「じゃあ、今日だけは部屋に戻って静かにしとってな。すぐ動くと、姫さんの気配が漏れてまうかもわからんし」
「うん、わかった」
「明日また迎えにくるわ。じゃ、センリ、姫さんを部屋まで送ってやって」
「おう! 任せてください凪さま!」
強い風が吹き付け香夜が振り返ると、もうそこに凪の姿はなかった。
「消え……た?」
あたりには沈丁花の花を絞ったかのような甘い香りだけが残り、何もない場所から柔く温かな風が吹くのみ。
識とは違う、甘く妖しい香りをはらんだ風が白昼夢のごとく香夜の身体を包みこむ。
ついさっきまで顔を合わせて話していたのに、瞬きをした瞬間身体ごと消えて無くなってしまった。
「移動したんだよ、姿すら見えなかっただろ? へへ、やっぱすげえよなぁ、凪さま」
「妖ってこんな瞬間移動みたいに移動できるんだ……」
「自分の魔力がより強く使える場所でならな! 例えばこの屋敷の中でとか、鵺や烏天狗の領地とかなら片手間でも出来るんじゃないか? ……オイラはまだ出来ないけど」
「へぇ、すごい……」
狐にでもつままれた気分だ。
いや、この場合天狗につままれたと言う方が正しいのだろうか。
「香夜! いくぞ!」
「あ、うん……!」
慌てて立ち上がり、センリと共に部屋を出た。
しかしその瞬間、香夜は何か言葉にできないような違和感を感じて立ち止まる。
――何だろうか。何かが、おかしい。
「おい、どうしたんだよ。香夜の座敷はまだ向こうだぞ?」
「……ねえ、センリ、ここってこんな道だったっけ?」
長く続いている廊下の縁側は外に張り出ており、庭の風景がよく見える。
赤い月明りに照らされ、美しい庭園に植えられた牡丹や皐月の花々が首をもたげてこちらを見ていた。
「月が左にあるの」
一見おかしなところなど何もない景色ではあるが、先程通った時と月の見え方が違うのだ。
時間が経過して月の位置が変わったとかではない。そもそもの場所が変わっている。
センリに連れられてこの部屋に来た時は、確か月は右側に、高い石垣の塀に半身を隠すようにして出ていたはず。
濃紺の帳が下りた空を覆いつくさんばかりに大きな月をじっと見つめる。
瞬間、突然頭に鋭い痛みが走り、香夜はその場に倒れ込むようにしてしゃがみこんだ。
「……っ、あ」
「おい! 香夜!!」
センリの声が、姿が、瞬きをするたびにかすんで揺れる。
それどころか辺りの風景までもが輪郭を失い、視界そのものがぼやけていく。
鼻をかすめたのは、香夜の脳を惑わし、呼吸さえ忘れてしまうほどのかぐわしい香り。
何度も嗅いだ、強い華の香りだった。
上手く回らない頭の中、香夜は震える脚を励ましながらなんとか立ち上がる。
「センリ……?」
センリを呼ぶが、返事は返ってこない。
閉まっていたはずの障子がいつの間にかすべて開いている。
どの座敷も不自然なほどに静まり返り、ただ淡く光を放つ狐火が何個か漂っているだけだ。
「センリ……、どこ行っちゃったの」
ふらふらと柱を辿り、一つ、二つと誰もいない座敷を通り過ぎる。
凪が突然姿を消してしまったように、センリも消えてしまったのだろうか。
そうしていくつかの部屋を通り過ぎた時、香夜の足は何かに吸い寄せられるようにしてピタリと止まった。
――ああ、どうして。
「……どうしてあなたがいるの」
開け放たれた障子の先、座敷の中に広がった無数の花びら。
その中心に、黒く美しい妖がうずくまっていた。
「識」
澄んだ声が香夜から出る。
どうしてか、香夜の心に泣き出したくなるほどの懐かしさが広がった。
身体がいうことを聞かなかった。無意識に動く香夜の手が、座敷の中心でかすかなうめき声をあげている識へと近づき、そっと伸びる。
識の身体は、羽織の上からでもわかるくらいの熱を帯びていた。
時折ひどく苦しそうに声を上げ、荒い呼吸に顔を歪める識の背に手を当てる。
「……識」
香夜がもう一度その名を呼ぶと、ゆっくりと顔を上げた識の赤い瞳と目が合った。
ほんの少しの静寂を挟み、夜風が二人の間に流れ込む。
ポタリ、ポタリと識の汗が流れ落ち、手元の畳に染み込んだ。
「……何故お前がここにいる」
下からねめつけるようにして香夜を見やった識の身体からは赤黒いモヤのような瘴気が出ていた。
花びらが散っているようだと思った。
赤く、甘く、妖しい香りを吐きながら身を散らしていく花の最期を見ているようだと。
羽織の下、識のはだけた長襦袢から徒花のアザが見えた。
昨日はほんのわずかしか見えなかった、薄黒い呪詛。
識が呼吸をするたびにうごめき脈打っているため、意志を持っているかのように見える。
「……失せろ、目障りだ。……お前にも、呪いが移るかもしれない」
識は絶え絶えになった息を吐き出すようにしてそう言って、ぐったりと畳に倒れ込んだ。汗で濡れた髪が頬にはり付いている。
開いたままの障子から、生ぬるい風が入り込んでくる。
――春風だ。
吹き付ける風の熱に浮かされ、心の中でうずき続ける感情が吐露してしまいそうな、妙な焦燥感が香夜を襲う。
何を焦っているのだろうか。
どうして自分は、この男から目を離せないのだろうか。
春風に乗って、ひらりと薄紅色の花びらが舞い込む。つられて顔を上げ、あ、と小さな声が出た。
庭には、丸々とした月が正面に出ていた。
月の下、先程まであったはずの牡丹や皐月の花々はもうそこにはなく、あるのはそびえ立つ桜の大樹のみ。
白い月の下では青白く輝いて見える桜の花も、赤い月の下では真っ赤に染まって見えるのだと思った。
咲き乱れた桜が柔い春風に乗って花吹雪を作っていく。
それは美しいというより先に畏怖が勝つ、見事な存在感。あまりの壮大さに圧倒されてしまう光景だった。
「……っく、……」
「……!」
識の低いくぐもり声が聞こえ、香夜は思わずハッと振り返る。
徒花の呪いが進行しているのだろうか、苦しそうに肩で息をする識に再び手をかざそうとし、直前で止まった。
香夜が識に、進んで何かをしてあげる義理はひとつもないのだ。
父の命を奪ったと、自ら吐露したこの妖に。
しかし、このまま放っておくことはどうしてもできなかった。
「……私の血を、飲めばよくなるの?」
どうかしている。
そんなことはわかっていた。
肩で息をする識は香夜のことなど最早見えていない様子で、返事はない。
香夜は帯の中から懐刀を取り出し、腕に這わせてスッと勢いよく引いた。
「……っう」
一筋、切れた肌からじわりと血がにじみ出る。
滴り落ちてくる血を識の口元へと近づけると、薄く目を開いた彼と目線が絡み合った。
「……失せろと言ったのが聞こえなかったのか」
「飲んで」
言葉を発することもつらいのだろう、識の表情が呼吸に合わせて何度も歪む。
「……飲んで」
そう言って跪いた香夜は、半ば強引に自分の血液を識の口へと垂らし入れた。
すると、大きく喉元が動き、識が香夜の腕を強くつかみ上げた。
深紅の双眼が香夜の姿を捕らえ、射る。
瞳に映った自分は、思っていたよりもひどく緊迫した表情をしていた。
香夜は歯を食いしばり、識がつかんだ腕を見やる。深く切りつけたにも関わらず不思議と痛みは感じなかった。
それどころか、熱く火照ったようになっていく自分の身体に香夜はひそかに戸惑いを覚えていた。
滴り落ちた血液が、香夜の白い着物を汚していく。
桜の屋敷で用意された強い魔力に耐えうるという白無垢も、この美しくおぞましい妖にこうも引き寄せられていては意味がない。
「何のつもりだ? 俺を、許すことができないというのは嘘だったのか?」
識につかまれ、握りしめられた腕の骨がきしむ音がする。
「……っ、嘘じゃない」
「では、どうしてこんなことをする。何が目的だ」
「目的なんかないわ。ただ、このまま放ってはおけない」
そう言って、上から真っ直ぐに識を見つめる。すると、識の表情がわずかに揺れ動いた。
「はっ、救えないな。……その瞳を見ていると、腹立たしさすら感じてくる」
傷の付いた皮膚を力強く押さえつけられ、香夜の腕から流れ出る血液。赤く伝う香夜の血を、識の冷たい舌先がつう、と舐め上げる。その扇情的な仕草に、香夜はぎゅっと唇をかみしめた。
「……俺を恨めと、そう言っただろう」
「……っ!」
息を荒立ててこちらを見る識の瞳が濡れている。その瞳の色がどうしようもなく自分を求めているように感じて、香夜は何も言うことができずに識を見つめた。
識の顔が切なく歪み、整った鼻梁に影ができる。獣のような識の手のひらが、香夜の頭を乱暴に押さえつけた。そのまま欲に任せるように薄く開き近づく唇。――キスされる、とっさにそう感じ取り、身体を引こうとした。
「ほう……? 拒むのか、ここまでしておいて」
しかし、そう言って起き上がった識の熱い腕に、阻止されてしまう。
「……反抗的な目だな。その目を見ていると、全てを壊してしまいたいとさえ思う。――全て壊して、喰らってやりたいとな」
背に回された識の手が香夜の腰へとずれ、ぐっと身体が引き寄せられる。識の指先が唇に触れた瞬間、電流が走ったような衝撃が香夜の全身に走った。
「っ、あぁ……!」
「……お前の母がかけた対魔のまじないを少し解いた」
「対魔の……? お母様、が? そんなわけない……私にそんなもの……」
「何も見えていないのだな。何も見えていないのなら、気安く他の者を救おうとするな」
「…………っ!」
強引に口づけられた識の唇が、熱を持っているように熱い。いや、熱く火照っているのは香夜自身だった。角度を変え、何度も何度も喰らいつくようにしてキスをされるたびに香夜の身体は弓のようにしなる。
母、郁が対魔のまじないをかけた。そんなこと、信じられるはずがない。
しかし、確かに感覚が過敏になったような気がする。
身体の神経全てが高まっていくような、今までにない感覚に香夜の頬を涙が伝うのが分かった。
「お前は、俺の贄だ。そのように頬を赤らませ、されるがままになっている方が幾分か気分がいい」
そう言った識の口元が、意地悪く弧を描く。むせ返るような華の香りに、器用に動く識の指先に、意識が遠のきそうになる。
もう何度目かすらわからない識の口付けに、声にならない声が出た。
――やはり、助けるべきではなかったのだ。乱暴な口づけとは裏腹に、壊れ物に触れるかのように繊細に動く識の指。
非道な妖は、香夜の反応を楽しむようにして、絡ませる腕に力をこめる。
月下、どちらのものとも知れない吐息が重なり合い、舞い込んだ薄紅色の花びらが視界を染める。
識の舌でえぐられていく傷口が痺れるように痛んだ。しかし、痛みとは別の、身体の奥底から湧き上がってくる甘やかな快感が香夜を混乱させる。
どうしてこんなにも感情が揺さぶられるのだろう、どうして、目を反らすことができないのだろうか。
そう何度も自問した言葉もまた、香夜の頭のなかでぼやけて溶けていく。
腕をつかまれたままじりじりと体勢が逆転していき、いつの間にか識と向き合っている形になる。
こうしていると進んで身体を差し出したことを余計に思い知らされるようで、香夜は頬がカッと熱くなるのを感じた。
識は何も言わない。
ただ、獣のような目をして香夜を見つめるだけだった。
――何故、私を殺さないの。
これではまるで生殺しのようだと思った。
きっと、この男は花贄である自分のことを一つの玩具だとしか思っていないのだろう。
血をすするたびに、識の呼吸が穏やかになっていくのが分かる。
やはり、花贄の血液が徒花の呪いを薄めるというのは本当だったようだ。
「……俺を、」
「……え?」
識が、ポツリとつぶやいた。
その震えるような声に顔を上げ、識を見る。
「俺を見るな、呉羽」
「……っ!」
声が出なかった。
それほどまでに、哀切に満ちた言葉だった。
しかし、この声色は香夜に向けられたものではない。今、識は香夜を通して、全く違う誰かを見ているのだ。
識の、薄く形のいい唇が香夜の血で妖しく照っている。
あまりの艶美さにぞくりとすると同時に、胸の奥底が押しつぶされるように痛んだ。
目を閉じて、震える額を香夜の腕に這わす識。
その姿はまるで何かを乞い願うかのようだった。
「……いや、……嫌」
香夜の胸の奥で響く鼓動が、呼応するかのようにトクトクと鳴る。
香夜はそれを、ぎゅっと押し込むように着物の襟元を握りしめた。
「そんな声を、出さないで」
そう言った瞬間、涙が一筋、香夜の頬を伝い落ちる。
識から伝わる、狂おしいほどの焦がれ。
聞いたこともない呉羽という名前。
それなのに識がその名前呼んだ瞬間、どうしようもない切なさが、喪失感が香夜の心を刺した。
目の前で揺れる、識の絹糸のような髪に手を伸ばす。
しかし、伸ばした先にあったのは水のような質感の闇。
桜の花びらが視界を覆っていく。
鳴り響く鼓動も、鈍い腕の痛みも、全て深い闇の中に飲み込まれていくようだった。