困った顔でこちらを見つめ、柔らかく微笑んだ凪に香夜はつい言葉をつまらせてしまう。
すると、表情はそのまま、凪が口を開いた。
「まぁ、立ち話もなんやから中に入り。あと警戒する気持ちも痛いほどわかるけど、僕は姫さんに対して敵意はないから安心してええで?」
「……でも、楽しんで攻撃を仕掛けているように見えたわ」
「それは識の蝶に……いや、僕かて妖やからしゃあないわ。血に飢え、血で血を洗うのが妖やもん。ねぇ、センリ?」
「そ、そうだぞ、オイラは何があったのかわかんないけど……とにかく、あんたも五体満足で生きてるしさ!」
妖だからしょうがない、で済ませてはいけない気がするが、センリが加わったことでこちらが折れなければならないような雰囲気になってしまった。
促されるがまま座敷に入り、敷かれた座布団の上に座った香夜。
目の前では凪の手がセンリを優しく撫ぜている。すると、嬉しそうに目を細めたセンリの喉がゴロゴロと大きく鳴った。
「ま、あの時姫さんに手出ししとったら僕もここにおらんやろうけど。普通に識に殺されるやろし」
そう言ってわざとらしく身震いしてみせた凪は、横に置いてあった小さな紙切れのようなものを手に取った。
触れたらもろく崩れてしまいそうなほどに年季がかっている紙切れを持ち上げ、凪はなにやら意味ありげにゆっくりと振ってみせた。
「……敵意がないのはほんまやで? けどな、姫さんが落とした‟これ”見つけた時はさすがにびっくりしたわ」
「私が落とした?」
「姫さん、これが何かわかる?」
そう言って凪が指さした紙切れを見てみるが、見覚えのない呪文が並んでいるだけだった。
香夜がふるふると頭を振ると、凪は大きなため息をつく。
「……そうか。これはな、空亡っちゅうやつらのもんや。呪詛が書かれた本の切れ端やな。空亡は今、常夜頭の勢力と交戦中の……いわば敵勢力やさかい、姫さんがこれ落とした時は身構えたわ。もしかしたら間者なんとちゃうか、ってな」
「そら……なき? 敵……勢力? どうして私からそんなものが……」
「さあ、でもこれで姫さんを放っておくことができんくなったのは事実や」
「あんま無暗に触れたり見たりせんほうがええで」と言う凪の制止をよそに、香夜は自身が落としたという紙切れをまじまじと眺める。
しかし、何度読み返してみても、そこには解読できない呪詛が羅列してあるだけだった。
「……暗号か? オイラにも読めねえぞ……」
「……センリ、ちょっとどいてみ」
こちらを覗きこんでいたセンリを片手で止め、含みを持った笑みを浮かべた凪。
「見とってな」
そう言って、文字が書かれた頁に凪が手をかざす。
すると不思議なことに一つ一つの単語が紙から抜き出て、光を放ちつつ宙に浮かび上がった。
空中を舞った文字の羅列が、香夜たちの上へと揺らぎ、移動する。
「すごい、文字が空中に……」
ほう、と見とれながら浮かび上がった文字を見ていた香夜は、あることに気が付きハッとする。
「私、これ見たことあるかも」
「えっ、ホントか? オイラも見たことないのに?」
「うん、多分これ、常夜頭の……識の胸にあったアザと同じだと思う」
ただの紙切れだった時は判別できなかったが、こうして一列になったところを見てみると分かる。
これは、識の身体に浮き出ていた呪いと同じ文字列だ。
すると、香夜の言葉を聞いた凪がこくりと頷く。
「そうや、一見、徒花のアザと同じように見えるけど、この文字列は根源自体が‟魔力”でできとるもんや」
「魔力?」
「そうや、それでも、纏う‟気”は一緒やから、混乱するわ。呪いには違いないんやけど……もっと人工的に呪いを模倣したような、気味悪いもんや」
凪の切長の目が香夜を正面から捉える。
「姫さんは、常夜頭にかかった徒花の呪いについてどこまで知っとる?」
徒花の呪い。
父から教えられたのは、昔、深く愛し合った妖と人間の娘がいたということ。
その妖は、常夜を統べる常夜頭であったこと。
やがて常夜頭は娘を裏切り、悲しみに暮れた娘の嘆きが呪いへと変化したということ――。
「……全て、父から聞いてる。言い伝えのようなものって言われたけど、女の子の呪いが徒花のアザを生み出したって」
「そうや。何の対処法もないと思われとった呪いやけど、大抵の呪いには解き方っちゅうもんが存在する。それが花贄の血や。まあ花贄の血があったとしても完全に解くことはできんけどな」
「そう、なんだ……」
花贄の血をもってしても呪いは解けない、そう聞いて愕然とする。
よく考えてみれば、自分は花贄について深く知らないのかもしれないと香夜は下を向く。
「あとは、まぁ……‟呪いをかけた張本人”さえ生きとれば呪いは解ける。徒花の呪いをかけたんは人間……それも何千年も昔の娘さんって話やからもう骨すら残ってないやろけど。……でもな」
そのまま凪は悪戯を企む子供のように笑い、トントンと呪詛が羅列した本を指さした。
「識のアザと、空亡の呪詛が同じ気をまとっとるってことは、ある種の希望や。徒花の呪いと空亡の呪詛は同じ方法で消せるかもしれんからな。血を必要とせん呪いの解き方、つまり"花贄"の制度ごとこの世から消し去ることができるかもしれんっちゅうことや」
「……!!」
花贄の制度ごと、この世から消し去ることができるかもしれない。その言葉に、香夜は思わず息をのむ。
「僕もこのボロッボロの紙切れ見るまでは信じれんかったけどなぁ。空亡の書なんてそうそうお目にかかれんさかい」
「凪さま! それってこいつが死ななくてもいいかもしれないってことですか?」
センリがぴょんぴょん跳ねながら凪に問う。すると凪はまた柔らかな表情をしてセンリの頭を撫ぜた。
死ななくてもいいかもしれない。確かに生き残ってやる、とは思っていたが、いざ示されると現実味のない言葉だった。
こうやってじっくりと弄ぶのも悪くない。
香夜の唇からにじみ出た血を舐め、識は昨日そう言った。
獲物を前にした獣のような識の瞳を思い出すだけで、背筋がぞくりとする。
常夜に浮かび続ける月と同じ、深紅の双眼。
その視線は確かに凍てつくほどの冷たい感情を含んでいたにも関わらず、香夜はこうして今も生きている。
「……どうして、識は私の血を奪わなかったんだろう」
香夜がそう言うと、少しの間沈黙が流れ、胡坐をかいた凪が伸びをする。
「んー、アイツは多分、花贄の姫さんに手出しはせんと思うで。……ま、ただの僕の直感やけど」
やけに確信を持った凪の口調。
確かに、刺すようなまなざしを向けられはしたが、本気で殺そうとは思っていない風にも見えた。
戯れに愛してやるとささやいた低い声を思い出し、頭をふるふると振る。
凪の膝の間、わずかに空いたスペースにすかさずセンリが入り込み、ちょこんと座った。
こうして見ていると、この二人の関係性もなかなかに謎だ。
「……何でも常夜頭の印が花贄を選ぶーって言われとるけど、どうなんやろなぁ」
常夜頭の印が花贄を選ぶ。
そう言った凪に、香夜は識の身体にあった赤い華の紋印を思い出した。
見ているだけで不思議な感覚になる印に触れた瞬間身体が熱を持ち、全身の血液が沸騰するように熱くなったのを覚えている。
「識が、私をどうして殺さなかったのかはわからない。でも、本当に惹かれ合うってことはないと思う。……あの人は、私の父の敵かもしれないから」
「……姫さんの父親の敵? 識が?」
香夜が頷くと、凪は信じられないとでもいうかのように顔をしかめてみせた。
「あーー、もう。識とは本当に腹割って話す必要があるな。アイツ、最近めっきり姿見せんくなってしもうたから……。あー、なんか頭使ったらドッと疲れが来たわ」
そう言うと凪はスッと指先を宙にかざした。
すると何もなかったはずのところに、ポンと音を立てて小さな湯呑が現れる。
お茶でも入っているのだろうか、湯気が立つ湯呑を両手に、ふーふーと息を吹きかける凪。
香夜がその一連の動きを目を丸くして見ていると、視線に気が付いた凪が口を開く。
「あ、姫さんも飲む? あぁ、そうや」
何かを思いついたような凪がゆっくりと手のひらを開くと、再びポン、と軽快な音が鳴り、大きな蒸篭が現れた。
「色々あってお腹もすいとるやろし」
そう言った凪が開けた蒸篭の中には、これまた大きな饅頭のような食べ物が敷き詰められていた。
もわもわと逃げ出した上気が美味しそうな匂いを運んでくる。
「小豆蒸しだ!! 凪さま、オイラも食べていいか!?」
「センリは最近ちょっと太り気味やから一個だけな。姫さんも、ほら、僕のお手製小豆蒸しや。こう見えて炊事とか得意なんやで?」
「わっ……! あ、ありがとう」
得意げに笑った凪の手から受け取った大きな白いあんまんのような‟小豆蒸し”を割ってみると、中にはツヤツヤとした小豆が入っていた。
確かに凪の言う通り香夜は常夜に来てから何も口にしていなかった。
思わずパクリと口に入れると、優しい甘さがじんわりと口内に広がっっていく。
「美味しい……」
「はは、そう言ってくれると嬉しいわぁ。沢山食べてええよ。あっ! センリは一個だけ言うたやろ! さっき厨房から肉串パクってきたの知っとるで!」
「もご……っ!!」
口いっぱいにほおばったセンリを捕まえ、手に持った小豆蒸しを奪い取る凪。
センリもまた、何かを抗議しようとしているようだが、いかんせん口に詰めすぎて話すことができないようだ。
「まったく……食い意地だけは一丁前なんやから。ああ、あとそうや、言い忘れとったけど、あんま無闇に外出歩いたりはせん方がええで」
「え?」
「姫さんが生きとるってことは識の呪いがそのまんまっちゅうことやろ? 今こうして生きとることがバレてもうたら常夜中の妖からその命狙われてまう。識を目の敵にしとる敵からも、識の呪いを解きたい味方からも、な」
そう言ってにこやかに笑う凪を見て、香夜は血の気が引いていくのが分かった。
昨日、識に殺されなかったからと言って、安堵している場合ではないのだ。
「あんた……いや、香夜は凪さまに助けられたんだぞ!」
「え?」
「センリ、別に言わんでええよ」
「何でです? 凪さまがこうして匿わなかったら香夜は生きてないって、オイラでもわかるぜ。誰にも見つからない部屋に隠して、誰にも見つからないように自分の元へ連れてこいってオイラに言ったじゃないですか!」
「あはは、そうやな。さっきは待てども待てどもセンリが姫さん連れてこんからヒヤヒヤしたわ」
「そ、それは……」
もごもごと黙り込むセンリと、それを苦笑いで咎める凪をポカンと見つめる。
「どうして」
――どうして助けたのか。香夜の口から、素直にそうこぼれ出た。
センリを抱きながら優しげに微笑みこちらを見やる凪は、昨日門の前で出会った妖とはまるで別人だ。
いや、違う。凪が香夜を見る眼差しは最初から柔らかかった。
ただ一つ昨日と違うのはその身にまとう魔力の温度なのだろう。
凪が言った通りだった。冷ややかに、ただ争い闘うことだけを楽しむ妖として昨日凪はあの場に立っていたのだ。
首を傾げ、余裕げに笑みを浮かべる凪。手触りが良さそうな金の髪が夜風に揺れる。
「どうして助けたんか、って言われてもな……うーん、姫さんが諦めてないように見えたからかな」
「諦めてない?」
「人の世から常夜に飛ばされたとこやったんに、生きることを諦めてなかったやろ。僕な前に姫さんと同じような花贄を見たことあるんよ」
静かに少しずつ落とされる凪の声。
「花贄として常夜に捧げられる子たちは、大抵が全てを諦めとる。心が生きとる子は、稀や」
「そうなることは、必然のような環境だから……」
産まれた時から身を捧げることを決められた少女に、希望を持てと言う方が残酷だ。
全てを諦めてしまった方が楽で、救われる。
希望を持つことは恵まれた人の特権なのかもしれないと、香夜は何度も感じたことがある。
――それでも、そう思う度に、父の姿がちらつくのだ。
「……でも、姫さんは違った。会った瞬間に分かったわ、この子生きようとしとるって。魂の色が死んどらんかった」
暖かな夜風が吹き付ける。
ほのかに沈丁花の香りがする風は目の前に座る凪から流れているようにも思えた。
「……それは、きっと父のおかげだと思う。記憶のなかの父は、いつも笑顔だから。くじけようとしても、くじけることができなくて」
失ってもなお、心を淡く照らし続ける父の笑顔が、うつむく度に脳裏をよぎる。
それが、生きろ、と強く言われているようで、いつも前を向かざるを得ない。
「……そうか、それならなおさら、変な死に方されたないわ。昨日識が殺さんかった以上、守らんとあかん大切な贄でもあるしなぁ」
おそらくどれも凪の本音なのだろう、紡ぐ言葉に気持ちが乗っているのが分かる。
大切な贄と呼ばれることは複雑だが、それでもこうして匿ってくれたことは素直にありがたかった。
「……ありがとう」
そう言うと、凪は目を点にして香夜の顔を見つめた。
そして数秒間固まると、次の瞬間、ふは、っと吹き出す。
「っ、は! 素直なんかアホなんかわからんなぁ。自分を襲おうとした妖なんかにお礼なんか言わんでええよ」
「でもあなたのおかげで私は今こうして無傷でいるんでしょ?」
「ん〜、まぁ、そうやね、識もどっか消えてもうたし……」
識が消えた。
やはりあの後、自分を置いたまま姿を消したのだろうか。
だけど何故だろう、屋敷に広がったままの濃い華の香りはこうして話している今でも刻一刻と強くなっていっている気がする。
「そうやな、お礼言われるくらいなら二つほどお願い聞いて欲しいんやけど」
「お願い?」
「そうそう」
センリを後ろから抱きしめながらふわふわの毛並みに顎を乗せる凪。
されるがまま、むしろ少し嬉しそうにも見えるセンリは愛らしい人形のようだ。
何だか二人は少し似ている気がする。
「一つ。僕のことは気負わず凪って呼ぶこと。僕、堅苦しいのめっちゃ苦手やから」
語気を強められ、香夜は思わずコクリと頷いてしまう。
「二つ。一緒に呪いの出どころを調べに行くこと。これはちょっと危険なんやけど、空亡の書の切れ端は姫さんが知らん間に誰かが仕込んだもんなはずや。姫さんに関係あるやつの仕業やと思うから……着いてきてくれた方がありがたい」
「わかった」
「ええ? そんなあっさり頷かれると思わんかったんやけど」
きょとんとした表情で香夜を見る凪。
いつの間にか、凪に対して持っていた香夜の警戒心は解けてしまっていた。
「呪いの解き方がわかったら、私も助かるんでしょう? それなら協力しない手はないもの」
むしろ、呪いを解くために凪が協力してくれるというのならこんなに心強いことはない。
きっと香夜だけではどうすることもできなかっただろう。
「はは、強いんやなぁ、さすが姫さんや。ありがとうな」
「うん、……凪も、ありがとう」
いざこうして目の前で名前を呼ぶとなると少しの照れ臭さが勝ってしまい、たどたどしい感じになってしまう。
恐る恐る香夜が前を見ると、驚いたように目を見開いたのち、ふわりと綻んだ笑顔を見せる凪。
「ほんまに素直やなぁ。いい子やね、僕が守ってあげる」
そう言って、嬉しそうに頬を緩める少年のような凪の表情に思わず目を奪われてしまう。
「じ、自分の身は自分で守れるよ。一応、桜の屋敷で武術を一通り習ってたもの。刀も持ってるし……」
キョトンとしている凪とセンリに向かって武術の構えをとるが、昨日識に手も足も出なかったことを思い出す。
力の面でも、魔力の面でも妖には到底かなわない。だけど、誰かに頼りきったまま何もできないことだけは嫌だった。
「っはは、めっちゃおもろいんやけど……待って、ツボってもうた……」
「香夜、それもう他では絶対やらない方がいいぞ……」
「ええ? なんで笑うの、センリまで」
何が面白かったのか、お腹を抱えて笑う凪とその下で苦笑いをするセンリ。
「天下の大妖怪、烏天狗の凪さまが守ってあげる言うとるんやから、ちゃんと頼り?」
「そうだぞ、香夜細いし白いし弱っちそうだもんな! 凪さまだけじゃなくてオイラも力になるぜ!」
「でも……」
「何でさっきまでめっちゃ素直やったんにそこだけ意地はるんや、姫さんの一人や二人連れて敵だらけの常夜歩くくらい何ともないわ。あ、センリは別に来んくてええよ」
「ええぇ!? そんな!?」
仲睦まじく言い争いをする凪とセンリ。禍々しい魔力と瘴気に満ちた常夜にいるとは思えないその光景を見て頬が緩んだ。