有栖の身体が全て灰へと変わるころ、枯れたひとひらの花びらが一枚シンと静まり返った座敷の中央に散った。
 カラリ、と音を立てて、鈍く光を放つ銀のロザリオが床に落ちる。

「終わった……の?」
「……ああ」

 香夜の声に頷いた識の表情が、穏やかに和らぐ。
 空に浮かんだ燃えるような月は、何も言わずにただこちらを見つめている。何もなかったかのように、ただそれが、壮大な海の中で立ったほんのわずかな波風だったと言わんばかりに。

 香夜はそのまま、トクトクと鳴る自分の鼓動に、手を当てる。
 ――まだ、やらなければいけないことがある。
 近づいた識の体温を感じながらゆっくりと目を閉じ、心の中に語りかけるようにしてその名を呼ぶ。
 すると、瞼の裏側で視界が真っ白な光に包まれ、身体がふわりと軽くなるのが分かった。

「……呉羽さん」

 胸の中、呼びかけた香夜の声に、振り返った彼女の表情は見えない。
 それでも、溢れんばかりの光に包まれた呉羽は、目を細めて微笑んでいるような気がした。
 もう、目覚める気はないとでも言うように。

「……ずっと、見ていてくれたの?」

 返事が返ってくることはない。言葉を交わすことはできずとも、ずっと心の奥底で感じていた自分の一部。
 思えば、ずっと、彼女に見守られていたような気がする。

 ――生きろ。

 いつの間にか変わっていた瞼の裏の世界で、うららかな春の日差しの中、舞い落ちる薄紅の中で優しく笑みを湛えた父がそう言う。

 ――生きろ、香夜。

 繰り返し見ていた夢の中、子守歌の懐かしい旋律を口ずさみながら見上げたのは、一本の桜の大樹。
 柔らかな日差しが差し込むここは、そうだ。――私が生まれた、桜の家だ。

 泣きたくなるほどの優しいまどろみが、瞬きの間に消えていく。
 赤い髪をなびかせながら後ろを向いた呉羽が、光の中に歩いていくのが見える。

 ――ああ、行ってしまうんだ。

 まどろみが醒め、呉羽や父の姿が見えなくなるころ、白昼夢がゆっくりと消えていくのが分かった。
 目を開くと、淡い光を灯した深紅の瞳が香夜を見つめていた。

「……香夜」

 呼び慣れていない名を口にするように、たどたどしく揺れた識の声が耳に届く。
 あたたかな響きに満ちたその声色に香夜が微笑み返すと、そっと瞼に触れるような口づけが降ってくる。

「香夜」

 識はそのまま、愛した存在がここに居ることを確認するようにして何度も何度も名前を呼んだ。
 髪を梳く手のひらの温度が心地よく、香夜は静かに目を閉じる。つう、と伝った涙が、頬を濡らした。

 途方もないほどの永い夜の中、ずっと自分を待ってくれていた識に手を伸ばす。

 今はただ、この優しい体温に包まれていたい。
 そして目を覚ましたころ、彼に伝えたい言葉があるのだ。

 白く輝く花びらが舞う光の中、失った比翼を見つけたように香夜の身体を強く抱く識の背に、腕を回して力を込めた。