「あの人が、あなたの父親が、いずれ常夜に送られる贄だと知っていながら名前をつけ、普通の娘のように育てたことの意味がわかってる? あなたの父親は、あなたに偽りの幸福を与えたにすぎない。最初から、私のように、生かさず殺さず……愛することなく育てるべきだったのよ」
「……でも、私は、感謝しています。ここまで育ててくれた……当主さまに」

 香夜の言葉が静かに響き、郁が目を見開いた。
 本心だった。香夜が母を恨んだことなど、一度たりとてなかった。
 しかし、一度でいいから母の心に触れてみたかった。愛されてみたかった。それが、どんなに高望みな願いだったとしても。

 するとその瞬間、黒い瘴気が場を包み込み、かぐわしい華の香りが辺りに充満した。
 香りはだんだん強くなっていき、やがてむせ返りそうなほどのものとなる。

「……この香り、は」

 紫紺の羽織に身を包んだ『何か』が近づいてくる。
 黒々とした瘴気が渦となり、薄暗い郁の座敷に広がっていく。

 横で、郁が静かに息をのむのがわかった。
 ふわりと舞い込んだ蝶が、光り輝く不思議な鱗粉を散らし、やがて消える。
 襖をあけて入ってきたのは、顔に面をつけた昨日の男だった。
 時間が止まったかのようにシンと静まり返った座敷に、異形の男が足を踏み入れる。

 男が足を進めるたび、かぐわしい華の香りが舞った。どうしてだろうか、香りを嗅ぐだけで、こんなにも頭がくらくらするのは。

「――(ぬえ)

 そう言った郁の声がわずかに震える。

 ぬえ、と呼ばれた男はゆっくり首をもたげると、香夜を値踏みするかのように見下ろした。
 面の隙間から見えたのは、昨日と同じ深紅の瞳。その鋭い眼光に、心臓が脈打つ。感じたことがないくらいに全身の神経が高まり、男から目を離すことができない。

「……この娘が、俺の花贄だな」

 気を抜けば一瞬のうちに喰われてしまいそうなほどの威圧感を放っているというのに、男の声色はどこか甘やかに柔らかく響いた。
 床に縫いつけられたかのように動かない自分の脚を恨みながら、香夜はゆっくりと郁の方へ振り返った。
 すると、郁は香夜と目を合わそうともせず口を開く。

「……頼みましたよ」
「……ああ」

 含みをもった郁と男の会話に首をひねっていると、ピン、と張るような視線を感じた。
 緩やかに、それでいて刺すように放たれた男の視線は香夜へと向かっているようだ。

「この期に及んでよそ見をする暇があるのだな、桜の娘」
「……っ」

 感じたのは、強大な力と圧迫感。
 この男はきっと、指先一つで自分を殺すことができるのだろう。
 そんな冷ややかな恐ろしさに、香夜は手足が冷たくなるのを感じた。

 いつの間にか、郁は座敷から姿を消していた。
 加護の力を持つ郁が手引きし、この場に立っているであろう最上位の妖。
 これで花贄の受け渡しは完了したということなのだろう。

 香夜がゆっくりと息を吐き出すと、男と目線がひそかに重なった。

 ――怯むな、前を向け。
 そう自分に言い聞かせる。
 男の顔は面に隠され、見ることはできない。赤い瞳だけが色を持ち、冷ややかにこちらを見据えていた。
 スッと、男の腕が香夜の頬に伸びる。反射的に肩をすくませると、男はゆっくりとその手を引いた。

「あなたは……」

 香夜がそう言うと、面の下で男が薄く笑ったのがわかった。
 目をそらしてはいけない。怯えた素振りを少しでも見せてしまえば、何かが崩れ落ちる気がする。張り詰める空気の中、香夜は無意識にそう感じとる。

「常夜の頭領、……(しき)だ」
「……し、き」
「……この屋敷に入った時、強い香りを感じた。上質な、なんともそそられる香りだった」

 そう言って、識が香夜の首元に顔を近づける。
 黒い着物からほんの少し見えた紋印のようなものが赤く色づき、こちらを誘惑しているようだった。

「お前の香りだな? 桜の娘」

 耳元で囁かれた、低く、腹の内側をゆるりと撫でられるような声にぞくりとした。
 自分は今からこの男に喰われるのだと、嫌でも自覚させられるようだった。

「――そんなの嫌」

 ポツリとつぶやいた香夜の声に、識の動きが止まる。
 そのまま香夜は懐刀を取り出し、震える手で目の前にいる妖へ刃を向けた。

「確かに私は贄としてあなたに捧げられるために生まれてきた。それでも、私には父の教えがある。自分の身は自分で守れ……生きろと、そう言われたの」

 圧倒的な力を前に、刃の切っ先をふるふると震えさせて立つ香夜の顔色は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど真っ青だ。
 しかし、目に灯る光だけは、ブレずに識を捉えていた。

「なるほど、虚勢にしては言の葉に力がこもっているな」
 
 そう言って、識がくっくと喉の奥を鳴らして笑い始める。
 拍子抜けした香夜が少し力を抜くと、識は可笑しそうに肩を揺らしながら距離をつめた。

「そう身構えるな」
「……え?」
「常夜頭が惹かれ合う血を見つけると、つがいとなったような引力を持つというが……」

 識の手がゆっくりと伸び、香夜の首筋に長い指先が這わされた。
 つう、と肌を滑る冷たい感触に思わず小さな声が漏れ、持っていた刀が落ちる。

「……確かに、お前が俺の比翼(ひよく)のようだ」

 体温を感じられるほどに近づいた識の鎖骨の下、全貌をあらわにした紋印が鮮やかに色を持っているのが見えた。
 香夜の鼓動と連動し、識の身体に浮かんだ印が鮮明になっていく。そのまま香夜の手をつかんだ識が、赤い印へと導いた。そっと指先が触れた瞬間、身体に柔らかな電流が走ったかのような感覚が襲う。感じたことのない感覚に、香夜は脚の力が抜けていくのがわかった。

「……っ、あ」
 
 香夜の反応を確かめるようにして何度か指先を上下させた識が、薄く笑って口を開く。

「明日、迎えを出す。扉を使い、こちらの世界に来い」
「……こちらの、世界?」
「――夜が明けぬ地、常夜だ。お前を一八代目常夜頭、鵺の花贄として迎えよう」

 面の下でささやかれた、低く甘い声が耳元で響いた。

 かぐわしい華の香りが鼻先をくすぐる。媚薬のような香りに、うまく思考がまとまらない。
 くらくらとする頭のなかで、妖しく光を放つ紅い瞳から目を反らすことができなかった。