーを入れる。代わりにショルダーバッグと上着を持ってロッカーを閉めると、上着を着ながらバックヤードを後にしたのであった。

「お疲れ様でした!」

 三月も終わりかけというこの日、弥生(やよい)はアルバイト先のコンビニエンスストアを出ると、夕暮れの道を足早に歩いていた。

(早くしないと、電車に乗り遅れちゃう……!)

 何度も腕時計を確認しては、頭の中で最寄駅の時刻表と照らし合わせる。
 今日は弥生の後にレジに入る予定だった男子高校生が遅刻してしまい、代わりの人が来るまでレジに入っていたが、その分電車時間ギリギリに店を出ることになってしまった。
 どうにかして発車時刻直前に駅のホームに駆け込むと、既に停車していた電車に乗り込む。弥生が飛び込んだと同時に後ろで電車の扉が閉まったのであった。

(良かった……。間に合った……)

 この電車に乗れなかったら、次の電車まで三十分以上も待たなければならなかった。ゆっくりと走り出した電車の駆動音を聞きながらそっと安堵する。

『お客様にお知らせします。駆け込みでの乗車は大変危険です……』

 聞こえてきた車内アナウンスがまるで弥生を指しているようで、バツが悪い気持ちになる。弥生は小さく苦笑すると、人がまばらな車内を見渡す。椅子は全て埋まっていたが、吊り革に掴まる人が少ない場所を見つけた。

「あらやだ。晴れているのに雨?」

 その声に足を止めると、窓際の席に座っていた年配の女性三人が外を見ながら話していたので弥生も外に目を向ける。さっきまで晴れていた夕焼けの空からはぽつぽつと雨が降り始めていた。

「本当ね。狐の嫁入りじゃない?」
「狐のお嫁さんなんて迷信でしょう! 亡くなったうちのおばあちゃんはずっと信じていたけども」

 そう言って女性たちは笑い合って話題を変えてしまったが、窓の向こう側に広がる田畑の間には奇妙な一団がいた。
 ぼんやりと光る提灯を手にした一団の中心には白い着物姿の女性がおり、その前後には唐草模様の風呂敷包みを持った宰領、花嫁と花婿の親族や招待客と思しき老若男女が続いていた。花嫁の前を歩いている若い男が花婿だろうか。
 
(狐の嫁入り、だね……)

 一団は二本足で歩いているが、白無垢姿の花嫁の頭からはピンと尖った三角形の耳が立っていた。その前を歩く花婿や後ろに続く人たちも花嫁と同じように頭から耳が生えており、中には服の下から薄茶色の毛を生やした尻尾が出ている者もいた。人間に化けようとして上手く変幻出来なかったのだろう。
 電車の中から狐の嫁入り行列を見ていると、その行列の横を自転車に乗ったお祖父さんと少し遅れてママチャリに乗った母親と女の子も行列を通り過ぎて行った。お祖父さんと母親は全く気付かずに自転車を漕いでいたが、女の子は興味深そうに狐たちを見ていた。きっとあの子には狐たちが見えたのだろう。
 狐たちに見惚れていると、不意に後ろから誰かの視線を感じて身震いする。

(この感じ……)

 人が向けてくるものとは違う、どこか冷え冷えとした視線。首筋を舐められているような全身が総毛立つ感覚。弥生は周囲を見渡すが、弥生に目を向けている者はいなかった。
 それでも鳥肌は立ったまま身の危険を知らせており、弥生の身体からはどんどん血の気が引いていく――ここから逃げなければと、本能が告げていた。
 そうしている間に電車は次に停車する駅のホームに入っていった。車内アナウンスと共に扉が開くと、弥生は他の乗客を押し退けるようにして電車から降りたのだった。

(逃げなきゃ。とにかく人が多いところに……!)

 駅の外に出ると狐の嫁入りから遠ざかったからか、雨はすっかり止んでいた。まだ乾ききっていないアスファルトを歩きながら、人が多そうな近くの商業施設に向かう。
 何も気づいていない振りをしているが、電車を降りても視線はずっと後ろをついてきており、隙を見て逃げ出そうにも片時も離れてくれなかった。幸いなのは、一定の距離を保ち続けてくれているところだろう。弥生の歩幅に合わせているのか、それとも駅に向かう通行人たちを気にしているのか……。
 息を詰めて、激しく音を立て続ける心臓の音を聞きながら足早に商業施設に向かっていた弥生だったが、何の突拍子もなく近くの看板が目の前に倒れてきたのであった。

「きゃあ!」

 看板は誰にも当たらなかったが、向かいからやって来た女子高生たちが倒れた看板に驚いて悲鳴を上げてしまう。近くを歩いていた会社員や近所に住む人たちが看板の近くに集まってきたのであった。
 集まった人たちで小さな人垣が出来てしまい、弥生は足を止めざるを得なくなった。
 
「看板が倒れたのか?」
「どうして急に……今朝工事の人が取り付けたばかりなのに……」
「不吉だわ……何かが起こる前触れかも」

 弥生はどうにかして人垣を抜けると、そのまま走り出す。足を止めたことで距離が縮んでしまった。早く離れなければならない。
 捕まったら、喰われてしまうかもしれない。子供の頃からそんな危険に何度も遭ってきた。
 普通の人よりもあやかしが見えてしまう為に、あやかしたちが言うところの「霊力」が人より高いが為に――。
 そうして信号をよく見ないまま横断歩道に入った時、近くで車のクラクションが聞こえた。

「危ない!」

 若い男が叫んでいるが、それを確認する前に弥生はトラックに轢かれてしまう。ショルダーバッグが宙を飛んで行き、トラックから降りてきた運転手が何か言っているが、弥生の耳には届かなかった。暗くなる視界を移せば、赤信号が点灯している信号機の隣には人の形をした黒い影が立っていた。
 黒い影がいやらしい笑みを浮かべた時、弥生はこの黒い影が自分を追い回していた視線だと気が付いた。
 怒りや悲しみを感じる前に、弥生の意識はそこでぶつりと切れたのであった。
 弥生があやかしの存在を知ったのは五歳の頃、祖母に言われた一言がきっかけだった。

『弥生ちゃんもあやかしが見えるのね』

 その頃の弥生の側には色んなあやかしがいた。人の形をしているものも、そうじゃないものも。
 弥生にとってはそれが当たり前であり、誰もがあやかしと共に生きているものだと思っていた。
 やがて子供の頃はあやかしが見えていた人も、年を重ねて大人になるにつれてあやかしが見えなくなると知った。彼らを空想上の生き物と考えるようになり、忘れるようになった。
 弥生は生まれながらに高い「霊力」があり、陰陽師や退魔師たちと同等の力を持っていた。
 その為、弥生はいくつになってもあやかしの姿が見えた。そしてあやかしたちは弥生の祖母の周りにも集まっていた。
 弥生の祖母もあやかしが見える人だった。弥生と同じようにあやかしが見えてしまうだけに苦労や危険な目に何度も遭ってきたらしい。それでも祖母はあやかしに優しかった。
 人だけではなくあやかしにも好かれていた祖母だったが、弥生が中学生の時に亡くなってしまった。表向きは病死になっているが、本当は祖母が持つ高い霊力を狙ったあやかしに殺されたのだった。
 祖母から聞いていたが、弥生たちの持つ霊力はあやかしたちにとって格好の餌となるらしい。霊力を喰らったあやかしの力は格段と上がり、高いあやかしの力――妖力を持つあやかしになる。
 反対にあやかしが持つ妖力を喰らった人間は、そのあやかしの力を取り込んで、自らもあやかしと化すと言われていた。
 祖母の周りには常に力の強いあやかしがいて祖母を守っていたが、そのあやかしがいない隙に祖母は殺されて霊力を奪われてしまった。それ以来、弥生はあやかしと関わるのが怖くなってしまった。

 ――いつの日か、自分も祖母と同じようにあやかしに殺されてしまうのではないか、と。

 その懸念が的中するかのように、祖母が亡くなると、弥生はあやかしたちから命を狙われるようになった。
 そして、弥生はあやかしと距離を置くようになったのだった。

 「んんっ……」

 鼻をつく畳のいぐさの匂いで弥生はそっと目を開ける。床に直接寝た時のように身体中が痛くて重い。

「ここは……」

 ゆっくりと身体を起こすと、弥生はどこか薄暗い部屋に倒れていた。床が畳敷きなところからここはどこかの和室らしい。身体を見ると、トラックに轢かれたはずの身体は何も変わりがなく、掌を握って開いてみてもいつも通り動いた。
 トラックに轢かれたのは夢で、誰かがここに連れて来てくれたのだろうか。
 その時、視界の左端にほのかな緑色の発光が映った。部屋を見渡して光源を探していると、横長の机の上に蓋がされたガラス瓶が置かれているのに気づいた。そのガラス瓶の中には緑色に光る球体が入っていたのだった。
 弥生が机に近づいていくと、球体は光を強めたようだった。それまでは何度も明滅していたが、弥生がガラス瓶を手に取った時にはずっと光り続けていた。

「明かりじゃないし、蛍かな。綺麗……」

 そう呟きながら軽くガラス瓶を振った時だった。外から襖が開けられたかと思うと、「誰だ!」と男の声が聞こえてきたのだった。

「お前……人間の霊か。どこから入ってきたんだ?」
 
 逆光で男の顔は見えないが、声からして若い男のようだった。男は弥生が持っていたガラス瓶に気付くと慌てた様子でやって来る。そしてガラス瓶を掴む弥生の腕を掴んだのだった。

「それをどうするつもりだ!? 早く返せ!」
「返します! 返すから離して……!」

 男に力強く引っ張られた時、弥生の手からガラス瓶が滑り落ちた。ガラス瓶はテーブルに当たると、砕けたのであった。

「何をするんだ!」
「す、すみません……」
 
 男は怒鳴ると割れたガラス瓶の破片を集め始める。大きな欠片を避けると、中から先程の緑色の球体が出て来たのであった。

「良かった。無事だったか……」
 
 男が安堵している間も球体は籠から出た鳥のように室内を飛び回る。天井を旋回したかと思うと、弥生に向かって飛んできたのであった。

「きゃあ!」
「くっ!」

 男が手を伸ばして球体を捕まえようとするも球体の方が速かった。瞬きする間に球体は弥生の中に入るとそのまま消えたのであった。
 緑光が消えた直後、弥生の身体に変化が起こった。

「あっ……」

 体温が急上昇してマグマのように煮えたぎる。風邪を引いた時とは比べものにならない熱と身体中の痛みに、弥生は歯を食いしばりながらその場に膝をついたのだった。

「おい、しっかりしろ!」

 男に肩を掴まれて声を掛けられるも、弥生は声を出すことはおろか指一本動かすのも出来なかった。ただ額から脂汗を流して苦悶の表情を浮かべて耐えるしかなかったのだった。

「くぅぅっ……」

 やがて身体を襲う熱と痛みが絶頂に達すると、何かがぶつりと切れる音が聞こえてくる。その直後に身体から力が抜けていくと、声を出せぬままその場で気絶したのであった。

 夢の中で弥生は誰かに頭を撫でられていた。冷たい手が気持ちよくて、そのまま身を委ねていると、男の声が聞こえてきた。

『……を頼んだ。()()()()()

 夢現の中でそんな声が聞こえてきたかと、弥生の周りで突風が吹いて火照っていた身体からすうっと熱が引いていった。
 夏の日のお風呂上りに冷風に当たった時と同じように体温が下がっていく快感。心なしか身体も軽くなって気持ちいい。

『おやすみ……』

 その声にもう一度弥生は意識を手放すと、ゆっくりと微睡んだのであった――。
「目を覚ませ! おい!」

 何度か軽く頬を叩かれて弥生は目を開ける。意識が覚醒してくると、目の前には見目麗しい男の顔があり、弥生は跳ね起きたのであった。

「うわっ!」
「いてっ!」

 勢いよく身体を起こしたからか、弥生の額が男の額にぶつかってしまう。お互いに額を押さえて悶絶していると、男が声を発したのであった。

「こっちの気も知らないで熟睡して……。その上、頭突きをしてくるとはいい度胸じゃないか……」

 その声に振り返れば、男は正座を崩して片膝を立てる。どうやら男は倒れた弥生を気遣って膝枕をしてくれたらしい。男が着ている着物の膝辺りに皺が寄っていた。

「すみません……」
「で、どこから紛れ込んだのかは知れないが、風鬼の力を返してくれないか。返してくれたのなら、獄卒に頼んで黄泉の国まで案内させる」
「黄泉の国? あの、ここが黄泉の国じゃないんですか? 私は死んで黄泉の国に来たのだとばかり……」
「ここはあやかしたちが住まう世界だ。影のように現世――人間世界の裏側に存在している。人間たちが言うところのかくりよだな」
「あやかし、かくりよ……。貴方もあやかしなんですか?」
「俺は水鬼だ。水を操る鬼と思ってくれていい」

 鬼と言われても、弥生が想像するのは昔話や節分の季節に見かける、口からは長い牙、頭からは角を生やし、手には無数の針が付いた棍棒を持った虎柄のパンツ姿の大男であった。
 少なくとも、目の前にいる肩より長い黒髪と宵闇のような黒目、紺と青の縞柄の着物を纏った美丈夫ではなかった。

「角は生えていないんですか?」
「生えているが普段は出さないようにしている。他のあやかしを不安にさせない為にな」
「虎柄のパンツは……?」
「初対面の相手に聞く質問とは思えないが」

 弥生は羞恥で顔を赤くするが、男は鼻を鳴らすと不機嫌そうに眉を寄せる。

「そっちの質問には答えてやった。今度はこっちの望みを叶えてもらおう。お前が吸収した風鬼の力を返してくれ。人間には過ぎた代物だ」
「風鬼の力って、さっきの緑色の光ですか? ガラスの瓶に入っていた」
「そうだ。あの中に入っていたのは先日亡くなった風鬼の魂だ。俺たちあやかしの魂には妖力が宿っている。あやかしが亡くなった時はその妖力を魂ごと預かり、次代のあやかしへと繋げる。そうして妖力を絶やさないようにしてきたんだ」
「妖力って生まれつき持っているものじゃないんですか?」
「あやかしも年々数を減らして、妖力も衰えているからな。生まれつき妖力を持っていても、あまりにも弱くて無いに等しい時もある。例えるなら蝋燭に灯る小さな火だ」

 男が立てた指先に小さな青い火が灯る。小指の爪ほどの小さな炎はわずかに揺れたかと思うとすぐに消えてしまう。
 
「妖力はいわばあやかしとしての力そのものだ。あやかしの力は妖力の大きさに比例する。妖力が無くなれば、あやかしも人間と何も変わらない。反対に多くの妖力を取り込んだあやかしの力は強大なものとなる。取り込んだあやかしの能力さえも自分の力として扱えるようになるんだ」

 人間が持つ霊力を取り込んだあやかしは妖力が強くなると聞いていたが、あやかしが持つ妖力を他のあやかしが取り込んでも同じなのだろう。
 自分が持っている妖力という火に他のあやかしの妖力を足して火を大きくする。取り込んだ火は自分の火の一部と化して、自在に操れるようになる。

「あやかしとその能力。それらの火種を絶やさない為に亡くなった同族の力を取り込んで、火を大きくする。これは種族を絶やさない為に行っている儀式だ」
「ということは、その風鬼の力も誰かが貰うつもりだったんですよね……。風鬼の力を貰う方ってどういう方なんですか? 早く返さないと……」
「俺だ」
「え……。さっき、水鬼と聞きましたが……」
「水鬼も風鬼も同じ鬼だ。鬼の力は鬼が受け継ぐ。さっき見せた火も火鬼から受け継いだ力だ。水鬼である俺本来の力は水を操る力だ」

 そして、男は自らの掌の上にバスケットボールほどの水の球を浮かべる。澄んだ水球越しに見た男の目は宵闇のような黒から怪しげな金に変わっていた。

「事情は分かっただろう。手荒な真似はしたくないが、多少強引でも風鬼の力は返してもらう。少し痛いかもしれないが我慢するんだな」

 最後は囁くように呟くと、男の掌から水球が放たれる。迷いなく一直線に飛んでくる水球から身を守ろうと弥生は両腕で身体を庇う。
 衝撃を覚悟して目を瞑った時、弥生を中心にして緑色の光が展開される。弥生を包む柔らかな緑色の光に触れた瞬間、水球は霧散したのであった。

「何っ!?」

 男の動揺する声で腕の間から様子を見た弥生も、自分が緑色の幕に覆われていることに気づく。

「これは……?」

 今度は掌に青い炎の火球を作ると男は放ってくるが、またしても弥生に届く前に緑色の光が防いでしまう。

「邪魔をするつもりか!? 弥彦(やひこ)!」
「弥彦……さん?」

 男が唸るように低く呟いた言葉に弥生が反応するが、男に答える気は無いようだった。
 男の金色の瞳がますます光ったかと思うと、水と火の球が男の掌に生じた。

「これなら避けられないだろう」

 青い炎を纏った水の球は今までの水球や火球とは違い、見るからに強く激しいものだった。
 男が放った青い球は弥生を守る緑の光に触れると、近くに雷が落ちた時のような大きな音を立てた。

「きゃあ!」
 
 耳をつん裂く音に弥生が悲鳴を上げると、緑の光はひと際強く輝く。そして、青い球を弾き返したのであった。

「馬鹿な!? 弾き返しただと!」
 
 球が跳ね返った先には金の目を丸く見開いた男がいた。火と水の青い球は男の身体にぶつかると、青い光をまき散らしながら吸い込まれるように消えたのであった。

「ぐぅ……!」

 男が胸元を押さえながら唸った瞬間、男の身体から青い煙が立ち昇る。煙は男の上に集まると青い光の球となったのであった。

「綺麗……」

 先程弥生が取り込んでしまった風鬼の力のように淡い光を放つ青い球は、ふわふわと飛んできたかと思うと弥生の側で浮かぶ。

「それはっ……!」

 男は青い光を捕まえようとするが、青い光はするりと男の手からすり抜けてしまう。

「待て!」

 弥生が男の邪魔をしないように後ろに下がったのと、手を伸ばした男が近づいてきたのが同時だった。
 振り向いた時には男が目前に迫っていたのであった。

「きゃあ!」
「うわぁ!」

 男とぶつかった弥生は畳の上に転ぶ衝撃を覚悟して目を瞑る。いつまで経っても衝撃がこないので弥生がそっと目を開けると、男が片手で弥生を抱いて反対の手で壁を支えていたのであった。

「あっ……」
「無事か?」

 元の宵闇色に戻った目を向けながら男が尋ねてくる。これまであやかしが見える体質の為、特定の男とこういった経験が無い弥生には端麗な顔立ちの男の顔が眩しく見えた。

「は、はい……」
 
 弥生はなんとか頷くと、男の腕の中から抜け出そうとする。そんな弥生と男の間に青い光の球が入ってきたのであった。

「これって……」

 青い球が弥生の中に消えると、弥生の身体が燃え上がるように再び熱くなる。身体の内側がむず痒くなる感覚に、弥生は男を突き飛ばすと腕の中から逃れたのであった。
「おい! 人間……!」

 声を掛けられるも、弥生の身体の中で大きな炎と激しい竜巻が起こっているようで、話すことはおろか口を開くことさえ敵わない。
 男が弥生の両肩を掴むが、静電気が起きた時のように触れたところから小さな火花が散ってしまい、すぐに手を離してしまう。

「ふうぅ……」
 
 息をさえ難しくなり、胸元を押さえて身を小さくすると、弥生を中心にして風が発生した。
 風は勢いを増していき、やがて弥生の身体から力が抜けると、部屋を満たすような突風に変わったのであった。

「人間、早く鬼の力を止めるんだ!」
「どうやって!?」

 風に負けないように声を張り上げながら話している間も、突風は部屋の家具を倒し、置物を縦横無尽に飛ばす。飾っていた瀬戸物が壁に当たって割れると、破片が宙を舞ったのであった。

「ぐぅ……」

 飛び散った破片が男の頬を擦ると、浅く切れたのか少量の血が流れる。血は突風に混ざるとすぐに消えてしまったが、弥生にショックを与えるには充分であった。

(私が風鬼の力を止められないから……力を返せないからあの人が傷ついて……)

 弥生の目から涙が溢れると、今度は身体から青白い光が放たれる。荒れ狂う突風は雨のような水を纏い、暴風雨となったのであった。

「まさか、俺の鬼の力まで……!? 人間止めるんだ! そうしないとお前が鬼になってしまう!!」

 叫んだ男を阻むかのように、暴風雨は風向きを変えると男に狙いを定める。向かい風を受けた男はその場に立っていられなくなり、後ろに向かって飛んでいく。
 男はガラス窓に叩きつけられると、ガラスが割れる音に続いてその場に倒れてしまったのであった。

「きゃああ!」

 空気をつん裂くような弥生の悲鳴が響いたのか、ガラス窓が割れる音が大きかったのかは知らないが、暴風雨に紛れて外から話し声が聞こえてきたのであった。

「中で争っているのか!? 誰か警察を呼んでくれ!」
「母ちゃん。怖いよ……」
「この家は男が一人暮らしだったか? 様子を見に行くか……。誰か一緒に来てくれ」

 近所の人が集まって来たのか、やがて人の声と足音が多くなってくる。

(ここにいたら関係ない人まで巻き込んじゃう……)

 気を失った男の様子も心配だが、それよりもここに人が入って、暴風雨で二次災害が起きる方が怖かった。弥生は窓に近づくと、割れたガラスで手足を切りながら外に出る。

「いたっ!?」

 窓から地面に足をついた瞬間、外側に落ちていたガラス片が足の裏に刺さって声を上げる。

「誰だ!?」

 声が聞こえてきたので振り返ると、そこには着物姿の男性二人が恐怖で顔を引き攣らせていたのであった。

「お、鬼だ……! 女鬼がいるぞ!」
「違います! 私は人間で……」
「何でこんな下町に居るかは知らないがどっかに行け! 化け物が!」

 男の一人が近くに落ちていた石を拾って弥生に投げつける。石は弥生を包む緑色の光に触れると粉々に砕けたのであった。

「ひぃぃ……!?」
「待って下さい! 私は人間です! 中で倒れているこの人を助けて……!」

 弥生は呼び止めるが、男たちは背を向けて逃げて行く。弥生の足元に落ちていたガラス片が風で舞い上がると、男たちの背中に向かって弾丸のように飛んでいったのであった。

「わああ!」
「ひぃぃ!」

 ガラス片は男たちに当たらずに、そのまま真っ直ぐ飛んでいくと近くの木に刺さった。けれどもこれがきっかけとなって、近くで様子を見ていた人たちに異常が知られてしまった。泣き声や叫び声はますます大きくなり、パニックは広まったのであった。

(このままじゃ……)

 制御しきれていない鬼の力が暴れて、ますます無関係な人を傷つけてしまうかもしれない。
 弥生は近くの景石を足場にすると白い塀をよじ登る。そのまま這うようにして家を囲む塀の上を歩くと、敷地の外に出たのであった。

「誰か! 女鬼がいたぞ!」

 後ろから声が聞こえてくるが、弥生は振り返ることもなく一心不乱に走り出す。
 行くあてはどこにも無かった。助けを求めようにも、すれ違う人たちは誰もが奇妙なものを見るか、恐れるような顔をしていた。声を掛けるどころか、近づくことさえ憚られた。

「はあはあ……」

 人通りが少ない道で立ち止まると、弥生は膝に手をついて息を整える。すると空が急に暗くなったかと思うと、激しい雨と共に強風が起こったのであった。

「そんな……!」
 
 近くの家々の屋根が飛び、物が倒れる音が聞こえると、通りかかった人たちが悲鳴を上げながら近くの柱や塀に掴まっていた。

(ここじゃ駄目。関係ない人を巻き込んじゃう!)
 
 弥生が走り出すと、雨は止んで風が止まった。やはり暴風雨は弥生を中心にして発生するらしい。
 周囲に誰もいないところを探しながら、ただがむしゃらに足を動かし続けたのであった。

(どこか。どこでもいい。誰もいないところ、誰も傷つけないところに……!)

 しばらく走ると、弥生はどこかの石段の前にいた。見るからに古く今にも倒れてしまいそうな年季の入った鳥居から、しばらく誰も手入れをしていない場所だろうと考える。

「もしかして、ここなら……」

 弥生は意を決して鳥居を潜ると、石段を登ったのであった。
 息を切らせながらなんとか石段を登り終えると、目の前には朽ち果てた社が現れた。屋根瓦はところどころ落ち、障子は穴だらけ、木の扉は風で飛ばされたのか影も形も無くなっていた。
 誰もが住んでいないどころか、久しく手入れをされていないのは一目瞭然だった。

「ここなら誰にも迷惑をかけないよね……」

 それだけ呟くと、弥生は直接地面に座り込む。空を見上げれば、弥生を軸に社の辺りにだけ暗雲がかかっていた。弥生の顔に雨雲から落ちてきた雫が当たると雨が振り始め、やがて風を伴う嵐となった。

(どうしてこんなことになったんだろう……。バイトを終えて、ただ帰るだけだったのに……)

 いつもだったら今頃自宅に着いて寛いでいる時間だろう。夕食を食べながらテレビを観ているか、もしかしたら外食をしていたかもしれない。
 それがどうして誰かに追われて車に轢かれて、かくりよに迷い込んで鬼の力を手に入れてしまった。
 水鬼だというあの男は「早く鬼の力を返さないと鬼になってしまう」と言っていた。今ならまだ人間に戻れるのだろうか、それとももう鬼になってしまったのだろうか。

「分からない。何もかも分からない! 何でこんなことになったの……。私はただ平穏に暮らしたかっただけなのに……!」

 弥生の目から涙が零れる。子供の頃からあやかしが見えてしまうが為に苦労してきた。怖いあやかしがいると言っても誰も信じてくれなかった。
 両親には気味悪がられ、せっかく出来た友人からは変人として白い目で見られてしまう。弥生の話を唯一信じてくれた祖母はもうどこにもいない。
 孤独の二文字に押し潰されそうになる度に、どうして自分はこの世界に生まれてきてしまったのかと考えてしまう。

 ――せっかくあやかしが見えるのなら、人間側ではなく、あやかし側に生まれたかったとも。

 それならせめて静かに暮らしたかった。人もあやかしも何もかも関係ない、自分が自分でいられる場所で……。

 強風に煽られた社の屋根瓦がとうとう音を立てながら崩れ落ちてきた。落下地点には地面に座り込んだ弥生がいた。
 避けないと大量の屋根瓦で圧死してしまうのは分かっていた。それでも身体が動かなかった。
 自分が死ぬことでこの暴風雨が収まるのなら――鬼の力を返せるのならそれでいいと思った。
 顔を上げれば滝のような雨粒が顔に当たり、台風の時に吹くような大風が髪を揺らして巻き上げる。乱雲から降ってくる雨雫はこんなに冷たいものだっただろうか。
 目前に迫る屋根瓦を見つめながらその時を待っていた時、怒声が聞こえてきた。

「馬鹿が! ここで死ぬつもりか!?」

 弾かれたように振り向いた弥生の視界で、紺と青の縞模様が動いた。
 ほんの瞬きをする間に、弥生は引き摺られると地面に倒される。さっきまで弥生が座っていた場所に無数の屋根瓦が降り注ぎ、砕けた屋根瓦の破片や泥が辺りを舞ったのだった。

「くうぅ……うぅ……」

 土と雨の臭いが辺りを漂う中、近くで声が聞こえてきて弥生は閉じていた目を開ける。
 目の前には崩れ落ちてきた屋根瓦から弥生を庇うように男が覆い被さっており、屋根瓦の破片が当たったのか苦痛で顔を歪めながら小さく呻いていたのであった。

「あっ……」
「命を……粗末にするな……」

 男はそれだけ呟くと弥生の上からそっと身を引く。やはり痛かったのか身体を押さえたので、弥生も起き上がると男に手を貸そうとする。

「ごめんなさい……私のせいで……」

 涙声になりながら手を伸ばして男の身体を支えようとするが、今度は社を囲む木々から嫌な音が聞こえてくる。この狂風で限界が来たのかもしれない。ここにいたら今度は倒木の下敷きになってしまう。

(自分はどうなってもいい。せめてこの人だけでも)
 
 腕を引っ込めて距離を取ろうとした時、男は片腕を回すと弥生を引き寄せた。
 腰を掴まれて身動きが取れずにいると、頭上からは安心させるような静かな声音が聞こえてきたのであった。

「大丈夫だ。大丈夫だから落ち着け。ゆっくり深呼吸をするんだ。そうしたらこの嵐は収まる」
「で、でも、その前に木が倒れてくるかも……」
「何があっても俺が側についている。木が倒れてきても俺が庇う。もっと肩の力を抜いた方がいい。俺に呼吸を合わせろ。気持ちを落ち着けるんだ」

 言われた通りに何度も息を吸っては吐いてを繰り返す。その間も男は弥生の背中を擦り続けた。まるで泣きじゃくった幼子を落ち着かせるような優しい手つきに弥生の心が落ち着いてくる。
 そんな弥生に呼応するかのように風雨は弱まり、雨雲が霧散する。やがて無数の糠星が輝く宵の空へと姿を変えたのであった。

「収まった……」
「そのようだな」
「もう二度と星空を見られないと思っていたから……」

 男の腕の中から呆けたように空を眺めていると、緊張の糸が緩んだのか力が抜けて、両目から涙が溢れてしまう。
 男に身を委ねて泣いていると、そんな弥生を慰めるように男がそっと抱き上げたのであった。
「少しは落ち着いたか?」

 埃だらけの社の階段に座って屋根から落ちてくる雨垂れを眺めていると、どこかに行っていた男が両手にラムネ瓶を持って戻ってくる。
 男の着物と草履は雨と泥ですっかり汚れて見るも無残な姿になっていたが、それは弥生も同じだろう。服は雨で濡れて、靴下は泥だらけであった。きっと化粧も落ちて、髪も乱れている。

「近くの湧き水を汲んでこようとここを出たら、丁度ラムネ売りが売り歩きをしていた」
「ありがとうございます……」

 男からラムネ瓶を受け取ると、月明りが反射して瓶に自分の姿が映っていた。服や化粧が乱れていたのは思っていた通りだが、それよりも驚いたのはその姿であった。

「あれだけ妖力を暴走させたんだ。しばらく目はそのままだろうな」

 ラムネ瓶を見たまま固まった弥生に気付いたのか、隣に座った男が自分のラムネの飲みながら答えてくれる。
 弥生の目は男が火球や水球を放った時と同じような金色に染まっており、頭の中心には小さな角が一本生えていた。顔の輪郭は人間だった頃より細くなり、目鼻立ちがはっきりしているような気がした。肩まで伸ばしていた黒い髪も胸元まで伸びており、心なしか胸元が窮屈に感じられた。
 自分でありながら自分じゃない姿に、戸惑いを隠せなかった。

「道理で行く先々で女鬼って言われた訳ですね……」

 カラーコンタクトを入れたような鮮やかな金色の目と頭から生えた角。逃げていた時に女鬼と言われて恐れられた意味がようやく分かった気がした。
 こんな姿は鬼以外の何者でもない。人間だと言っても誰も信じてくれるはずがなかった。

「怖がられたのか?」
「化け物って言われて石を投げられました。当たらなかったんですが、ショックが大きくて……」

 ラムネ瓶を開けると弥生も口をつける。乾いた喉に染みる冷たさと炭酸が気持ち良い。瓶を傾ける度に中のビー玉が音を立てるのも懐かしかった。
 
(美味しい……)
 
 ラムネ自体飲んだのは数年ぶりだった。祭りの縁日で飲んだのが最後なのでもう数年以上前だろう。
 祭り会場には人間だけではなく、あやかしも沢山集まる。祖母が亡くなってあやかしと関わらないようにしてからは祭りにも行かなくなった。
 ラムネに意識を向けていた弥生だったが、隣から視線を感じて目線を向ける。そこには空のラムネ瓶を手に男が弥生を見つめていたのであった。

「顔についていますか?」
「何となく、弥彦に……横顔が亡くなった知人に似ている気がしてな」

 男は弥生の角に触れると指先で軽く擦る。くすぐったいようなむず痒い感覚に、弥生は「ひゃ!?」と声を上げてしまう。

「これならもう石は投げられないだろう。今の姿なら人間や他のあやかしと見分けも付かない」

 ラムネ瓶を鏡代わりにして覗き込むと、弥生の頭から角が消えていた。どんな手品を使ったのかと男を見るが、男はただ端的に「角が戻らない時はただ軽く刺激を与えれば身体の中に引っ込む」と教えてくれたのであった。

「生まれたばかりの鬼の子供は角が出ているからな。自分の意思で出し入れ出来るようになるまでこうして誰かに触ってもらう。子供に限らず、興奮して自分の意思で角が戻らなくなった時も同じだ」
「ありがとうございます……。気を遣っていただいて……」
「これで分かっただろう。鬼の力は人間には過ぎた代物なんだ。そろそろ返してくれないか?」
「どうやって返せばいいんですか?」
「鬼の力の取り出し方は鬼ごとに違う。自分が持つ鬼の力に聞いてくれ。誰かが強い力を使って強引に奪おうとしない限りは、本人が死ぬまで取り出せない。鬼の力が無い今の俺には強引に取り出すことも敵わない。お前が返してくれない限りは」
 
 懇願するような男の顔を見ていられなくて弥生は目を逸らす。返せるものなら返したいが、返し方が分からなかった。さっきの暴風雨が止んだ後から鬼の力は鳴りを潜めてしまい、今は物音一つ立てていなかった。

「すみません。取り出し方が分からないんです。鬼の力も何も言っていなくて……」

 ラムネ瓶を両手で強く握りしめていると、「そうか」と男は嘆息する。

「俺の力は別として、最初に取り込んだ風鬼の力が何も言っていないのなら仕方がない。明日まで待ってみるか」
「すみません……」
「そう何度も謝らなくていい。人間とはそういう生き物なのか。それとも弥彦の魂がそうさせるのか?」
「弥彦さん?」
「亡くなった風鬼の名前だ。割れたガラス瓶の中に入れていた風鬼の魂だ」

 ガラス瓶の中に入っていた緑色の光を思い出す。蛍のように暗い部屋で輝いていた緑の球体。それを男は「亡くなった風鬼の魂」と呼んでいた。あれが弥彦の魂なのだろう。

「死んだばかりの鬼の魂には生前の人格や意思が残っていることがあると言われている。鬼の力も魂に触れたからといって、自分のものとして受け継げる訳じゃない。生前の人格が誰に自分の受け継がせたいか決めている必要がある。その相手は必ずしも同族じゃなくていい。他のあやかしでも人間でもいいんだ。ただその為には一度相手をかくりよに連れて来なければならない」
「弥彦さんが私に力を受け継がせたいと考えて、私をかくりよに連れて来たのでしょうか……」
「さあな」

 その時、石段を登ってくる複数の音が聞こえてきた。男も気づいたようで、顔を上げると石段に顔を向けたのであった。