そう言って凪が笑う。
センリを抱いた香夜を凪が抱えるという三段構造のような形になった。
センリの肌触りの良いお腹が香夜の顔に当たり、おひさまの匂いがする。
「へへ、何とか間に合ったぜ。香夜、オイラのこと落っことさないでくれよ!」
「う、うん気を付ける……! センリ、私の身体に手を回せる?」
「姫さん、センリ、しっかり口閉じとくんやで。舌噛むさかい……っな!」
凪がそう言った瞬間、巻き上がった風の渦と共に勢いよく加速し、刹那、一メートルほど宙に浮いた。
かと思えば一気に浮き上がり、みるみるうちに地面が、屋敷が小さくなっていく。
「―――っ!!」
星屑のような水の粒と、薄い雲が香夜の頬をかすめる。
常夜に浮かんだ赤く大きな満月に向かって上昇していく凪にしがみつき、香夜は恐る恐る目を開けた。
眼前に広がっていた光景を見て息をのんだ瞬間、少年のような瞳をした凪と目が合う。
雨が上がり、沢山の水気を含んだ夜の闇の中、色とりどりの灯りがきらきらと点在していた。
あれは前に牛車で通った城下町だろうか、橙色に輝き、賑わっているのが分かる。
町の横では薄紫に輝く大きな川が流れ、時々小さな魚が跳ねるのか、水の流れに逆らって光が反射している。
溢れる自然と、賑わい覚めることのない城下町。
禍々しい魔力が満ちてはいるものの、こうして眺めていると光が差し込む海の底をみているようだ。
常夜の景色は、こんなにも美しかったのか。
「ひゃっほーぅ!! すっげえや凪さま! オイラ空飛んでるぜ!!」
センリの朗らかな声が耳に届く。
厚みを持った風を蹴るようにして進む凪の髪が、空気と交じり合って絹のように揺らいでいる。
香夜は昔、父に読んでもらった物語の主人公もこんな風に空を飛んでいたことを思い出した。
外へ出ることが許されなかった幼いころ。何にも縛られることなく、自由に空を飛ぶ絵本の中の主人公は美しく強かで、いつか自分もそのように強い存在になりたいと願っていた。
――私、いま空を飛んでるんだ。
細かい呼吸が肺を刺し、脈拍が上がる。
物語の世界のようにきらびやかな景色の一部になった気がして、ドキドキした。
凪はそんな香夜の様子を見て、優しく笑って口を開いた。
「……てっきり、怖いとか言ってしがみついてくるかと思ったけど、そんなキラキラした目されるとは拍子抜けや」
「……だって、」
怖いとか、高いとか、考える余地もないほどに心を奪われる光景だったのだ。
空は淡い墨色で、月明りが空気の中に混じる小さな屑をも赤く染めあげている。
「鵺のお屋敷、こうして見ると本当に大きいのね」
牛車でたどり着いた時には気が付かなかったが、鵺の屋敷は小高い山々に囲まれた奥地に建っていた。
見晴らしの良い山肌に作られた屋敷は、せり立った屋根と高い石垣も相まって、まるで大きな要塞のようだ。
「そりゃ、天下の常夜頭が住む屋敷やからなぁ」
「鵺の屋敷には、凪やセンリ以外の妖もいるんだよね?」
「うん? あぁ、屋敷におるんは最低限の使用人と、僕が使役しとるセンリみたいな中級の妖だけやで」
雲の合間をすり抜けながら飛ぶ凪がそう言う。
屋敷に来てから、凪やセンリ以外の妖と遭遇していないことが気がかりではあった。
鵺や烏天狗などの妖はもっとたくさんの群れをなしているのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
「識は徒花の呪いが発現してから、他人を遠ざけるようになってなぁ。大勢おった使用人をほとんど解雇してもうたんよ。識の前におった鵺の当主……ああ、識の父親な。それももうこの世にはおらん」
「そう……なんだ」
現世と言われる人間界とも、あの世と言われる死後の世界とも違う時間が流れる常夜。
もし、永久に明けることのない夜の帳で命を落としてしまったら、その魂はどこへいくのだろうか。
ずっと、関わり合うことのない別の世界の話だと思っていた常夜での生活。
しかし、こうして共に時間を過ごして少しでもその心に触れてしまうと、妖も人も同じ感情を抱き生きていることに気が付く。
美しい夜の世界にも、同じように‟死”は存在するのだということに、凪の言葉を聞いて再認識した。
「……よし、降りるで。ちゃんと僕に掴まっといてな」
凪がそう言うと共に、香夜の身体を柔らかく包んでいた風が形を変え、光をまとった羽衣のようになった。
翼のような風の衣が空気の抵抗を受け、ふんわりと膨らむ。
そのままゆっくりと降下した先は、がやがやと賑わう城下町の一角だった。
お囃子の音と、鈴の音がどこからともなく聞こえてくる。
路地には所せましと出店が並んでおり、その奥には赤い格子がはめられた家屋がずらりと建っていた。
牛車で通った時よりも、色濃く感じる街の空気。
大通りには数えきれないほどたくさんの妖が闊歩しているのが見える。
凪はゆっくりと香夜を地面へ降ろすと、上から手をかざした。
軽い毛布を被ったようなあたたかさが香夜の身体を包む。
「これは……?」
「一瞬だけ姫さんの姿見えんくなるようにしたさかい、絶対僕から離れんといて」
凪はそう言って、香夜の身体を自分のほうへと引き寄せた。
肩を組まれ、ぴたりと密着した脇から凪の体温が伝わってくる。
センリはいつの間にか香夜の腕を離れており、少し離れたところで大通りを眺めていた。
「このまま歩ける?」
「あ、うん大丈夫……!」
鼓動さえ聞こえてきそうな凪との距離に動揺し、声が裏返ってしまった。
この妖は、他人との距離感というものがズレている気がする。
すると、全てを見透かしたように凪がクス、と笑った。
「そんなガッチガチにならんくても大丈夫や。姫さんがでっかいくしゃみでもせん限りバレることはないわ」
「えっ、くしゃみしたらバレるの?」
「んー? 試してみてもええよ?」
もし素性がバレて、ここにいる大勢の妖から狙われることにでもなったら一大事だと香夜は戦慄する。
何とかして乗り切るしかない。そう決意し、何故かニヤつきながらこちらを見てくる凪の服を強くつかんだ。
「おーい、凪さま!! こっちにひやしあめの出店があるぞ!!」
「……あのにゃんこ、絶対目的忘れとるやろ……」
気が付くと繁華街のほうへ進んでいたセンリの手には、たくさんの得体のしれない食べ物があった。
よく見ると、二つに分かれたしっぽにまで飴の棒が握られている。
もしかして、あの全てを食べつくすつもりなのだろうか。
「センリはもう好きにさせとこ、僕らも進もか。目的地はすぐそこや」
「土蜘蛛って、ここに住んでるの?」
「住んどるっていうか、住み着いとるっていうか……まぁ、見たらわかるわきっと」
土蜘蛛、という言葉から、蜘蛛が大きくなった世にも恐ろしい妖怪を想像してしまう。
もしそんなものが出てきたらどうしようと不安になる香夜だったが、ここまで来て引き返すことなどできない。
香夜の歩幅に合わせてくれているのか、凪の脇に隠れるようにして進むことは意外と苦痛ではなかった。
「――あらぁ? どこのお偉いさんかと思えば、そこにおわすのは烏天狗の凪さまでありんすか?」
突然、後ろからかけられた艶がかった廓《くるわ》言葉に、凪の足が止まる。
驚いた香夜が振り返ると、そこには何重にも重なった艶やかな着物を身にまとった見目の良い女が立っていた。
「……げ」
「ふふ、やっぱりそうでありんす。凪さまぁ、今日はわっちの廓に来てはくれんのかえ?」
嫌そうな顔を隠そうともしない凪と、子猫のようにすり寄って甘い猫撫で声を出す女を交互に見つめる。
どうやら、香夜の姿は見えていないようだ。
「今日は野暮用で、別のところに行かんとあかんのよ。琳魚と遊びたいのは山々なんやけどなぁ」
「へぇ~? そんなこと言って凪さま、常夜頭さまのお屋敷に出入りするようになってからちっともわっちに会いに来てくれんくなりんした。それがもう、寂しゅうて寂しゅうて……」
女の軽く結われた髪からわずかに見えるのは、耳ではなく、美しくきらめく魚の‟ヒレ”。
よく見ると、袖口からのぞく手のひらにも水かきのようなものが付いているのが分かる。
青い瞳と、身体を彩る輝かしい装飾は熱帯魚を彷彿とさせた。
おしろいが塗られた肌によく映える、真っ赤な唇が凪の耳元に近づき、妖艶に動く。
「ねぇ? だからお願いしんす。じゃないとわっち、寂しゅうて死んでまう」
「……琳魚、いくら僕に媚びを売ったところで、識は落ちひんで」
「……!」
りんぎょ、と呼ばれた美しい女は、凪がそう言うと顔をこわばらせた。
「ああ、将を射んとする者はまず馬を射よってやつか。いじらしくて、苛めたくなるわ。急いどる時とか、特になぁ」
「……っ」
凪のまとう雰囲気が変わり、ぞくりとした。こうして近くにいると余計に感じる、魔力のわずかな機微。
琳魚もそれを感じたようで、じり、と後ずさりをした。
「……ふふ、そうでありんすか。ほんに、それは失礼しんした。常夜頭さまにも、どうかこの琳魚をごひいきにとお伝えくんなまし」
一瞬口惜しそうに顔を歪めた琳魚だったが、すぐに表情を変え、花がこぼれるような笑顔を見せた。
あどけなさと色気が交じり合ったその優美さに、香夜は思わず見とれてしまう。
琳魚は凪に向かって膝を曲げて小さく礼をすると、軽快な下駄の音を響かせて通りの喧騒へと歩いていった。
やがて姿が見えなくなったころ、凪が口を開く。
「……あれは、この城下町で身売って日銭稼いどる遊女や。琳魚は人間界の島原で産まれた妖で、忌み子としてそれはそれは惨い目にあったらしい。やから、ああ見えて人間を誰よりも恨んどる子や。姫さんがここにおることバレんくてよかったわ」
惨い目、という凪の言葉に顔をゆがめる。
島原といえば、言わずと知れた京の花街だ。妖の世と人の世の境界がなかったころと比べると今では公家の出入りも他の繁華街へと移り、何時ぞやの盛況ぶりが嘘のように衰えたという。知識として知っているだけで、香夜もその名前を直接聞くのは初めてだった。おそらく、今は街として機能していないのではないだろうか。
容姿や器量を何よりも重んじるはずの花街――それも人間界に産まれた妖がどのような境遇をたどるのか、想像にたやすかった。
「……妖が、人間界で生まれることもあるのね」
「少し前まではな、琳魚みたいな妖は人間界で生まれた妖として、常夜でも虐げられとったんよ。でも、どんな妖でも侮蔑されることなく住めるようにって、識がこの城下町を作ったんやで」
「識が?」
「そう。識が常夜頭になってから、色んなことが変わったわ。例えば、あの角の出店、見える? 知能ある言葉を喋ることもできん低級が、中級と仲良く酒飲んどるやろ。前まではあり得んかった光景や」
そう凪が指さした方向を見ると、和傘に目玉が一つ付いた妖と人型の頭巾をかぶった妖が賑やかにお酒を酌み交わしていた。
識がこの光景を作った。
その、あまりにイメージとかけ離れた話を信じることができず、香夜はしばらく出店の光景を呆然と眺めていた。
「そのせいか、識は色んな妖から大人気や。見てくれも整っとるし、跡継ぎを産ませてくれって交配を頼み込んでくるのも多い。さっきの琳魚もその類やなぁ」
「こ、交配……!?」
凄まじい世界だ。
常夜を統べる妖の当主ならば当然のことなのかもしれない。それでも、跡継ぎなどの話が人間界と変わらず存在することに驚いた。胸がほんの少しざわめいたような気がして、香夜は胸に手を当てる。
――きっと、知らなかった一面を知って驚いただけだ。
そう自分に言い聞かせ、小さく頷く。
そうこう話しているうちに大通りからは少し離れた路地にたどり着いた。
凪が足を止めたのは、格子が外れ、ボロボロになっている廃屋の前だった。
看板が屋根に括りつけられているが、文字が寂れ切っており読むことができない。
「おぉ、あったあった、ここや。おーい、伊織~!」
呑気な凪の声が辺りに響き渡る。
しかし、特に何も起こらず目の前の家は静まり返ったままだ。
「伊織ー? おるんやろ、わかっとるで」
懲りることなく、凪が力強く格子窓を叩くが、中から返事はない。
叩くたびに崩れていく窓と外壁にハラハラする。
「凪? ここが土蜘蛛が住んでるっていうところ?」
「あ、うんそうそう。周りに妖もおらんし、姫さんも呼んでみてくれん? 多分僕やからって居留守使われとるわ」
「え、でも私会ったことも」
「いいからいいから、伊織ーって大きい声で呼んでみ」
香夜の言葉を遮るようにして言う凪の勢いに押され、何も言えなくなってしまう。
そもそも明かりすら点いていないこの家。これは本当に留守なのではないだろうか。
――ここまで来れば、もうなるようになれだ。
「……い、伊織!」
腹をくくった香夜がそう呼ぶと、中からかすかに物音が聞こえた。
そして数十秒ほど沈黙が流れ、色の禿げた正面の扉がゆっくりと開く。
「…………はぁ、何? 嫌がらせ? 冷やかし? てか、あんた誰」
抑揚のない声でそう言って、今にも崩れ落ちそうな廃屋から出てきたのは、気怠そうにこちらを見やる生気のない目をした男だった。