神様の御使いに、薬指の約束を


「そんなに大切なのか? おまえの願い事」

 男の子が彩寧の目をジッと覗き込んでくる。男の子の青紫の瞳は綺麗だけれど、その双眸が彩寧心の中までを覗き込もうとしているようで、少し怖かった。

「大切だよ、すっごく大切。だからどうしても、神様にわたしのお願い事を聞いてもらわないと困るの」

「ふーん」

 男の子が頷くと、チリンと鈴の鳴る音がする。

「だったら、おれからも神様に頼んでやろうか」

「え? もしかして、あなた、神様と知り合いなの?」

「まぁな」

「すごい!」

 目を輝かせる彩寧を見て、男の子がふっと大人びた表情で笑う。

「ねえ。神様にお願いをきいてもらうには、どれくらいお金が必要? わたし、お財布にたくさん持ってきてるの」

 彩寧は興奮気味にそう言うと、がま口の財布を開いてみせた。そこには、おもちゃ銀行のお札や硬貨がいっぱいに入っている。彩寧の全財産だった。

「そんなおもちゃ、必要ない」

「お金、いらないの?」

 おばあちゃんが、お願い事をするときには《お賽銭》が必要なんだと言っていたのに。

 彩寧が財布の中のプラスチックと厚紙のお金に視線を落とすと、男の子がバカにするように顔をしかめた。


「いらない。そんなものに価値はない。それより……」

 男の子が彩寧の左手をつかむ。そのまま強く引っ張られたせいで、がま口財布が落ち、おもちゃのお金が地面に散らばった。

「お前、名前は?」

彩寧(いろね)

 名前を言うと、男の子が彩寧の顔を値踏みするようにじろりと見てきた。

「おれから神様に口添えするにあたって、ひとつ条件がある」

「条件?」

「彩寧、おまえ、おれの嫁になれ」

 少し横柄で、乱暴な言い方だった。

「え?」

 意味が分からず目をぱちくりとさせていると、男の子が彩寧の左手を口のそばまで持ち上げる。

「どうする? おれの嫁になるか?」

 嫁って、お嫁さんのことだよね……。この男の子は、わたしと結婚したがってるってこと?

「大きくなったら結婚しようね」という約束なら、彩寧も幼稚園の頃に男の子の友達としたことがある。何の拘束性もない、その場限りの口約束だったけど、彩寧とその男の子は戯れにでも「結婚しようね」と言い合えるくらいには仲良しだった。

 だけど、今、目の前にいる男の子は、名前も知らない初めて会った子だ。そんな子に、少し高圧的な態度で「嫁になるか?」と訊かれても、ただただ戸惑いしかない。


「あなたはどうしてわたしにお嫁さんになってほしいの?」

 彩寧が困り顔で訊ねると、男の子は賽銭箱の向こうの社の奥のほうに視線を向けた。

「力が、必要だからだ」

「力?」

「おまえが嫁になることを誓うなら、おれが願いを叶えるための力を貸してやる」

「願いを叶える……?」

 男の子が社の奥に向けていた視線を彩寧に戻す。

 やや目尻の上がった、意志の強そうな青紫の瞳。その瞳の鋭さと美しさに、彩寧の身体が芯から震えた。

 その感覚は、彩寧が初めてこの神社を訪れたとき、突風のあとの静寂の中で感じたものとよく似ていた。

 唐突に彩寧の前に現れた、不思議な格好をした綺麗な男の子。この子はきっと、限りなく神様に近い存在なのだ。それは、疑いようのない事実に思えた。

「いいよ。あなたのお嫁さんになる」

 少し考えてから、彩寧は男の子の着物の袖をぎゅっと握った。

 彩寧は、どうしても神様にお願い事を叶えてもらいたかった。パパとママに、仲良くしてもらいたかった。

 男の子の「お嫁さんになる」と口約束するだけで神様に願いが届くなら、それほど容易いことはないと思った。


「二言はないな。一度約束を交わせば取り消せないぞ」

 男の子が、青紫の瞳で彩寧の目の奥をじっと見てくる。言っている意味はよくわからなかったが、彩寧は男の子の言葉に静かに頷いた。

「それなら、交渉成立だな。おれの名前は智颯(ちはや)だ。覚えとけ」

 少し目を細めて大人っぽい表情で笑う男の子を見て、彩寧の胸がドキンと高鳴った。

 ドキドキしながら頷くと、男の子がゆっくりと口を開ける。尖った犬歯が覗き見えた次の瞬間、男の子が彩寧の左手の薬指にがぶりと噛みついてきた。

「きゃっ、何するの?」

 薬指の付け根の部分に鈍い痛みが走り、驚いた彩寧の口から悲鳴が漏れる。彩寧が噛まれた左手の指を抑えて飛び上がると、男の子が手の甲で唇を拭いながらにやりとした。

「心配するな。彩寧の両親はすぐに仲直りできる」

 あれ。わたし、この子にお願いごとが何か教えたっけ——?

 彩寧が首を傾げたとき、チリンと鈴の鳴る音がして、髪の毛がふわりと風に揺れた。すぐにザザーッと強い風が吹いてきて、思わず目を閉じる。

 境内の周りの木々が揺れる音が収まってから彩寧が目を開けると、目の前にいたはずの男の子の姿が消えていた。

「え、智颯?」

 教えてもらったばかりの名前を呼んでみるが、男の子の声は返ってこない。

 ふと見ると、彩寧の手には落としたはずのがま口財布が握られていた。財布の口はきっちりとしまっていて、さっき地面にぶちまけたはずのお金も全部財布の中に入っている。

 夢——……? 

 よくわからないままにおばあちゃんの家に帰ると、ママが彩寧を探して玄関から飛び出してきた。

「彩寧。明日、お家に帰ろうか。パパが、ママと彩寧に早く会いたいって」

「パパと仲直りしたの?」

「そうだよ」

 彩寧のことを抱きしめるママの声は、とても嬉しそうだった。

 今朝起きたとき、「パパとはもう一緒に暮らせない」と、ママはものすごく怒っていたのに。たった数時間で状況が良くなるなんて信じられない。

 これは、神様へのお願いごとが叶ったということなのだろうか。

 神社で会った不思議な男の子のことを思い出しながら、左手を見る。彩寧の左手の薬指の付け根には、指輪を嵌めたような噛み跡がくっきりと痣になって残っていた。


「えーっと、牛乳、食パン、玉ねぎ……」

 中央公園をぐるっと囲むように作られている緑道を歩きながら、ママに頼まれたおつかいリストを唱えて、ひとつずつ左手の指を折り曲げる。

「それから、合い挽きミンチ」

 親指から順番に四本目の指を折り曲げようとしたとき、薬指の付け根の周りにある茶色の痣が目に付いた。

 おそらく生まれつきだったと思うのだが、わたしの左手の薬指の付け根にはまるで指輪を嵌めているみたいな変わった痣がある。

 普段の生活で気にすることはほとんどないけれど、たまにこうやってまじまじと手のひらを見たときに、変な痣だなぁと思う。

 中学生の頃に友達のリコちゃんに話したら、「左手の薬指って結婚指輪みたいだね」と笑っていて。左薬指の痣に、一度もそんなロマンチックな発想を抱いたことがなかったわたしは、リコちゃんの話を聞いて「なるほど」と思った。

 小学五年生のときにクラスの女の子たちの中で一番初めに彼氏ができたリコちゃんは恋愛上級者で、わたしの地元の友達の中でも群を抜いておとなっぽかった。

 リコちゃんに「結婚指輪みたいだ」と言われると、今までなんとも思っていなかった薬指の変な痣が誰かとの約束の徴のようにも思えてしまったから不思議だ。

 生まれつきの痣に、そんなロマンチックなエピソードがあるわけもないのに。


 緑道を歩いて中央公園の入り口のそばまで来ると、道路を挟んだ向こう側に駅が見えてくる。

 わたしの目的地は、駅前の商業施設の中にあるスーパーだ。

 スーパーなら家の近くにだってあるのに、ママがわたしにお使いを頼むときは、必ず駅前のスーパーを指定する。ママによると、このあたりでは、そのスーパーが一番安いらしい。

 安いと言っても、値段の差は数十円くらいなのに。主婦ってケチだよなぁと思う。

 ママは「節約だ」って言うけど、お使いの度にわざわざ家から遠いスーパーまで歩かされるわたしの苦労も少しは考えてほしい。

 道路を駅のほうに渡るために中央公園の入り口前の横断歩道で信号待ちをしていると、背中から風が吹いてきた。

 何気なく振り返ると、公園の入り口から伸びる長い階段の上のほうから、ピンクの花びらがひらひらと舞い落ちてくる。

「そういえば、中央公園って毎年桜が綺麗だよね」

 風に流されて降ってくるピンク色を眺めていたわたしの口から、ひとりごとがこぼれる。

 中央公園の広場にはソメイヨシノの木が何本も植えられていて、春になるとお花見目当ての人たちがやってくる。

 今年の桜の開花はいつもの年よりも遅かった。満開の時期は既に過ぎてしまったけれど、数日前に行われた高校の入学式のときにはまだ桜が咲いていたし、中央公園の広場の桜も、まだ散りきらずに残っているんだろう。


 横断歩道の信号は赤。ママに頼まれたおつかいは急ぎじゃない。

 わたしは横断歩道に背を向けると、中央公園の広場に続く階段に足をかけた。

 公園の入り口から伸びる階段は長くて、上りきるまでに少し息が乱れる。呼吸を整えながら額の汗を拭うと、横顔に吹いてきた風がふわりと後ろ髪を揺らした。

 階段を上って左側にある公園の広場では、親子連れや小学生の男の子たちが遊んでいる。

 広場を囲むように植えられた桜の木には、思ったとおり、ピンク色の花がまだところどころで咲いていた。

 広場に風が吹いて花びらが舞い散り、枝から伸び始めた緑の葉が揺れる。それを見つめながら、わたしはなぜか、自分が何かとても大切なことを忘れてしまっているような気がした。

 どうしてそんなふうに思うのわからない。だけど、桜の木の枝を揺らす風と同じ匂いを、昔どこかで感じたことがあるような気がするのだ。

 不意に耳元で、チリンと鈴の鳴る音がする。ハッとして右耳を抑えたけれど、もちろん、わたしの隣には誰もいない。

 知らないはずなのに、懐かしく感じられる風の匂い。鈴の音の空耳。今日のわたしは少しおかしい。

 ちょうど耳のそばにあてていた手で横髪を掬いあげながら、そういえばおつかいの途中だったことを思い出す。いくら急ぎではないと言っても、夕飯の準備をするまでにおつかいをして戻らなければ、さすがにママが文句を言うだろう。


 上がってきた階段を引き返そうとしたとき、広場とは反対方向へ繋がる公園の散歩道に石の道標が立っていることに気が付いた。そこには『高坂神社・東一三〇〇m』という文字が彫られている。

 中央公園は、とても敷地が広い。

 近所に住んでいても、利用するのは入口に近い広場ばかりで、公園の奥のほうまではほとんど行ったことがない。公園の敷地の中に、池や散歩の途中に休憩できる古民家のようなものがあることは知っていたけれど、神社があったことは知らなかった。

『高坂神社』と書かれた石の道標はずっと前からそこに建てられていたはずなのに、意識して見たのは初めてかもしれない。

 一三〇〇mというのは、ここからどれくらいの距離になるのだろう。

 道標を見つめていると、風が後ろから背中を押すように吹いてきた。後ろ髪がふわりと揺れて、ふと忘れていた何かを思い出しそうになる。

 気付けばわたしは、風に導かれるように『高坂神社』のほうへと足を進めていた。

 高坂神社までの道のりは、思ったよりも遠かった。しかも、この中央公園は神社に向かって緩やかな丘になっているらしく、上り坂や階段が多い。

 もう少しかな、もう少しかな、と思いながら歩いていくうちに、もはや引き返せないところまで来てしまい……。

 広場から二十分ほど歩いて、ようやく高坂神社の入り口を示す石碑が見えてきたときには、額にも背中にもじんわりと汗をかいていた。

 石碑の向こう側には、大きな石の鳥居が立っている。

 せっかくだから、お詣りぐらいしていこうか。

 そう思って鳥居の正面に立ったわたしは、その先を見上げて顔をひきつらせた。