「……よる、……夜! …………香夜!!」
まどろみの中、名を呼び続ける高い声。
その声に弾かれたように香夜が目を開けると、モフモフとした薄茶色の生き物が悲痛な面持ちをして覗き込んでいた。
「……センリ?」
香夜が名前を呼ぶと、センリはその大きな眼いっぱいにためた涙を片手で拭い、飛び掛かかる。
「わ! ……っと!」
「……っ! よかった、びっくりしたんだぞ、急に消えたと思ったら曲がり角の所で真っ青な顔して倒れてるしよ! オイラ、このまま香夜が死んじゃったらどうしようって……」
「倒れてた? 私が?」
「何も覚えてないのか!?」
涙目のセンリが香夜に抱き着いたまま、上目使いで問う。
香夜が覚えているのは部屋から出て、急にセンリが目の前から消えたこと。
そして、夢のような桜吹雪の中、息を荒げてうずくまる美しい妖の姿だった。
自分の身体をさすってみると、未だに熱を帯びた余韻を持っている気がして、香夜は大きく頭を振る。
ドクリ、ドクリとうるさく鳴り響く心臓の音。自分の身体は、どうしてしまったのだろうか。
自身で傷をつけたはずの左腕を見ると、そこにはかすかな傷跡が残っていた。
「センリ、私……」
「―――、姫さん、おる!?」
香夜が言葉を続けようとした瞬間、凄まじい音を立てて廊下側の障子が開く。
そこに立っていたのは、走ってきたのだろうか、珍しく焦った顔をして息が上がった様子の凪だった。
凪は座敷の中を一瞬見渡し、香夜のことを一瞥すると、大きく息をついた。
「はぁ……もう、姫さん、そうやって倒れるの趣味やったりする?」
「ご、ごめん……」
柱に重心を預け、その場に力なくしゃがみこむ凪を見て、思わず謝ってしまう。
ふと下を見ると、寝かされていた布団の端にひとひら落ちた桜の花びらを見つけた。
そっと摘まみ上げると、花びらは少し光を放ったのち、粉となって消えた。
少し間を置き、凪とセンリに向き直る。
「……センリ、凪。変なこと聞くけど、このお屋敷ってその時々で部屋の位置が変わったりする?」
凪たちと話していた部屋を出てから最初に感じた違和感は、月の位置が変わっていたことだった。
右端に上がった月、左に上がった月、そして夜空の中心で桜の大樹を赤く染め上げていた月。
常夜の月が人間界と同じ動きをすると仮定しても、部屋の位置そのものが変わっていないと説明が付かない光景だった。
すると、凪が少し驚いた表情をして口を開く。
「姫さん、識に会うたんか?」
「……うん。部屋を出たら月の見え方が変わってて、センリが急に居なくなったの。そしたらお座敷に……識が倒れ込んでた」
識に会ったことも、自ら進んで血を与えたことも、全て夢ではなかった。
なぜなら部屋の中に舞い込む花びらも、識の熱い息遣いもすべて鮮明に覚えているからだ。香夜は身体に残った余韻を振り払うように、両手で軽く自分の頬を叩く。
「……オイラ、オイラどこにも行ってないぞ! 急に消えたのは香夜の方だ!」
「そうか、識が近くにおるんやな。……姫さんが言うとおり、この鵺屋敷は当主である識の気分次第で自由自在に構造が変わる仕組みになっとる。でもそれは危険すぎるやろ、やから普段は結界が張られて動かんくなっとるはずなんや」
深刻な顔をして凪が言う。
「でもその結界を識の魔力が上回った場合は別や。徒花の呪いが進行しとる今、識は誰にも手付けられんほどに危ない状態になっとる」
琥珀色の瞳が揺らぎ、凪がおもむろに立ち上がる。
そして香夜の近くまで来ると、ドスンと音を立てて胡坐をかいた。
「死にそうやから危ないってわけちゃうで、むしろその逆で、強くなりすぎとるんや。今、アイツが少し機嫌を損ねただけで死人がわんさか出るわ」
「そ、それってかなりヤバいんじゃないか……!?」
「ヤバいどころか、センリなんて瞬き一つで木っ端みじんや」
「ひっ……!!」
真顔でそう言った凪に、センリが文字通り飛び上がり香夜の袖をぎゅっとつかむ。
小刻みに震えるセンリの手のひらを握り返し、香夜は目の前に座る凪に向き合った。
「凪は識と顔を合わせてるんだよね?」
「……ああ、いや、徒花の呪いが発現してからは識も表舞台に顔を出さんようになっとったから、アイツの姿ちゃんと見たんは僕も何年か前で……」
「そんな……」
「はは、僕、一応大きな妖勢力の頭領なんに落ちこぼれやからなぁ。識に面と向かって頼られることなんて滅多にないさかい」
うつむいたまま、自嘲じみた笑みを浮かべる凪。
雨が降るのだろうか。地面が濡れたような、湿った匂いが部屋の中に入り込んでくる。
「落ちこぼれ?」
「そう、落ちこぼれ」
凪の自嘲的な表情に、香夜はずっと母に厄災の子と揶揄されてきたことを思い出す。
「僕な、鼻が利かんのや」
「鼻?」
自身の鼻先を指さし、そう言った凪を思わずキョトンと見つめる香夜。
「あ、姫さん今そんなこと?って思ったやろ。妖にとって鼻が効かんことは結構な痛手なんやで? 相手の魔力を測れんかったら戦いにならんかったりするし」
「相手の魔力を測るために鼻を使ってるの?」
「んー、そうやね。魔力を感じ取るだけやなくて、神通力なんかも鼻が使えんだらパーや。例えば姫さんなんかは多分他の妖からするとめっちゃ美味しそうな匂いしとると思うんやけど」
「えっ」
香夜は反射的に自分の匂いを確認するが、何も分からず首をかしげる。
確かに、花贄の血のせいで妖に狙われやすいとは思っていたが――。
「センリも凪も、私のこと美味しそうって思ってたってこと……?」
もしそうだとしたらどうしようと香夜は戦慄する。
人間の姿ではなく、肉の塊のように見えているとしたら、結構、というかかなり嫌だからだ。
するとその一挙一動を見ていた凪がふわりと眉を下げ、香夜に向かって手を伸ばした。
あ、と声を出すより先に凪の顔が香夜の首筋に近づき、そのまま深く匂いを嗅がれる。
「ちょ……! 何して……!」
「うーん。やっぱりええ香りはするけど、よく言われとるような欲情するような香りには感じんなぁ。魔力も特段高まるわけちゃうし」
「……っ、よ、よく……!?」
「花贄の姫さんっていうのは妖にとって美味しいご馳走みたいなもんや。その血が不治の病の妙薬になったりするほどやからなぁ。でもほとんどの妖は人間の肉の味なんて忘れとる。やし、‟濃い”血の匂いにあてられて自我を忘れるほど喰いたいってなるのは知能のない低級ぐらいやと思うで」
息がかかるくらいの距離で平然とそう言ってのける凪に、顔が熱くなっていく。
「……っ、それは、本当によかった……」
もし常夜の妖が人間の味を覚えていたら。そう思うと、ゾッとした。
「でも、鼻が利かないからといって落ちこぼれは言い過ぎだと思う。だって凪、凄く怖かったし」
屋敷の門前で凪と会い、その殺気を面と向かって感じた時、頭の中で鳴り響いた警鐘。
肌がひりつくような魔力量だった。
識の暴力的な魔力とは違う、鋭く繊細な研ぎ澄まされた力。
色を持った風の渦が刃となって向けられる恐ろしさは今思いだしても戦慄するほどだ。
「姫さんにそう言われるのは光栄やけど、考えてみ? 相手の実力を測ることができんかったら、何事も十割の力で臨まんといかんやろ」
凪の下に風が集まり、癖がかった黄金色の髪がゆらりと逆立つ。
琥珀色の双眼が光り、大気が小さな渦を作っていく。隣でセンリが唾を飲み込むのが分かった。
「だから僕はいつだって全力や。力を抜くことなんてできんからなぁ、少しでも躊躇してしまえば、こっちが死んでまう」
「凪……?」
「そうやって目の前の敵をとりあえず倒しとったら、誰も周りにおらんくなった。僕も僕の力が分からんのや。気付いたら、仲間すら手にかけとった。仲間全員殺してもうた後の僕な、どんな顔しとったと思う?」
沈丁花の淡い香りがした。
凪の身体を包んでいく風の渦は、触れていなくても分かるほどに冷たく濁っている。
「笑っとったわ、楽しそうに口元緩ませて。身体じゅう仲間の血だらけなんに、笑っとった。そもそも何でそんな共食い始めたんかすら今となっては覚えとらん。ただ、いつの間にか僕が天狗の頂点に立っとった。落ちこぼれの化けもんが、頭領になったんや」
「……そう」
「引くやろ。妖にとっては生命線の鼻も、直感も特に利かん。あるのはただ血に飢えた妖の本能のみや。そんな危うい力、僕が常夜頭なら絶対側に置かんわ」
「そう、頑張ったのね」
「……え?」
目を丸くさせ、香夜を見つめる凪。
風で逆立っていた髪がゆっくりと元の形に戻っていく。
「だって、きっとたくさんたくさん頑張ったんでしょう? 強くなるために、負けないために。自分の心を殺してしまわなくてはいけないくらいに、強くならなきゃいけなかったんだよね?」
香夜は妖の世界のことを何も知らない。
だから、相手の魔力量を読めないことや、鼻が利かないことで凪が被ってきた不利益は想像できなかった。
しかし、凪が抱える孤独ならば痛いほどに分かる。
強くならなければいけない、という重圧は時に自分自身をも見失ってしまうほどに強い。
自分の仲間さえ楽しみながら手にかけるようになるまで、凪がどのような過程をたどってきたのか。考えるだけで胸が痛んだ。
すると、凪はしばらく何とも言えない間抜けた表情で香夜を見つめ、やがて綻びが入ったようにくしゃりと笑みをこぼした。
「……はは、敵わんわ。そんなこと言われたの初めてや」
そう言って、泣き出しそうな顔で頬を緩めた凪。
今まで見せた微笑みとは違い、心の柔らかい部分をこちらに開示するような、どこか幼さを感じる表情だった。
ふと右腕に感じたふわふわとした圧迫感に香夜が下を見ると、センリが腕にひしと抱き着いていた。
「……やっぱりオイラ、香夜のこと守るからな」
「え、ええ? どうしたの急に」
「急なんかじゃないぞ、オイラの好きな人にあったかい言葉をかけてくれる奴はみんな好きだ、強い妖なら好きな奴は守らないとだろ!」
そう言って大きな瞳をぎゅっとつむって香夜の腕に顔をうずめるセンリ。
香夜は少し戸惑い、そっとセンリの頭を撫ぜる。温かい、艶々とした毛布のようなセンリの毛並みが香夜の手のひらをくすぐった。
「……センリは、凪のことが好きなんだね」
「好きだ! 強い凪さまも、オイラをいつも撫でてくれる優しい凪さまも大好きだ」
「……ねえ、本人目の前におるとこで言う? ほっこりするけどそれ以上にはずいわ」
袖の部分が広がっている黒の漢服で顔を隠し、照れ臭そうにうつむく凪。
少しはみ出した耳が赤く染まっているのを見て、香夜の頬が緩む。
あんなにも恐ろしいと思っていた妖が、今はとても身近な存在になったような気がした。
「……話戻すけど、識の魔力が屋敷に張られた結界を上回ったとして、アイツが誰にも会おうとせず引きこもっとることには変わらん。それを姫さんだけが見つけることができたっちゅうことは、識が姫さんのことを強く″求めた”からや」
「求め……た?」
「そう。識の気分次第で屋敷の構造が変わるってことは、僕が百年かけて探しても一生見つけられんってことや。つまり識が認めた相手しか識の元へたどり着けんってこと。それがアイツの無意識やったとしてもな」
――識が自分を求めた。
赤い月に照らされ、強引に口づけされたことを思い出し、香夜の頬が熱くなる。
しかしその瞬間、悲しげな響きを持って、彼が愛おしそうに呼んだ名前が脳内で繰り返された。
もう何度目かすら分からない、頭の奥がきしむような頭痛がした。
「私じゃないと思う。私じゃなくて……呉羽って人を求めてるんじゃないかな。さっき、名前を呼んでたし……」
香夜がそう言うと、綻んでいた凪の表情が固まり、時間が止まったような静けさが部屋を包む。
数秒間沈黙が流れたのち、凪の顔に浮かぶのは、驚きと困惑。
「えっと、でも私もその呉羽って人のことは何も知らなくて……」
「―――、今、なんて?」
「え……? だから私もその人を知らなくて、」
「ちゃう、その前や。呉羽って言うた? 呉羽って、あの呉羽か?」
身を乗り出し血相を変えてそうまくしたてる凪に、何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと香夜はたじろいだ。
「う、うん。誰だかは分からないんだけど、識が私の腕をつかんでその名前を呼んでたから」
桜の花びらが舞い散る部屋で、識は香夜の腕に額を押しつけながら『呉羽』と呼んだ。
哀しさに満ちた声色でその名前を呼んだときだけは壊れてしまいそうな感情の片鱗を感じた。
「……嘘やろ、姫さん、もしかして呉羽の生まれ変わりか? 独特な雰囲気やと思ってはおったけど……まさか」
「生まれ、変わり? 凪、呉羽って人を知ってるの?」
香夜がそう言うと、頭を抱えてしゃがみこんだ凪。
「あぁ……知っとるも何も、これほど自分の鼻が利かんこと恨んだことはないわ……」
「凪さま、呉羽って誰だ……?」
「……ああ、センリは知らんくて当たり前かもなぁ。ずっと昔におった、怖い怖い女のことや。……あー、もう。なんか全てが合点いった。なるほどなぁ」
そう言って大きなため息をつく凪。
「ごめん姫さん。ちょっと予定変更や。休ませてあげれんくなったけど、堪忍してな」
「え……」
「今から″土蜘蛛”のとこ行って姫さんのこと見てもらう。頭おかしなった識の妄言じゃなくほんまのことやったら、えらいこっちゃ」
立ち上がり、準備体操をするように伸びをする凪。
琥珀色の瞳が光り、穏やかな風が外から吹き込んだ。
「――時間もったいないから、飛んで行くで。抗議なら後で聞くさかい」
「え? ちょ、うわ……!?」
にやりと笑った凪に目を奪われた瞬間、香夜の身体は宙に浮いていた。
凪の柔らかな髪が風で揺らぎ、沈丁花の良い香りが香夜の鼻腔を刺激する。
「うわ、姫さん、かっる! ちゃんと食べとる……?」
「た、食べてるよ……! って、なんで私抱えられてるの!?」
「なんでって、この方が早いやろ?」
何かとんでもないデジャブ感を感じる。そうだ、常夜に来る前、識に身体を担がれた時と同じだ。
抱えるなら抱えるで、何か一言合図をしてほしい。
自分の背丈より頭二つ分は高くなった目線がぐらりと揺れ動き、香夜は声にならない悲鳴を上げた。
香夜を軽々と横抱きにした凪は、重力など関係ないと言わんばかりに、軽快な足取りで外へと飛び出す。
「じゃあ、センリー! いきなりやけど、留守番よろしゅうなー!」
「えええ!? オイラも連れてってくれよ!! ……っ!」
後ろを向いて今にも飛び立とうとする凪に向かい、センリが兎のように駆けて飛びついた。
香夜はとっさに、センリが伸ばした腕をつかみ、そのモフモフとした胴体を抱え上げる。
「……あーあ。重量オーバーやって、もー。しゃあないな」