広大な屋敷の門前に立っていたのは、一人の男だった。
少しクセのついた金髪に、軽く着崩された水色の着流し。
切れ長の目は琥珀色に光を放っている。
重心を大きな門へと預けるその佇まいが妙に様になっている眉目秀麗の男が、にこやかに笑いながらひらひらと手を振っていた。
あれは誰だろうか。少なくとも、常夜頭、識でないことだけは見て分かる。
「よぉ来てくれはったなぁ、牛車の乗り心地はどやった? でもちょっと遅かったんとちゃう? 僕ここで、アイツの代わりにずうっと待ってたんよ?」
訛りが目立つ言葉使いで、男は頬を緩めてみせた。
背丈が高く、服の上からでもわかるほどの隆々とした体つきをしているにも関わらず、それはどこか柔らかな印象である。少なくとも敵意は感じられない。
しかし、気配からして恐らく識と並ぶほどには力のある妖だろう。
そう感じた香夜は、自然と臨戦態勢をとっていた。
「ほぉ~関心やわ、うんうん、初対面の相手には警戒せんとあかんよなぁ。特に、妖相手には。僕は凪っていいます。一応烏天狗っちゅう妖の頭やらせてもろてます。えーと、君は……香夜ちゃんやっけ?」
「……なんで、私の名前を?」
「それはもちろん、大事な我らが常夜頭の贄になってくれる人やもん、ちゃあんと知っとるよ。姫さん、可愛らしいなぁ。残念、識のもんやなかったら僕のもんにしたいとこやわ」
識の知り合いなのだろうか。
屈託のない笑みでふわりと笑いかけられ、香夜はつい、たじろいでしまう。
「んー、姫さん、なんか独特な雰囲気やね、……ええ匂いやわぁ。鼻が悪い僕でも、はっきりわかる。さすが花贄の姫さんやね」
そう言ってにっこりと笑った凪が、鼻をひくつかせて香夜に近づく。
「天狗の頭が、何の用? 私は常夜頭の屋敷に行きたいの」
「あぁ、識の屋敷ならここで合うとるよ。僕の後ろにそびえとるこのでっかい建物がそれや」
ほら、と言って、門へ手を掲げてみせる凪。
「……じゃあ、そこを通してくれる?」
「う~ん、僕かてそうしたいとこなんやけど……ちょっと姫さんに付けられとるマーキングが気になってなぁ」
「マーキング……? 何のこと?」
「ふぅん、そうか、気づいてないんやね」
凪はそう言って笑みを深めると、琥珀色の瞳をぎらりと輝かせた。
その瞬間、穏やかに吹いていた風がざわめき始め、砂塵を巻き上げながら竜巻のように渦巻いていく。
頭の中で警鐘が鳴り響くのが分かった。
――ここにいては、まずい。
「姫さんの周り、綺麗で目障りな蝶々が舞っとるで? 邪魔やろし、消してあげよか」
それは、言葉を失うほどの魔力量だった。
沈丁花のような甘い香りが香夜の鼻を刺激する。
凪がゆらりと指先を動かすだけで、身体を動かすことすらかなわないほどに張り詰めた気が、彼の前に集まっていく。
識と対峙した時にも感じた膨大な魔の力。
しかしそれとはまた種類が違う。
何が柔らかな印象だ。少しでもそう思った自分が恥ずかしくなるほどに、鋭く研ぎ澄まされた魔力だった。
――逃げろ。逃げなくては殺されるかもしれない。
頭の中で鳴り続けている警鐘に、香夜は帯に隠した刀の鞘に手をかけながら口を開く。
「蝶……? ほん、とに、何のことだか……」
声が揺れる。
逃げ出したいのに、足がもつれて動かない。
するとその時、香夜の目の前にひらひらと光り輝く蝶が姿を現した。
これは、識が姿を見せた時に必ず現れた不思議な蝶だ。
香夜が思わず目を奪われていると、凪の柔らかい声が上から落とされる。
「ほら、やっぱり識の蝶や。はは、番犬代わりに姫さんに付けてきたんやなぁ。それとも監視か? 嫉妬深い男は嫌われるって知らんみたいや」
「この蝶……前にも何回か見た……」
「そりゃそうやろなぁ。これは識の分身みたいなもんや。少し発現させただけで膨大な魔力を使うはずなんやけど、それを自分の贄に付けるって……ちょっと考えられんわ」
呆れたような声を出す凪。
香夜は呆然として、ゆっくりと上下に羽を舞わせる蝶を眺めることしかできない。
相手は妖で、およそ常識が通じる相手ではない。深い理由などないのかもしれない。
それでも、やはり口無しの間で識が香夜の前に現れたのは偶然ではなかったのだ。
「どうして私にこんなものを……?」
「あはは、そりゃひとつしかないやろ、他のもんに手出しされたくないからや。僕にもな。ちょっかいかけたろーと思ったけど、無理みたいやもん。姫さんに近づいただけで手、痺れてきたし」
凪がそう言った瞬間、張り詰めていた殺気が消える。
そして、そのまま凪は自身の身体でふさいでいた門の前を空けた。
通れ、ということなのだろう。
「識によろしゅう伝えといてなぁ」
おずおずと香夜が歩を進め出すと、柔らかな凪の声が耳に届く。
凪とすれ違う瞬間、冷たい氷のような風が肌を刺した。
――見逃してもらった、ということでいいのだろうか。
香夜は勝手に震える自分の身体を押さえつけ、ゆっくりと息を吐き出した。
大きな門は、思いのほか簡単に開くことができた。古い木材がきしむ音が鈍く響き渡り、空気を揺らす。
花贄である自分に、護衛をするようにして分身をつけた識。
混乱する頭で何度考えても、その真意がわからない。凪の言う通り、おかしなことをしないようにと監視の意味をこめてのものだったのだろうか。
「……鵺の屋敷は厄介やで。気いつけてな」
そう言って穏やかに微笑みこちらを見やる凪をもう一度強く目に焼き付け、香夜は門の中へと足を踏み入れた。