母屋に入り、桜の紋が描かれた襖の前にたどり着く。郁がいる座敷だ。
この先に郁がいると考えただけで、身体がずしりと重くなる。
すると、閉じていた襖が音もなく開かれた。
立っていたのは、昨日と変わらず冷たく香夜を見据える郁。遅れて漂ってきたのは、かすかな鉄の匂いだった。
考えるより先に、香夜の腕は郁の腕をつかんでいた。
「お母様、もしかして怪我を? 昨日負ったものですか?」
香夜がそう言うと、郁はわずかに目を見開く。
しかしすぐに表情を元に戻し、荒く手を振り払った。
「無駄口は慎みなさい」
冷たく言い放った郁に、香夜はわずかな違和感を感じた。
いや、違う。違和感があるのは郁ではない。もっと奥、座敷の中だ。
薄紫のモヤがかかったような座敷の中に、何かがいる。
その何かに気が付いた瞬間、香夜は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……妖が、いるのですか?」
声が震える。
まさか、襖が開くまで気が付かないとは。
座敷の中から感じる禍々しい気配は、妖のものだ。それも、かなり強い力を持った。
昨日も感じた強い華の香りが、じんわりと鼻腔に届く。
「ええ、最上位の妖、常夜頭が」
そう言うと、郁は口元をゆるめてみせた。
皮肉なことに、郁がそうして娘に向かって笑みをみせたのは数年ぶりだった。
「……私を、そんなに早く追い払いたいですか」
「……何を分かり切ったことを。あなたは、元々妖に捧げられるための贄でしょう。それが少し早まっただけのこと。……あなたには今日、この場で妖の花贄になってもらいます」
何年かに一度、宗家から一人だけ選ばれる少女を花贄という。永く続く呪いに侵された異界の主、常夜頭に妙薬となる血を捧げるため、妙齢の娘が選ばれるのだ。
宗家に生まれた娘は初めから、異界の主に血を奪われることを目的として育てられる。つまり、生まれたその瞬間から贄として生きることを強制されるのである。
花贄の娘は成人するまで、加護を持つ両親の元で暮らす――という決まりがあるにはあるが、贄に選ばれた娘の尊厳を守るためという体のいい口約束にすぎない。
――でも、それでも。
「成人するまでは待ってくれると、約束したじゃないですか……! それまでに、お父様の死の真相を知って、私は……っ」
最後まで言い終わる前に、ぱんっ、と乾いた音が鳴った。
香夜の白く透き通った頬がほんのりと赤くなる。郁に叩かれたのだと気づき、香夜はぐっと唇をかみしめた。
「いつまで寝ぼけてるの。私がどんな思いで今まであなたを、妖を惹きつける血を持つあなたをを匿ってきたか、わかるでしょう?」
ずっと淡々としていた郁の声色が変わる。
「……あなたなんて、産むんじゃなかった。そう、ずっと思ってた。そんなに早く追い払いたいのか、ですって? 当たり前じゃない。あなたを愛したことなんて一度もない。あなたなんて……花贄なんて、厄災以外の何物でもないんだから……!」
「お母、さま……」
「そうやって呼ばないで!」
強く拒絶され、香夜は伸ばしかけていた手をそっと降ろす。
わかっていたことだった。母は、香夜を愛してなどいなかった。ずっと目障りだったのだろう。
記憶の中の郁は、静かで、か弱い女性だった。
郁の座敷からは、中庭に植えられた桜の木がよく見えた。ひらひらと散る薄紅色の花びらが、長くたおやかな郁の黒髪に落ちる。病弱な郁の横顔は透き通ってみえるほどに青白かったが、それが一層彼女の美しさを際立たせていた。
郁が香夜を見る時、その美しい顔はいつも嫌悪と畏怖に満ちていたように思う。
初めはどうしてそんな顔でみるのだろう、どうしてこんなに嫌われているのだろうと不思議に思った。好かれようと、わざと媚を売ってみたこともある。
それでも強く当たられる度に、こういうものなのだと慣れていった。
しかし、幼いころは確かに幸せだった。
いつか妖へ捧げられる贄として、家の最奥に押し込むように隠され育った日々。
それでも、その小さな箱庭のような空間は優しく甘やかに香夜を庇護してくれた。
父がいたからだ。
父は、贄として生まれた自身の娘に‟香夜”と名をつけて可愛がった。
慈しみ、最上の愛を注いだ。
庭に一本だけ植えられた桜の大樹の下、陽だまりのなかで父は香夜の頭を何度も優しく撫ぜた。
どこか申し訳なさそうに、太陽のように微笑んで香夜の頭を撫ぜた父は、恐ろしい‟外の世界”から香夜を守ってくれた父は、もうどこにもいない。
父が死に、宗家の当主は事実上、郁が務めることになった。
身体が弱く病に伏せがちだった郁がどんな思いで今まで家を守ってきたか、想像にたやすい。
‟餌”となる香夜が家にいる限り、妖からの襲撃はいつまででも続く。もう、とっくに限界だったのだ。