常夜頭の屋敷のなかは、ほんのりと暖かな空気に満ちていた。
常夜に入った瞬間に感じた闇に包まれる感覚とも、城下町の賑わいとも違う。
日の光はどこにも見当たらない夜の帳のなか、例えるならば陽だまりにいるかのような感覚だった。
何もわからないまま門を開いて来てしまったが、どちらに進めば正解なのかがわからない。
するとどこからともなく漂ってきた蝶の鱗粉が、香夜の面前で揺れた。
そのまま淡い光を放ち、光を放つ蝶はゆっくりと進みだす。
「……着いてこいってこと?」
試しに歩を進めてみると、蝶はゆらゆらと上下しながら石畳の道を進んだ。
道案内されているのだろうか。何もかもが識の思い通りに進んでいる気がする。しかし今は進むしかない。
無機質な石灯篭が並び、辺りには絵画のような庭園が広がっていた。ぐにゃりと曲がった松の木は今にも動き出しそうだ。
数時間前までいた人間世界と同じ、青臭くて湿った春の風の匂いがする。
横に見える屋敷の部屋はずらりと障子が並び、その一つ一つにほんのりと橙色の光が灯っている。
何故か、足を進めるたびに身体を流れる血がどくどくと駆り立っていく気がした。
長く続く石畳を進むと、蝶は急にその動きを止め、溶けるようにして空気に消えた。
横には、回廊になった屋敷の縁側と少し開いた部屋の障子。どういうわけかその部屋のみ、明かりが灯っていない。
香夜はそのまま誘われるようにして下駄を脱ぎ、開いた障子から屋敷に入り込んだ。
十畳ほどの部屋は、常夜灯が一つ点いているだけだった。
部屋に足を踏み入れてすぐ、背筋を冷たいものが流れ落ちるような感覚におそわれる。
刹那、香ってきたのは鼻腔を刺す、強い華の香り――。
「……ぁ……っ!」
短い自分の叫び声が、まるで他人事のように響いた。
衝撃と共に、視界を遮ったのは飲み込まれてしまいそうな深紅の瞳。
屋敷内に充満する膨大な魔力には気が付いていた。それなのに、こんなに近くにくるまでわからないなんて。
「……待ちくたびれたぞ」
香夜は、耳元で囁かれた甘やかな低い声に身を震わせた。
身体は気が付くと壁に押さえつけられていた。
交差した手が一つにまとめられ、大きな手のひらでつかまれている。
面前にいたのは、目を奪われるほどに美麗な顔立ちをした男だった。
陶器のような肌にスッと通った切れ長の瞳、高い鼻梁。絹糸のように揺らぐ漆黒の髪。
そして、脳に直接香ってくるかのごとくかぐわしい華の香り。
腕を無遠慮につかみ上げるこの男が誰なのか、面をしていなくてもわかった。
「…………常夜、頭?」
香夜がそう一言つぶやくと、男は口角を少し上げ薄く笑った。
「識だ」
烏天狗、凪も言っていた、識という名前。この男が再三香夜の前に現れた妖で、常夜を統べる常夜頭なのだ。
呼吸すらままならない、身体ごと吸い込まれるような感覚が香夜を襲う。
識を前に、香夜の身体が見せる反応は毎回同じだった。どういうわけか、彼から目を離すことができないのだ。
叫びだしたくなるほどに心臓の音がうるさく鳴り響き、細胞の全てが目の前の美しい妖に引かれているのが分かる。
何も言えないまま立ちすくむ香夜を見やった識は整った眉をひそめる。
「どうした、先ほどのように名を呼んでみろ」
「え……?」
「呆けているだけではつまらん」
「っ、ちょ……!!」
止めるより先に、識の大きな身体が香夜の全身を包み込んでいた。
そのまま腰を引き寄せ強く抱きすくめられ、熱い吐息が耳元へとかかる。香夜は自分の口から零れた小さな悲鳴を飲み込み、目を瞬いた。
熱く、隆々とした胸板が狼狽したまま固まった香夜を包み込む。識の身体に見えたのは、赤い華の――紋印。
「――、香夜」
切なく、この上なく愛おしい人に話かけるように囁かれた掠れ声。
初めて呼ばれた自身の名に、香夜の心臓が大きく脈打った。
強くなっていく識の抱擁から逃れようと腕の中でもがくが、美しい妖はそれを許してはくれない。
「……っ、やめて、!」
それでも何とか顔を出し、やっとのことで声を出す。
すると識の腕が緩み、ピタリと動きが止まった。
腕が少し離れた隙をついて身体を引きはがすと、識は傷ついたような目をして香夜を真正面から見つめていた。
再び心臓が脈打ち、どういうわけか香夜の心の中にじわりとした哀切感が広がっていく。
「どう、してそんな顔で私を見るの……?」
そう言うと、識はまた香夜の顔をじっと見つめ、身体を引き寄せ直す。
どうやったら手を離してくれるのだろうかと戸惑っていると、赤く濡れた瞳と目線が合う。
ふわりとまた華の香りがした。
ふと、識がまとっている濃紺の羽織の下、筋肉質な肩に浮き出たアザみたいなものが目に留まる。
それは、常夜頭の赤い印を囲うようにして螺旋を描いていた。
きっとこのアザは、常夜頭にかかった徒花の呪いで間違いないだろう。
識の鎖骨あたりに浮き出たアザが一瞬だけうごめいたように見えた。その動きに、香夜はハッと我にかえる。
「……っ、離して! 私は、父の……父の死の真相を知るためにきたの!」
識につかまれたままの腕がきしんで痛んだ。
すると、識がゆっくりと口を開く。
「お前の、父か」
「口無し様から聞いたわ、あなたが私の父を殺したって」
「……ああ、確かに、俺が命を奪った」
識の言葉に目の前が暗くなるのがわかった。
しかし香夜は、識があっさりと認めたことよりも、それを聞いてショックを受けている自分自身に驚いていた。
識は妖だ。強い力を持ち、血を奪う常夜頭だ。
そんな相手が父の敵だと知って、恨みはすれど驚くことなど何もないではないか。
「しかし、だからどうした」
非情な妖はそう言って、香夜の手をつかみ上げる力を強める。
「……いっ……た……」
「俺を恨むか? それとも、敵をとるか?」
識がねめつけるように笑みを深めた。
美しすぎるものは、かえって恐ろしく感じるとどこかで聞いたことがある。
しかしいざ目の前にしてみるとそんなことを考えている余裕などないことがわかった。
そこに優しさや情などは存在する余地もない。
つい数分前に発した切ない声色とはまるで別人のような識の姿にぞくりと肌が粟立つ。
「……素直に、敵をとらせてくれるとは思えない」
「そんなことはない。お前の好きにすればいい。できるものならな」
スッと前を見据え、識の深紅の瞳を見つめ返す。
こうして真正面から向き合ってみると、いつも不思議と恐怖を感じなかった。そしてそれは今も同じだった。
「……あなたが認めたら、すぐにでも刀で斬りかかってやろうと思ってた。でも、どうしてかそれができないの。……恨みはある、許すことはできない。それでも……」
香夜がそう言うと、見つめた先の識の表情がわずかに変わる。
「……俺は、お前の父を殺した敵であり、お前の血を奪う妖だ」
「それなら、どうして私を殺さないの?」
ずっと思っていたことだった。
識から、血を奪ってやろうという意志が感じられないのだ。
先ほど垣間見た識の身体には、すでに呪いが広がり始めていた。きっと、こうしている今も苦しいはずだ。
「……やっぱり、今あなたに刀を向けることはできない。だって、あなた、私を殺す気も血を奪う気もないでしょ?」
「……っは」
瞳孔を開いて軽く笑い声をあげた識が、そのまま心底面白いものをみたかのように笑い続ける。
「俺がお前の血を奪う気がないと? なぜそう信じられる」
「……見たらわかる。その気なら、最初に会った時にそうしてるはずだもの」
「く……くく、面白い」
識の手が香夜の顎を乱暴に引き上げ、身体がぐっと近づけられた。
むせかえるような識の香りが鼻腔にゆらぐ。脳が茹だっていくようだ。
「お前がそう言うのなら、望み通り奪ってやる」
識の冷たい指先が香夜の唇に触れる。
抵抗するように唇を噛み締めるが、血が出た箇所を強く押しつけられ、傷口が開いていく。
悲鳴を上げて目を閉じてしまいたいのに、反らすことができない。
少しだけ開いた障子の隙間から零れ出た月明りが識の端正な顔を照らす。
――そうだ、今日は満月だった。
「……贄を喰らう夜にぴったりの、いい月だ」
そう言った識の背後、常夜の空に浮かぶのは、落ちてきそうなほどに大きな赤い月。
識のはだけた着物から、赤い華の印が見えた。薄黒いアザに囲まれたその赤は、このおぞましいほどに美しい妖が持つ瞳と……空に浮かぶ月と同じ色だ。
「……っ、あ」
「俺を恨め、悲観しろ。――この憎き敵の首が繋がっているうちは、死んでも死にきれないと、そう思っていろ」
血がにじんだ香夜の唇を弄ぶように触れながら、識はポツリ、ポツリとつぶやく。
傷みによる生理的な涙がつうと香夜の頬を流れた。
息がかかるほどに近づいた識の表情は、冷ややかな感情に満ちたまま。
しかしその口元は弧を描いていた。
「お前の全てを、俺が奪ってやる」
そう言って、識は乱暴に唇を合わせた。
鉄のような血の味が口腔内に広がる。
「……ゃ、ぁ……!」
叫び声をあげることすらできず、漏れ出るのは小さな吐息だけ。
全てを喰らいつくされてしまいそうな口づけのなか、赤い月だけがこちらを覗き見ていた。
「……っ、は、ぁ」
何度も何度も角度を変えて繰り返される識の口づけに意識が朦朧とする。
逃げ出したいのに、強く腰を抱きすくめられており動くことができない。
身体が熱い。識の冷たい舌が唇からにじみ出た香夜の血を舐めあげる。
香夜が痛みに顔を歪ませると、識は薄く笑った。
行き場をなくした声にならない悲鳴が喉元で鳴る。
意識が段々と遠のいていく中、識が着ている着物からのぞいたアザが薄くなっていくのが見えた。
「……こうやってじっくりと弄ぶのも悪くない」
口元についた血を拭いながらそう言う識は、身震いしてしまいそうな色気を放って香夜を見下ろした。
優しさなど微塵もない、冷ややかなまなざしを伴なって。
目の前にいる妖の声が、表情が、かすんでぼやけていく。
――ああ、私はこのまま気を失ってしまうのか。もっと、聞きたいことがたくさんあったはずなのに。
「――俺の花贄。お前が何も考えられなくなるまで、戯れに愛してやる」
冷酷な妖の笑み。甘やかな声が耳元で囁かれた。
心が締め付けられるように痛む。流れた涙が落ちる前、香夜はゆっくりと意識を手放した。