「だ、だから少し離れて……!」
「断る」
「なっ……!」

 先ほどから永遠に続いているこの問答。
 ――どうしてこんなことに。
 香夜は、頭の中でそう自分に問いかけた。いや、というよりこの状況に対してと言ったほうが正しいだろうか。

「少し確かめているだけだ。お前は、理解できないところが多すぎる」

 それはこちらのセリフだ、と叫びたくなるが、恨めしくにらむことしかかなわない。
 香夜を畳の上に組み敷き、無遠慮に覆いかぶさっているのは一八代目常夜頭。美しく整い切った顔をこれでもかというほどに近づけ、こちらをじっと見続けている識に、香夜は抵抗を続けていた。
 深く沈んだ夜闇の中で、識の赤い瞳が光を放っている。着流しは着崩され、布ずれと共にその身体についた逞しい筋肉を晒していく。こうして間近で見ると、細く引き締まってはいるものの、均等に厳めしく鍛えられた精悍な身体つきである。
 そんな獣のような腕に、眼差しに、香夜がかなうはずもない。しかし、このままでは非常にまずい。

「どうした、何故そんなにも赤くなって縮こまっている」
「それは……っ!」

 そう、おかしいのはこの状況だけではなかった。香夜の身体もまた、先ほどから制御できないほどにおかしいのだ。
 識に触れられた箇所が疼き、甘やかな痺れを持って熱を帯びる。自分の心臓の音が、バクバクと耳元で鳴り響いている。その初めての感覚に、香夜はほろほろと涙を流し顔を赤らめることしかできない。
 
 いや、原因ならば少し思い当たるふしがあった。
 それは、識への感情をはっきりと自覚したことだ。
 過去の真実を見てしまったことも相まって、香夜はすっかり自身が抱える気持ちを知ってしまった。
 
 それに元々片鱗ならば所々に出ていた。識を見ると頭がぼんやりとして何も考えられなくなったり、華の香りがまるで媚薬のように香ってきたり。
 それを理性でなんとか制御していたのを、自覚してしまったことで一気に抑えられなくなったのだ。
 熱い識の体温を全身に感じながら、香夜はキッと目の前の妖をにらみつけた。

「なんだ、言いたいことがあるのか」
「言いたいことなら、たくさん……! だからまずは離れて、」
「断ると言っているだろう。言いたいことがあるならこのまま言え」

 識の無慈悲な言葉に、香夜は彼をにらむ眼光を強めた。
 言いたいことがあっても、こうして身体を密着させられていては言えないのだ。どうしてそれが分からないのだろうか。

 しかもこの男の悪いところは、全て計算無しで行動しているところだ。
 今、こうして香夜を強く押さえつけ、組み敷いた形でじろじろと観察するように眺めているのも、無意識なのだろう。

「……心拍の上昇が凄いな。発情しているのか?」

 真顔でそう言った識に、香夜は思わず口をあんぐりと開いてその丹精な顔をポカンと見つめた。
 ほろり、と涙が伝う。
 本当に、どうしてこんなことになったのか。
 それは、数時間前までさかのぼる――。

 土御門有栖が城下町から姿を消し、有栖の妖術で強制的に眠らされていた伊織とセンリが目覚め、香夜たちは鵺の屋敷に戻ることになった。
 言動の節々から有栖の関与が明らかとなった‟徒花の呪い”。
 一旦、有栖はこの場を退いたが、また近いうちに姿をみせるだろう。

 有栖の襲撃で半壊した城下町は識の魔力でほぼ元通りとなり、結界が張り直された。
 それでも妖術で操られていた妖だけは、身体だけではなく脳まで浸食されていたため、元の姿に戻すまで時間がかかるらしい。
 倒れたまま意識を取り戻さない琳魚もまた、駆け付けた鵺屋敷の使用人によって運び出された。
 屋敷へ運び、他の妖たちと同じく伊織が治療を施すという。

 予想外の襲撃があったはものの、事が一旦の収束を迎えようとしていた。しかし、そう丸く収まるはずもなく――。

「……なんで識がいるわけ? は? しかも有栖を逃がした? 本気で言ってんの?」
「いやいやいやいや、有栖ごときにしっかり眠らされてた伊織くんがそれ言う? 僕おらんだら今頃全滅やったんやけど?」
「眠らされてなかった奴が何もできてない方が問題だろ。烏天狗の頭が泣いてあきれるね」
「はああぁぁぁ!?」

 一触即発の空気を醸し出しながら向かい合った凪と伊織。大人げない伊織の言葉に対し、ピキ、と額に血管を浮かべながら睨み上げるこれまた大人げない凪。凪の後ろには、先ほどから何度もちらちらとこちらの様子を伺っているセンリの姿。バレていないとでも思っているのだろうか、凪に隠れ、識のことを盗み見ているのがはた目から見て丸わかりである。

「はいー! それ言うなら識も何もしてませんでしたー!! 香夜ちゃん抱えてアホみたいに突っ立っとっただけですぅー!」

 大きく腕を振りかぶった凪が、小さな子供のようなことを言いながら識を指さす。
 当の識はというと、橋の親柱にもたれかかったまま煙管をふかして素知らぬ顔をしていた。様になる光景ではあるが、凪や伊織の方を見ようともしないその横顔からは感情を読みとることができない。

「お前に言うとるんやぞ識! お前には色々聞かなあかんことがあるからな、有栖が元人間やったこととか、徒花の呪いと空亡の呪詛が同じものやったとか、なんで僕らに隠しとったん!? 普通にショックなんやけど!」
「……言う必要があったか?」
「あぁ!?」

 凪の怒号に、センリが頭を抱えるのが見えた。
 有栖の術から目を覚ました香夜は、気が付くと識に抱えられていた。
 空間に出現した紫紺の渦によって有栖が姿を消してもなお続いた口づけは、血走った眼をした凪がべり、とはがし事なきを得た。しかしどうしてそんなことをしたのか、また何を思ってここに来たのか、今のところ識の方から説明は何もない。というより、話す気がなさそうにも見える。

「……あ、あの、凪……?」

 そして、よくわからないことがもう一つ。
 香夜は横にいる凪に声をかけ、今一度自分の手のひらをまじまじと眺めた。顔を上げると、キョトンとした表情を浮かべた凪と目が合う。

「うん? どうした? まだどっか痛いとこある?」
「い、いや……何で手を繋いでるのかなって……」

 そう、香夜の手は先ほどからずっと凪の手に繋がれたままなのだ。
 繋いでいることを忘れているのではないかと思うくらいに自然な手つきだったため一度強めに振ってみたのだが、「はは、香夜ちゃんお転婆さんやなぁ」で済まされてしまった。

「え……? 何でって、さっき香夜ちゃん自分から危ないとこ突っ込んでったん覚えてないん? あとこうやって繋いどらんとまた識に持ってかれるかもしれんやん……」

 そう言って、何か間違ってますか、とでも言いたげな表情で香夜を見る凪。
 自分から危ないところへ突っ込んでいった、というのは香夜が琳魚を助けるために無茶なかばい方をしたことだろうか。
 ぎゅっと、繋がれた手を握る力が強まり、反射的に顔が熱くなってしまう。凪はそんな香夜を絡み合った視線の先で少しいたずらな瞳で見降ろした。

「ほら、さっき識に抱えられとった時よりええ顔しとるで? 何なら常夜頭の花贄なんてやめて僕のとこお嫁にでも来る? そしたら空亡どころか、誰も簡単には手出しできんくなるさかい。烏天狗の嫁なんてここら辺威張り散らして歩けるわ」
「な……っ!」

 皆が見ていることなどお構いなしな様子で、凪は繋いだ手を自分の唇へと持ち上げ、そのまま(うやうや)しくキスしてみせた。
 凪の仕草に、香夜は口を開いたまま何も言い返すことができない。そしてどこか満足気に香夜を見つめる凪。凪の言葉は冗談なのか本気なのかが分かりづらくて困ってしまう。

 すると、香夜の後ろでクックと喉の奥を鳴らした低い笑い声が聞こえた。
 ふわりと華の香りが漂い、視界の端で見慣れた羽織が揺れ動く。

「……俺が不在の間に随分と手懐けられたようじゃないか、凪。香夜を懐柔し、鵺に仇なすつもりか?」

 我関せず、のような顔をして煙管をふかしていた識が、香夜の横へゆっくりと歩いてくる。
 途中、その赤い瞳にねめつけられ、ドクリと心臓が跳ねた。

 識が凪と向き合うように立つと、魔力に伴った黒々しい瘴気がうねって空気が震えだす感覚がした。
 凪は正面に立った識を一瞥すると、はは、とわざと茶化すようにして笑い、そのまま口を開く。

「識こそ、身体は平気なん? 徒花は今んとこ見えんけど……、香夜ちゃんを呉羽の面影に重ねて振り回すなら、いっそのこと僕に譲ってくれてもいいんちゃう?」

 凪が口にした、‟呉羽の面影”という言葉に香夜は顔を上げた。
 相対した識は、顔色を変えずに涼しい顔をしてこちらを見たままだ。

「何のことだ? 振り回すどころか今だって、香夜を取り戻すためにここまで足を運んだようなものだ。城下が腐敗した炎に包まれたと、屋敷の方にまで伝わってきたからな」

 そう言って不敵に笑んでみせた識。
 識が自分を取り戻すためにわざわざここに来た。そんなことあり得ないとは分かっているはずなのに、香夜の胸は情けなくトクリと鳴った。

「……僕は手懐けられたんやないで、心打たれたんや」
「わ……っ」

 凪の手の力が再び強くなり、ぐい、と凪の方に引き寄せられる香夜の身体。
 琥珀色の瞳が優しく揺れる。その真摯な色にたじろぎ、思わずじっと見つめると、凪はどこか懇願するように眉を下げてみせた。どうしてそんなに悲しげな表情でこちらを見るのだろうか、そう思い香夜が口を開こうとしたその時、ピク、と識の眉間にシワが寄るのが分かった。

「この贄は、俺のために咲いた花だ。お前のものではない」
「香夜ちゃんは、‟もの”ちゃうよ。‟人間”や。俺のために咲いた花? 贄? 識、香夜ちゃんのことどう思っとるん? ちょっと色々言葉足らずすぎるんとちゃうか?」

 凪の苛立ったような声色に、香夜は思わず心の中でやめて、とこぼした。
 冷ややかな表情を浮かべ、何も答えない識の代わりに少し離れたところで見ていた伊織が大きなため息をついた。

「あのさ、この茶番いつまで続くわけ? 識はともかく凪、お前さっきからおかしいよ。譲るとか、誰のものとか、論点が違うだろ。花贄は、常夜頭に血を捧げる存在だ。識の印がこの女を選び、常夜に足を踏み入れてる時点でその事実は覆らない。お前さ、花贄をどうしたいわけ」
「やから、花贄とか誰の器とかどうだってええっちゅうとるやろ。一人でもこの子を真正面から見てあげとる奴はおらんのか? 身分やない、呼称でもない、香夜ちゃん自身をや」

 そう声を荒げていう凪の手のひらから、あたたかな温度が伝わってきた。
 同時に、ふわ、とモフモフした感触が足元をくすぐる。下を見てみると、怯えた様子を見せつつも両脚を踏ん張って香夜にしがみつくセンリの姿があった。

「オ、オイラは香夜が誰でも関係ないぞ! 香夜は香夜だからな!」
「凪、センリ……」

 二人が言う言葉は、あたたかくて少しだけむず痒い。自分を見てくれている、そう思うだけでも、何か大きなものに抱きしめられているような感覚がした。
 どういう表情をしていいのかが分からず、きゅっと口をつぐんだまま空いた手でセンリの頭を撫ぜる。すると薄茶色の胸毛がモフ、と膨れ上がり、分かれた尻尾がピンと立ち上がった。

「香夜ちゃんは僕らの役に立とうとか考えんくてええんよ。センリから聞いたわ。琳魚の傷治したんやて?」
「それは……、うん、そうなの。治せたらいいなって、思って」

 キレの悪い言い方になったのは、凪に黙っていたことへの後ろめたさからだった。香夜がそう言うと、耳を下げ、目を潤ませたセンリが言葉をつまらせるようにして口を開く。

「……っ、オイラ、オイラ。香夜があの綺麗な姉ちゃんを治したの見て、すげえって思ったんだ。でも、香夜の腕からたくさん血が出てて、怖くもなったんだよ。もし怪我してたのがオイラだったとして……オイラだったら、香夜が痛い思いをしてまで助けてほしいとは思わないんだ、きっと」

 上手く言えないんだけど、と続けたセンリに、鼻の奥がツンと痛む。
 一つ一つ、言葉を選びながら必死に伝えようとするセンリの尻尾がだらんと垂れ下がり、大きな一粒の涙がフワフワした頬を伝う。
 そんな顔をさせてしまうつもりはなかったのに。
 香夜が再び手を伸ばそうとすると、それを制するように凪が穏やかな声色を発する。

「……香夜ちゃんは正しいことしたと思うで。せやけど、琳魚も妖や。人間の血を飲み込んだ瞬間、狂暴化する恐れもあったわけや」
「……あ」

 考えてもいなかったことに、香夜の身体から血の気が引いていくのがわかった。
 確かに凪の言う通りだ。妖にとってご馳走のようでもある花贄の血。それでも、常夜の妖たちが香夜をめがけて襲い掛かってこないのは、幾年もの長い月日が流れて妖が人間の血の味を忘れたからなのだと、凪は言っていた。
 香夜はそれを、自ら琳魚に与えてしまったのだ。その後彼女がどうなるかすら考えることなく。

「そんな真っ青な顔せんでも大丈夫や、琳魚が飲んだ血はほんの少しやろうし、自我失って香夜ちゃんに噛みついてきたりはせんよ」
「でも、私考えてなかった。治せたら嬉しいって、……私も何か役に立ちたいって、ただそれだけ……」

 ただそれだけを考えていた。
 ボロボロになりながら自分を助けにきてくれたセンリに、凪のあたたかな体温に、報いたいと思ったのだ。
 すると、凪が繋いでいた手をゆっくりと離し、目線を香夜に合わせて屈んだ。そしてポン、とその大きな手のひらを香夜の頭へとのせる。

「うん、ありがとうな。香夜ちゃんがあの時身を(てい)してかばってくれてなかったら、今頃琳魚は死んでもうとったわ」
「……っ」
「でも、今度からは違う方法を見つけてほしいねん。僕も、なるべく近くにおるようにする。なるべく近くで、香夜ちゃんのこと助けるから、自分を傷つけんといて。香夜ちゃんは、自分の身を挺して誰かを救わんと存在価値を見出せん存在なんかやない。ただの、普通の女の子なんやから」

 凪が、再び泣き出しそうな顔をして香夜を見る。その視線に、言葉に、なぜか泣いてしまいそうになる。
 特別になろうとしなくていい。これは、生まれて初めて言われた言葉だった。そしてこうして人から言われるまで、自覚していなかったことでもあった。

 凪がふとした瞬間にみせるのは、慈しむような、壊れ物に触れるような、哀切が混じり合った表情だ。
 ふわりと、地面が濡れるにおいがした。
 少し離れた大通りの方から、町を復旧するための掛け声や負傷した妖を運び出す作業の喧騒が聞こえてくる。

「……さすが‟神童”だった男は言うことが違うね。一時は識よりも常夜頭に近いって言われてたし、特別扱いされてたもんな?」

 三白眼を細め、眉を歪めて伊織が言う。
 その言葉に、ピクリと凪の顔が固まった。そして、黙ったまま何も言い返さない凪に、皮肉げに笑った伊織が続ける。

「その女が特別じゃないって? 笑わせないでよ、だから茶番だって言ってるんだ。大体さ、現に、そいつが生きてるのは‟特別”だからでしょ。呉羽が中にいるから、生きてるんでしょ」
「やめろ、伊織」
「識がいるから丁度いいだろ、はっきりさせようよ。そいつの中に、呉羽の意志が眠ってる。識も、呉羽と重ねてその花贄を殺せなかったんだろ? なら、ひと思いに俺が殺して――、」

 香夜を指さし、そう言った伊織の言葉が止まる。
 いや、伊織だけではなく、その場にいた全員が息をのんでいた。識から漏れ出す苛立ちの匂いと、膨大な魔力量に。
 実際、この瞬間、識はほんの少し息を吐いただけだったように思う。しかし、その一瞬の間に、全員が地面に横たわる自分の死体を見たような錯覚に襲われた。
 識の苛立ちは、香夜に向けられたものではない。それでも、とっさに死を意識せざるを得ないくらいに澄んだ殺意だった。
 驚いた顔をして息をのんだ伊織は、固まった香夜に視線を移した後、いびつな笑みを作って識を見る。

「……殺すって、ただ言うだけでも俺にそんな殺意向けるんだ? 重症だよ、識。手懐けられてんのはどっちだよ。そんなに似てんの? 俺にはわかんないな、そいつが、呉羽だなんて」
「――香夜は、呉羽ではない」
「…………え」

 表情を変えることなく落とされた識の言葉に思わずこぼれた香夜の小さな声が、伊織のものと重なった。
 
 降りだした生ぬるい雨が、ポツリ、ポツリと露出した肌に当たる。
 赤い月はいつの間にか厚い雲に覆われており、雲間から淡く漏れ出した月あかりが雨粒に反射して、空から赤い血が降っているようにも見えた。
 識の黒く絹のような髪が雨に濡らされていき、白い肌と深紅の瞳が余計に美しく際立って見えた。
 目を見開いた伊織が、識に向かって口を開く。

「……は? それならどうして殺さずに生かして……」
「……お前たちは、さっきから何を言ってるんだ? 俺がいつ、香夜と呉羽を重ねていると言った? 憶測でものを話すな」

 呆れたようにそう言った識が羽織を翻し、空いた香夜の腕をつかむ。
 そのまま腰へと手を這わせられ、香夜の身体はまたもや重力に反する浮き方をした。ぐらりと傾いた重心に変な声が出る。
 呆気にとられたセンリと、慌てたように顔色を変える凪がスローモーションのように動いて見えた。

「ちょ……!?」
「たまには馴染みと話すのも悪くはないと思ったが、やはり気分の良いものではなかった。先に屋敷に戻っている」
「おい、待て識!! 香夜ちゃん連れてくつもりか!?」
「……? 俺が、俺の花贄を連れて帰ることに何か問題があるか?」

 至極当然、と言うように首を傾げ、凪が口を開く前に腕に力を込めた識。すると、強い華の芳香が香り、空間に裂け目ができた。識の胸に押しつけられた頬が熱い。わなわなと身体を震わせるが、すでに香夜の両足は宙に浮いてしまっている。
 三度目、いや、四度目ともなるともう展開が読めてしまう。

「……香夜ちゃん! 僕もすぐ追いつくさかい、何かされそうになったら識のこと殴ってでも止めるんやで……!!」
「……ちょっ、待っ……!」

 香夜がそう言うのもむなしく、凪の声が、足元にあったセンリのモフモフとした感触が遠くなっていく。

 ――空間が移る。
 
 冷たい紫紺の風に包まれていくなか、ただひどく苛立ったように前を見ている美しい妖。
 識はもう一度香夜の身体を強く抱きすくめると、混沌とした渦に身を任せるように目を閉じた。