広い屋敷の隅、太陽光すら当たらない影の間。
 そこが、香夜の座敷だった。
 閉め切った障子から差すほんのわずかな光を頼りに、着替えへと手を伸ばす。
 身体を動かせば、昨日負った小さな傷がチリリと痛んだ。

 妖が屋敷へ侵入した騒動から一晩が経った。
 中庭に倒れていた使用人たちは結局無事だったが、みな昨日のことを何も覚えていないらしい。

 そして、今日、香夜は郁から直々に呼び出されていた。

 こんな時間に、郁から呼び出されるなんて初めてのことだ。
 考えるまでもなく昨日の件だろうが、どうせ折檻されるのなら軽いものがいい。
 そうぼんやりと考えていた自分自身に気が付き、香夜は思わず苦笑した。

 座敷牢と比べても差分がないくらいに質素な六畳ほどの狭い室内で、かけてあった羽織に腕を通す。糊のきいた羽織は腕を通すとひやりと冷たい。

 そのままいつもの癖で護符と懐刀を取ろうとして、ふと手がとまる。
 小さな懐刀は、幼いころ香夜が父から譲り受けたものだ。

『これは、香夜を守ってくれる刀だよ。……香夜は女の子だけど、自分で自分を守れるくらい強くならないといけない』
『おとうさまよりつよく?』
『そうだ、強くなるんだ』
『どうして? わたしのことは、おとうさまが守ってくれるでしょ?』
『……生きるためだよ。僕がいなくても、生きていくために』

 そう言って、あの時父は哀しそうに微笑んだ。
 香夜の父は、数年前、妖に殺された。
 冷たく寒々しいこの屋敷の中で、唯一香夜の味方をしてくれていた父。
 屋敷に仕える陰陽師が顔を真っ青にして、父の死を知らせに来た時、暖かな加護が、すう、と消えたような感覚になったことを覚えている。その瞬間、‟花贄”である香夜を妖から守るためにある肉親の加護は一人分薄くなった。
 今では、母親の郁が持つ加護だけだ。しかし一人分だけでは加護が薄いのか、この屋敷にはたびたび昨日のように妖が紛れ込むことがあった。

 姿見の前に立ち、香夜は軽く息をつく。目に入ってきたのはわずかに怯えているようにも見える自分の姿だった。
 父と同じ真っ黒な瞳がゆれている。香夜は自身の長い髪をひとまとめにして、頬をぱん、と軽く叩いた。

 襖を開けると前にあったのは暗い廊下。隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。
 どこまでも続いているかのような長屋の廊下はしんと静まり返り、縁側から見える中庭の灯篭にはうっすらと苔がむしていた。