「え、智颯?」
教えてもらったばかりの名前を呼んでみるが、男の子の声は返ってこない。
ふと見ると、彩寧の手には落としたはずのがま口財布が握られていた。財布の口はきっちりとしまっていて、さっき地面にぶちまけたはずのお金も全部財布の中に入っている。
夢——……?
よくわからないままにおばあちゃんの家に帰ると、ママが彩寧を探して玄関から飛び出してきた。
「彩寧。明日、お家に帰ろうか。パパが、ママと彩寧に早く会いたいって」
「パパと仲直りしたの?」
「そうだよ」
彩寧のことを抱きしめるママの声は、とても嬉しそうだった。
今朝起きたとき、「パパとはもう一緒に暮らせない」と、ママはものすごく怒っていたのに。たった数時間で状況が良くなるなんて信じられない。
これは、神様へのお願いごとが叶ったということなのだろうか。
神社で会った不思議な男の子のことを思い出しながら、左手を見る。彩寧の左手の薬指の付け根には、指輪を嵌めたような噛み跡がくっきりと痣になって残っていた。
「えーっと、牛乳、食パン、玉ねぎ……」
中央公園をぐるっと囲むように作られている緑道を歩きながら、ママに頼まれたおつかいリストを唱えて、ひとつずつ左手の指を折り曲げる。
「それから、合い挽きミンチ」
親指から順番に四本目の指を折り曲げようとしたとき、薬指の付け根の周りにある茶色の痣が目に付いた。
おそらく生まれつきだったと思うのだが、わたしの左手の薬指の付け根にはまるで指輪を嵌めているみたいな変わった痣がある。
普段の生活で気にすることはほとんどないけれど、たまにこうやってまじまじと手のひらを見たときに、変な痣だなぁと思う。
中学生の頃に友達のリコちゃんに話したら、「左手の薬指って結婚指輪みたいだね」と笑っていて。左薬指の痣に、一度もそんなロマンチックな発想を抱いたことがなかったわたしは、リコちゃんの話を聞いて「なるほど」と思った。
小学五年生のときにクラスの女の子たちの中で一番初めに彼氏ができたリコちゃんは恋愛上級者で、わたしの地元の友達の中でも群を抜いておとなっぽかった。
リコちゃんに「結婚指輪みたいだ」と言われると、今までなんとも思っていなかった薬指の変な痣が誰かとの約束の徴のようにも思えてしまったから不思議だ。
生まれつきの痣に、そんなロマンチックなエピソードがあるわけもないのに。
緑道を歩いて中央公園の入り口のそばまで来ると、道路を挟んだ向こう側に駅が見えてくる。
わたしの目的地は、駅前の商業施設の中にあるスーパーだ。
スーパーなら家の近くにだってあるのに、ママがわたしにお使いを頼むときは、必ず駅前のスーパーを指定する。ママによると、このあたりでは、そのスーパーが一番安いらしい。
安いと言っても、値段の差は数十円くらいなのに。主婦ってケチだよなぁと思う。
ママは「節約だ」って言うけど、お使いの度にわざわざ家から遠いスーパーまで歩かされるわたしの苦労も少しは考えてほしい。
道路を駅のほうに渡るために中央公園の入り口前の横断歩道で信号待ちをしていると、背中から風が吹いてきた。
何気なく振り返ると、公園の入り口から伸びる長い階段の上のほうから、ピンクの花びらがひらひらと舞い落ちてくる。
「そういえば、中央公園って毎年桜が綺麗だよね」
風に流されて降ってくるピンク色を眺めていたわたしの口から、ひとりごとがこぼれる。
中央公園の広場にはソメイヨシノの木が何本も植えられていて、春になるとお花見目当ての人たちがやってくる。
今年の桜の開花はいつもの年よりも遅かった。満開の時期は既に過ぎてしまったけれど、数日前に行われた高校の入学式のときにはまだ桜が咲いていたし、中央公園の広場の桜も、まだ散りきらずに残っているんだろう。
横断歩道の信号は赤。ママに頼まれたおつかいは急ぎじゃない。
わたしは横断歩道に背を向けると、中央公園の広場に続く階段に足をかけた。
公園の入り口から伸びる階段は長くて、上りきるまでに少し息が乱れる。呼吸を整えながら額の汗を拭うと、横顔に吹いてきた風がふわりと後ろ髪を揺らした。
階段を上って左側にある公園の広場では、親子連れや小学生の男の子たちが遊んでいる。
広場を囲むように植えられた桜の木には、思ったとおり、ピンク色の花がまだところどころで咲いていた。
広場に風が吹いて花びらが舞い散り、枝から伸び始めた緑の葉が揺れる。それを見つめながら、わたしはなぜか、自分が何かとても大切なことを忘れてしまっているような気がした。
どうしてそんなふうに思うのわからない。だけど、桜の木の枝を揺らす風と同じ匂いを、昔どこかで感じたことがあるような気がするのだ。
不意に耳元で、チリンと鈴の鳴る音がする。ハッとして右耳を抑えたけれど、もちろん、わたしの隣には誰もいない。
知らないはずなのに、懐かしく感じられる風の匂い。鈴の音の空耳。今日のわたしは少しおかしい。
ちょうど耳のそばにあてていた手で横髪を掬いあげながら、そういえばおつかいの途中だったことを思い出す。いくら急ぎではないと言っても、夕飯の準備をするまでにおつかいをして戻らなければ、さすがにママが文句を言うだろう。
上がってきた階段を引き返そうとしたとき、広場とは反対方向へ繋がる公園の散歩道に石の道標が立っていることに気が付いた。そこには『高坂神社・東一三〇〇m』という文字が彫られている。
中央公園は、とても敷地が広い。
近所に住んでいても、利用するのは入口に近い広場ばかりで、公園の奥のほうまではほとんど行ったことがない。公園の敷地の中に、池や散歩の途中に休憩できる古民家のようなものがあることは知っていたけれど、神社があったことは知らなかった。
『高坂神社』と書かれた石の道標はずっと前からそこに建てられていたはずなのに、意識して見たのは初めてかもしれない。
一三〇〇mというのは、ここからどれくらいの距離になるのだろう。
道標を見つめていると、風が後ろから背中を押すように吹いてきた。後ろ髪がふわりと揺れて、ふと忘れていた何かを思い出しそうになる。
気付けばわたしは、風に導かれるように『高坂神社』のほうへと足を進めていた。
高坂神社までの道のりは、思ったよりも遠かった。しかも、この中央公園は神社に向かって緩やかな丘になっているらしく、上り坂や階段が多い。
もう少しかな、もう少しかな、と思いながら歩いていくうちに、もはや引き返せないところまで来てしまい……。
広場から二十分ほど歩いて、ようやく高坂神社の入り口を示す石碑が見えてきたときには、額にも背中にもじんわりと汗をかいていた。
石碑の向こう側には、大きな石の鳥居が立っている。
せっかくだから、お詣りぐらいしていこうか。
そう思って鳥居の正面に立ったわたしは、その先を見上げて顔をひきつらせた。
「げ、また階段?」
やっとたどり着いたと思ったのに、石作りの鳥居の向こうには急勾配の長い石段が伸びている。本殿に行くには、この石段を上らなければいけないらしい。
石段の真ん中辺りには、石の鳥居よりは少し小さめの赤い鳥居が立っていた。両側には高木の緑が生い茂っていて、神社の本殿まで続く木のトンネルみたいになっている。緑の中に赤の鳥居が佇むその景色は、神様のいる場所に相応しく幻想的だった。
しばらく迷ったあと、わたしは本殿に続く石段を上ってみることにした。
特別願いごとがあるわけではないけれど、二十分もかけてここまで来たのに、何もせずに引き返すのは悔しい。
ゆっくりと時間をかけて、長い石段を上る。
真ん中の赤い鳥居をくぐり抜けて石段の一番上に足をかけたとき、正面に木造の本殿が見えた。境内が狭くて神主さんがいる気配もないけれど、整備の行き届いた綺麗な神社だ。
真っ直ぐに本殿に進んでいくと、賽銭箱の前に垂れ下がっている鈴緒を片手で握る。
鈴を鳴らそうとして、お賽銭がないことに気が付いたわたしは、おつかいのためにママに渡された財布から五円玉をひとつ拝借させてもらった。
お願いごとをするとしたら、なんだろう。
早く新しいクラスに馴染めますように、かな。それとも、新しい友達ができますように?
考えているうちに、ふと、同じ高校に通うことになったリコちゃんの声が耳に蘇った。
「高校生になったんだし、彩寧もそろそろ彼氏でも作んなきゃね」
小学生のときから男の子にモテモテなリコちゃんと違って、わたしは片想いの相手すらいない。だけど、リコちゃんの恋バナをいつも聞かされているわたしだって、恋愛や男の子に興味がないわけじゃない。
実は、入学式のときに隣に席に座った同じクラスの男の子が笑顔が爽やかでかっこいい子で。「好き」と言う気持ちまではいかないけれど、ほんの少しときめいた。
数日前に高校生になったばかりのわたしは、新生活にちょっぴり期待しながら、神様に手を合わせた。
「やっぱりこれだな。わたしにも、かっこよくて素敵な彼氏ができますように……」
目を閉じて、口の中で小さくつぶやく。
そのとき、チリンと小さな鈴の鳴る音がして、後ろ髪がふわりと風に揺れた。
また、鈴の音――?
ハッとして、目を開ける。だけど、神社の境内にいるのはわたしだけ。
こんなに何度も同じような空耳が聞こえることってあるだろうか。もしかして、近くに首輪をつけた猫でもいるのかな。
きょろきょろと境内を見回していると、本殿の陰にもうひとつ、石の鳥居があることに気が付いた。
平屋の本殿よりも少し背の低い鳥居の奥には格子戸のついた木造の小さな社が置かれていて、その両端に石造の狛犬が向かい合うように鎮座している。
あそこにも、お詣りする場所があったんだ……。
小さな社をぼんやりと見つめていると、突然、向かって左側にいる狛犬の目がギラリと光った。
「何、今の……?」
よく確かめようと目を擦ったとき、境内にザザーッと風が吹き荒れる。
体の重心が傾きそうなほどの強い風。飛ばされないように、足を地面にぐっと踏ん張る。
やがて風が吹き抜けて、木々のざわめきが治ったとき、また鈴の音がした。
透明な、澄んだ音色。それに混ざって、低くゆったりとした声が耳に届く。
「かっこよくて素敵な彼氏が欲しい。それが、今のおまえの願いごとか?」
驚いて振り向くと、わたしの隣に綺麗な顔をした和服姿の少年が立っていた。機嫌でも悪いのか、眉間に皺が寄るほど思いきり秀眉を顰めている。
境内には誰もいなかったはずなのに。いったいどこから現れたのだろう。
肩に軽く触れるくらいの長めの銀髪に、青紫の瞳をした少年の容姿は、かなり日本人離れしていた。
年齢は、見た目的にわたしと同じくらいか、もしかしたらいくつか上かもしれない。瞳の色によく似た群青の着物と灰銀の袴を着た立ち姿が、やけにさまになっていた。
「あ、の……。あなたは?」
「なんだ。おまえは自分の夫になる男の名前を忘れたのか」
少しエラそうな物言いをする和服の少年の言葉に、一瞬耳を疑う。
「今、なんと?」
「夫になる男の名前を忘れたのか、と聞いた」
少年に真顔で返されて、わたしの頬がひきつった。
「何言ってるんですか? わたしはあなたと知り合いですらありませんけど」
整った顔立ちをした綺麗な人ではあるけれど、初めて会ったわたしに「夫になる男だ」とか言ってくるなんて。ものすごく、怪しい。じゃなければ、頭がおかしい。
距離をとるように身を引けば、少年がそれを縮めるように近付いてくる。そのとき、草履がジャリッと地面に擦れて、チリンと鈴の鳴る音がした。さっきから、ずっと聞こえてきた鈴の音だ。
まさか、この人、広場にいるときからどこかに潜んで、わたしのことをつけていたんじゃ……。
もう一度チリンと鈴の音が聞こえたかと思うと、足が地面に張り付いたみたいにそこから動けなくなった。金縛りか、不思議な魔法にでもかけられたみたいだ。