鵺の花贄



「―――――、っ」

 香夜が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋の中だった。
 気を失っている間にうなされていたのか、寝汗がじっとりと襦袢(じゅばん)に張り付いている。

 中央に敷かれた布団以外は何もなく、枕元にある常夜灯がほんのりと畳の部屋を照らしていた。

 身体が鉛のように重い。手を伸ばし、障子を開ける。
 隙間から見えた夜空には見たこともないくらい大きな赤い月が上っていた。

 あれからどのくらい眠っていたのだろうか。
 頭の奥がズキリと痛む。夢じゃなかった。全て現実に起きたことだった。

 部屋に差し込む月明りが香夜の手元を淡く照らす。
 深呼吸をして脈を整えてもなお、手のひらが小刻みに震えていた。

 美しく冷酷な妖が口づけた場所が未だに熱を持ち、それが夢ではなかったことを嫌でも思い知らされる。

「……あの妖が、お父様の敵」


 香夜の父を殺したことを、識はあっさりと認めた。
 それでも、なぜ父を殺したのかということを聞き出せていない。
 それに、あんなにも切ない響きを持って名前を呼ばれた理由もわからない。

 辺りを見渡すが、香夜の身体を捕らえて離さなかった妖の姿はどこにも見当たらなかった。

 甘い毒のような言葉を放ちながら、香夜に口づけた冷酷な妖。
 そんな識が、こうして丁重に香夜を寝かせてくれたとは思えない。

 障子の隙間から流れ込んだ夜の空気が香夜の髪を揺らす。頭が、ぐちゃぐちゃになりそうだ。
 今はとにかく余計なことを考える前に、屋敷の中を見回ってみよう。
 鈍く痛む四肢をかばうようにして、香夜はゆっくりと立ち上がった。
 外には、赤い狐火がいくつか漂っていた。
 広い廊下は思っていたよりも明るく、狐火と月明りが縁側をほのかに照らしていた。

「―――あっ!! こんなところにいた!!」
「……!?」

 突然背後から聞こえてきたハイトーンに、香夜は思わず飛び上がる。
 が、振り返ってもそこに姿は見当たらない。

「もー、あんまり勝手に動き回らないでくれよ! 怒られるのはあんたじゃなくてオイラなんだからな!」

 姿が見えたのは、香夜がひざ下くらいまで頭を下げてからだった。
 愛らしい表情を浮かべ仁王立ちで立っていたのは――

「ね、猫……?」

 タヌキというには小柄で猫というには少し大きめの、ふわふわした生き物だった。
 薄茶色の毛並をふくらませながら腰に手を当て、ふんぞり返っている猫型の生き物を前に、香夜は言葉を失ってしまう。

「え、嘘だろ今オイラのこと猫って言った?」
「わっ、またタヌ……猫が喋った」
「おい、誰が猫やタヌキだって!? 見ろよこの立派に別れた尻尾を! どこからどう見たって正真正銘泣く子も黙る猫又だろ!!」

 そう言ってすばやく後ろを振り向いた猫型の生き物は、ひょいひょい、と自身のお尻を指さした。
 よく見ると長く伸びた尻尾が二つにわかれている。

「猫又、じゃあ猫なんだ……?」
「だぁーから! 猫じゃないって! 猫又のセンリ(・・・)だ!」
「センリ?」
「そうだよ、あんた花贄に選ばれたのにまだ生きてるんだってな! すげえじゃん! 何かいい匂いもするし……特別にオイラのこと名前で呼ぶ権利を与えてやってもいいぜ!」

 頬を大きく膨らませて怒って見せたかと思えば、顎を目一杯上げて香夜を見つめるセンリ。
 猫又といっても猫が少し大きくなっただけのようにも見えるセンリからは妖特有の禍々しい魔力を感じない。
 あるのはモフモフとした毛並みだけだ。

「そうだ、オイラ凪さまの命であんたを迎えにきたんだ!」
「……凪?」

 センリが発した、凪、という言葉にドキリとした。

「……センリは、凪って妖のことを知ってるの?」
「当たり前だろ! オイラは凪さまに使役されてる中級の妖だ! みんな歴代最強の魔力量を誇る凪さまと常夜頭さまの元で働けて誇りに思ってるんだぞ」

 そう言ったセンリは胸をふくらませて誇らしげな顔をした。
 香夜の着物を引っ張り、「こっち」と案内を始めるセンリ。
 歩を進めるたびにキュッキュと高い音を鳴らすセンリの足音に、香夜は思わず頬を緩める。

「もし低級の妖が襲ってきても、オイラがやっつけてやるからな!」

 そう言って、言葉を弾ませるセンリ。
 背筋を伸ばして小走りで進むセンリに胸の奥がほのかに温まる。
 常夜に来てから、こんなに柔らかな感情になったのは初めてかもしれない。

「優しいのね」
「おう、オイラは良い妖だからな! いつか凪さまや識さまに認められるような大妖怪になるんだ! でもな、オイラ識さまをこの目で見たことはないんだよ。いつか見てみたいなぁ、すっげえ綺麗な顔してるんだってな!」

 目を輝かせながらセンリがそう言った瞬間、廊下横の襖がスッと音を立てて開く。
 と、同時にセンリが素早く反応し、全身の毛を逆立てて低く唸った。しかし、その威嚇も襖の向こうに立っていた人物を見て、しまった、という表情に変わる。

「―――あ、おったおった。もうめっちゃ探したわぁ、どんだけ待っとっても帰ってこんから」
「……!」

 聞こえた柔らかく間延びした声色に、香夜は思わずビクリと肩を震わせた。

「……あなたは」
「昨日ぶりやねぇ。はは、ピンピンしとるようで何よりやわぁ」

 余裕げな笑みを湛えながら開いた襖に寄りかかり、香夜とセンリを見下ろしていたのは関西訛りの妖、凪だった。

 反射的に後ずさり、距離をとる香夜。
 凪はそんな香夜の姿を見て少し目を見開くと、可笑しそうに吹き出した。

「そんな警戒せんくても取って食べたりせぇへんよ。ほら、な? 安心して?」

 両手を上げ、ほら、と促す凪。
 信用できるはずがない。最初は優しそうな人だと、そう思った。

 でもあの時は確実に殺気をまとって香夜を襲おうとしていた。
 正しく言えば、識の蝶を襲おうとしていた、ということになるのだろうが。
 紫紺の闇の中、凪がまとった鋭い風の刃を思い出し、ぞくりとする。

「凪さま!」
「おぉ、センリ。お利口さんにしとったみたいやねぇ。姫さん見つけたら、すぐ僕のとこ連れてきてって言ったはずやけど」
「……っ、それは」
「センリはちゃんとあなたの所に私を連れていこうとしてたわ」

 香夜は顔を青くさせるセンリの前に立ち、凪を強く見据える。
 門の前で会った時とは違い、凪は中国の民族衣装のようにも見える黒い漢服を身にまとっていた。

「そうなんや、姫さんがそう言うなら許したるわ。お疲れさんやったね、センリ」
「……え?」

 やけにあっさりと引きさがった凪に拍子抜けする香夜。てっきり何か危害を加えられると思っていたのだ。
 するとそんな香夜の思考を読み取ったのか、凪はふわりと眉を下げ少し困ったように微笑んだ。