「……憐れむわりに嬉しそうな顔しやがって」
 眉を寄せて睨みつけると、二度寝屋はくつくつと笑った。
「そりゃ嬉しイゾ。年下に抜ケ駆ケされるワケにはイカない」
「なにが年下だ。今は同級生だろうが。亡霊になる前の生まれ年なんて知るか」
 するとそのとき、ちょうど僕たちの横を通りがかった車が、二度寝屋の面に思い切り泥を浴びせた。
「うワッ!」
「……人の不幸を笑ったからじゃないか?」
「磨いたばっかだったノニ……」
 せっかく朝磨いた金ピカの面は、一瞬にして泥だらけになった。面を磨くのは僕たちが思うよりも大変らしく、二度寝屋はガックリと肩を落としている。
 さすがに可哀想になり、
「……ほれ」
 僕はアルコールで湿らせたワッテを二度寝屋に渡してやる。
「ありガとウ。相変わらズ準備がいいナ。助かるヨ。キモイけド」
「キモイ言うな。綺麗にしていてなにが悪い。汚いよりマシだろ。そんなこと言う奴にはやらないぞ」
 言いながら、僕自身もアルコールスプレーを両手に吹きかけて馴染ませる。
「悪いとは言わないが……なにゴトも限度ってもんガあるだろ。お前がアルコールスプレーとワッテとハイターを常備してるなんテ知ったら、十中八九女子は引くゾ? 特にお前ノ大好きな華美サンはな」
 
 歩きながら校門をくぐり、昇降口で僕だけサンダルに履き替える。二度寝屋は裸足のままだ。なぜなら包帯を巻いているから。
 基本的には人もあやかしも神もバケモノも同じ空間に存在するので、規則はあっても強制ではない。……まぁ、人間や人間型のあやかしなんかは規則の通りきっちりと制服を着ていたりするけれど。
「それはわかってるけど……」
 僕はアルコールに目を落とした。
 こればっかりはやめられないんだから仕方ない。
 
 僕が潔癖症になったきっかけは、小学生のときのトラウマが原因だ。学校帰り、道路の脇に一匹のカタツムリを見つけた。そのときの僕はまだ子供だったから、カタツムリを見つけたときは単純に嬉しかった。
 ――しかし、それがまずかった。
 そのカタツムリも、今ならもっと大切に扱うのに……と何度思ったか分からない。
 なんの拍子か、手の中でそのカタツムリを潰してしまったのだ。ただ、それだけならここまで引きずりはしなかっただろう。……潰してしまったカタツムリには悪いが。
 カチャリと音がした瞬間手の中を見ると、そこには恐怖の光景が広がっていた。カタツムリの殻の中で孵化していた大量の蛆虫が、潰れた拍子に飛び出し、手の中でうじゃうじゃと蠢いていたのだ。それを見た瞬間、僕は青ざめて失神した。
 それからというもの、虫恐怖症になった。それだけじゃない。今でもふとしたとき、あのときの蛆虫が手のひらにいるようで怖くなるのだ。いくら手を洗っても、消毒しても、あの光景が脳裏から離れない。
 それから僕は、目に見えないはずの菌ですら目に見えるような気がして、一度なにかに触ると消毒せずにはいられなくなってしまった。

 二度寝屋は遠い目をしている僕を憐れむように、肩に手を置いた。
「マ、それは仕方のないコトかもしれないケドな。ダガ、そのまま潔癖症を克服しナいとなると、彼女ト結ばれるのは無理なんじゃなイカ?」
 
 なぜ僕と彼女が結ばれるのが無理かというと。
 それは、彼女が僕の唯一の天敵だからだ。
 僕は嘆くように目を伏せる。
「分かってるけど……そんな簡単に諦められないから悩んでるんだろ」
 こっちが必死で諦めようとしても、毎日華美さんが夢に出てきて愛を囁いてくるんだぞ。とんだ拷問だ。

「――荒矢田君、おはよう」
 彼女の話をしながら二度寝屋と教室に入ると、すぐにその張本人・華美さんに声をかけられた。彼女は夢と同じ白色のジャケットを羽織り紺色のスカートを翻させて、僕を見てにっこりと微笑む。
「華美さん」
 朝から本物の華美さんと話せるなんて。夢ぶりだ、やっぱり可愛い。
 華美さんはふわふわの髪を高い位置でひとつに結び、白と紺のセーラー服に身を包んでいる。
 彼女は今日も変わらずふわふわ。天使です。
 あぁ、神様。今日も一日頑張れます、ごちそうさまです……。
 なんて変態チックなことを心の中で思いながら、表面上は平静の笑みを繕う。
「おはよう、華美さん。今日もいい天気だね」
 何気なくそう言うと、彼女はしょぼんと項垂れたように窓の外を見て言った。
「悪いです……華美の嫌いな天気です。早く梅雨入りしてほしいです」
「……たしかに、華美さんには厳しい天気だったね」
「雨が……湿気が、ジメジメが恋しいのです。カペカペは嫌です……」
「……そ、そうか」
 華美さんの嫌いなものは晴れや乾燥。逆に好きなものは雨や湿気だ。
 なぜなら彼女は、(かび)の付喪神だから。
 僕は華美さんが好きだ。だけど、告白しようとするとどうしても心がストップをかけるのだ。
 黴の付喪神である華美さんに告白など、潔癖症の僕の理性が許すはずもなく……。
 そういう理由で、僕は一年半もの間彼女への想いを燻らせているというわけだ。
 
 これまで何度告白しようとして諦めたか分からない。あと一歩踏み出す足を重くしていたその迷いの根源は、僕たちがたとえ両想いといえど解決することはないのだろう。
 彼女が華美(黴)で、僕が荒矢田(潔癖症)である限り……。
 僕は、初恋にして難攻不落の恋をしてしまったのだ。

 持て余す恋の熱を嘆いていると、華美さんがグイッと僕に顔を寄せた。
「あの、荒矢田君。華美、今日のお昼は荒矢田君と一緒に食べたいです」
「えっ!? 僕と!?」
「……ダメですか?」
 彼女の上目遣いの破壊力ときたら。
「食べよう!」
 理性の箍など、簡単にすっ飛んでいく。
「本当ですか!? 嬉しいです!」
「どこで食べよう? 教室でもいいけど、クラスメイトに茶化されそうだしなぁ」
「旧校舎のプールはどうですか?」
「旧校舎のプール?」
 旧校舎のプールといったら、黴だらけで誰も近付こうとはしない場所だ。たしかに人目は気にならないけど……。
「でも……あそこは立ち入り禁止じゃなかったっけ?」
「大丈夫です! 誰もいないからバレません!」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
 お昼を食べる場所として相応しくないような。
「荒矢田君に紹介したい場所があったんですが……」
「紹介したい場所?」
 僕の中では今、理性(潔癖症の僕)と本能(華美さんラブな僕)が血みどろの戦いを繰り広げている。
「……ダメですか?」
 しょんぼりと寂しそうな顔をする華美さん。
 くっ……。憂い気な顔ですら美しいなんて、なんて罪深い人だ。というか、華美さんにこんな顔をさせるなんて最低だぞ、荒矢田!
「……行きます」
 本能(華美さんラブな僕)が勝利した。
 大丈夫大丈夫。もし黴臭い場所だったら、自分の周りだけでもハイターで黴を落とせばいいんだし。こっそり彼女が見てないうちにアルコールスプレー吹きかけて、タオル敷いて座ればいいんだし。目は若干ぼやけさせれば、黴なんて見えないし。
 耐えろ、僕。華美さんとご飯を食べるためだ。
 引き攣りそうになる顔に、僕はなんとか笑顔を張りつけて頷いた。