鵺の花贄



 常夜。
 明けることのない夜が永久に続く地。
 人智を超える奇怪な魔力を持つ異形の者、妖が統べる世界。

 その頂点に立ち、常夜頭と呼ばれる妖は見るもの全てを惑わす美しさを持つという。

「ここ……は……」

 目を開けると、視界を覆うほどの砂埃に包まれていた。
 識の姿はない。どこかへ消えてしまったのだろうか。

「……あの妖に、救われた?」
 
 識が来ていなかったら、香夜は確実に口無しの餌食になっていただろう。
 そういう意味では、救われたといってもいいのかもしれない。
 しかし識こそ、長年探し求めた父の敵かもしれないのだと、香夜は複雑な気持ちになる。
 確かめてみなければいけない。直接、識と話すのだ。

 辺りは深い闇がたちこめており、ところどころに揺れ動く赤い光があった。
 周囲の薄暗さに目が慣れてくると、それがただの光ではないことが分かる。

「凄い……こんなの、見たことない」

 漂っていたのは無数の狐火だった。淡い光を放つ火の玉がゆらぎ、みるみるうちにその形を変えていく。
 灯篭のように形を変えた狐火が並んで道を作り、足元の地面をほんのり青白く浮かび上がらせていた。

 身体の周りに立ち込めていた砂埃もいつの間にか無くなり、じっとりと黙した黒い闇があるだけだ。

 どこか遠くの方からお囃子の音のようなものも聞こえるが、夜闇に包まれていて目視することはできない。

 目の前にあるのは、ただ薄ぼやけ、瞬きと共に何度も形を変える灯篭の道。

「ここが、常夜……?」

 香夜が思わずそう呟くと、灯篭の他に何もなかったはずの道に大きな牛車が現れた。

 赤く燃える火をまとった牛の首は無い。
 ″首無し牛車”は香夜の姿を見つけると、主人を迎え入れるかのように扉を開いた。

「……っ」

 思わず叫びだしてしまいそうになるのを、必死で抑える。

「……乗れって、こと?」

 香夜の言葉を聞いたかのように、首無し牛車の牛が鳴く。
 首がないにも関わらず、鳴り響いた声は闘牛のような雄々しさが感じられた。

「もう、ここまで来たらなるようになれって感じね……」

 勢いに任せて乗り込んだ牛車の中は、思いのほか居心地がよかった。
 入った瞬間燃やされてしまうのではないかと身構えたが、牛の首がなく周りが燃えている以外はいたって普通の牛車のようだ。

 香夜が乗り込んだ瞬間、車は鈍い音を立ててゆっくりと走り始めた。
 牛車が進み少し経つと、辺りの風景も段々と明瞭なものに変わる。

 強く吹き付ける漆黒の風の中に見える小さな光の粒。
 それは小さなものから大きなものまで、様々。

 先程まで遠くの方で聞こえていたお囃子の音が近づいてくる。
 騒がしい音に耳を澄ませてみると、太鼓の音やざわざわとした人々の喧騒のようなものまで聞こえた。

「誰かいるのかな……って、わっ!」

 あわや、窓から落ちそうになったところを牛車の揺れに救われる。
 その瞬間、外に広がっていた光景に香夜は目を奪われた。

 それは、例えるならば江戸の城下町。

 しかしそこにいるのは人間ではなかった。

 首から上が蛇になっている女や、高々と赤く伸びた鼻をたくわえた大男。
 ぎょろりとした目玉が飛び出て、ひとりでに歩いている行燈(あんどん)

 絵巻でしか見たことのないような魑魅魍魎(ちみもうりょう)が、賑やかに大通りを闊歩(かっぽ)しているのだ。

 辺りは食べ物の良い匂いで満ちていた。

 肉が焼けたような香ばしい匂いが牛車の中まで入ってくる。

 橙色のぼんぼりが宙に浮かび、路地にある出店を照らしている。おそらく匂いの出どころはこのずらりと並んだ出店なのだろう。

 祭りでもやっているのだろうか、通りは大小さまざまの妖でごった返し、時折威勢のいい掛け声が聞こえた。

 次々に現れる、人智を超えた光景を前に、目線をどこへやっていいのかが分からなかった。
 ‟百鬼夜行”をもし間近で見ることができるならば、それはきっとこのように奇怪で、鮮やかで、心を奪われるような光景に違いない。

 城下町にあふれかえる妖からはこちらの様子が見えていないのか、牛車は邪魔されることなくスムーズに進んだ。

 トクリ、トクリと静かに脈を刻む自身の胸に手を当て、香夜は強く瞬きをした。
 そうだ、自分はむざむざと常夜まで死にに来たわけではない。
 こんな世界で、父が‟生きろ”と言った意味を、知りたい。いつも漠然と感じていた、喪失感の意味を知りたい。
 それまでは、泥臭くもがいてでも生きてやるのだ。まずは、父の死の真相を知っているかもしれない識と話をしよう。香夜は、自分の胸にかすかに灯った決意を確かめるようにして、上を見上げた。
 直視しようとしてなかった自分の中の空洞に、ようやく指先が届いたような気がした。

 その時、牛車が急に止まり、空気が一変する。
 騒々しかった城下町もいつの間にか通り過ぎていたようだ。

 香夜が辺りを伺いながら外に出ると、面前に広がっていたのは、目を見張るほどに大きな屋敷だった。
 石垣に囲まれ、中堀まであるその屋敷はまるでひと昔前の武士の城のようだ。

 足を進めると漂ってきたのは、かぐわしい華の香り。
 黒い瘴気をまとった屋敷は、はたから見てわかるほどに異様な雰囲気に満ちていた。

 ――ここに、識がいる。

 嫌でも、それがわかった。
 人間の世界を抜け、常夜で感じる、鵺の存在感というものはこんなにも大きいのかと香夜は息をのむ。
 すると、ふと顔を向けた先に誰かが立っているのが見えた。