きっかけは、斗真が大事にしていた宝箱を勝手に開けようとしたことだった。

 僕の家に三人姉弟が越してきた。京香と千夏とはすぐに打ち解けたけど、肝心の男である小学一年生の斗真とは、なかなか打ち解けることができなかった。

 斗真は、どちらかというと内向的な性格だった。いつも京香の陰に隠れているような存在で、勉強もスポーツも全く駄目な奴だった。

 当然、学校でもいじめられていて、泣いて帰ってきては、京香がいじめた相手の家に怒鳴り込みに行くのが日常だった。

 そんな斗真が、七夕に向けて京香たちと短冊を作っていた。なにをお願いしたのか京香に聞いてみたけど、京香も千夏も知らされていなかった。

 仲良くなるきっかけとして、短冊の願いを叶えてやろうと思い、宝箱に隠した短冊を盗み見ようとしたのが間違いだった。

 斗真に見つかり、初めて感情をむき出しにして怒る斗真を見た。おかげで、情けないことをしたと思い、斗真を傷つけたことへの罪悪感に悩まされるようになった。

 そんな気持ちにけじめをつけるために、僕はのり気を見せない斗真を、無理矢理自転車に乗せて町にくり出すことにした。

 雲一つない快晴の空の下、斗真を後ろに乗せて坂を下ってゆく。交通量も大したことない田舎道。大丈夫だろうとスピードを上げ、斗真の悲鳴に頬が弛んだ時だった。

 カーブにさしかかる直前、ずらりと並んだ工事中の看板が目に入った。一度は気を取られたけど、その時には既に遅かった。

 交通誘導員の止まれの合図に反応が遅れ、ブレーキをかけた時には、車線変更していた車が目の前にあった。

 鈍い衝撃の後、やけに空が近くに見えた気がした。けど、その直後に地面へと叩きつけられた僕は、なす術もなく意識を失った。

 幸いにも全身打撲と軽い脳震盪ですみ、病院には二、三日入院するだけでよかった。気になったのは斗真の容態だったけど、父親が心配しなくていいと言った言葉を鵜呑みにした。

 異変に気づいたのは七夕の夜だった。入院してから二日間、父親以外は誰も見舞いに来なかった。斗真を怪我させたから仕方ないと思っていたけど、血相を変えて現れた父親の顔を見て、それが間違いだと気づかされた。

 正直、どこをどう歩いて集中治療室にたどり着いたのかは覚えていない。やけに重たそうな扉が開くと、泣き叫ぶ京香の姿が見えた。

 宙を歩いているような感覚の中、どうしていいのかわからないといった顔で立ちつくしている千夏と目が合った。

 集中治療室に入った時には、横たわっているのが斗真だとわからなかった。全身を包帯に巻かれ、いくつものチューブにつながれたそれが斗真だとわかった瞬間、僕はその場に崩れ落ちた。

 斗真が苦しそうにうめき声を上げ、右手を懸命に上げていた。医者と看護師が慌ただしく動く中、僕は斗真の手を握ってひたすら祈り続けた。

 時間にしたら一分もなかった。けど、やけに長く感じた絶望の中、ただひたすら斗真が助かることを祈り続けた。

 そんな僕の都合のいい祈りなど届くわけもなく、斗真は最後に一際苦しげな声をもらすと同時に、僕の手を握り返した後、そのまま天国に旅立っていった。

 葬式のことは記憶になかった。ただ泣き崩れる京香を遠くに感じていた。そして、京香に「殺してやりたい」と叫ばれ、左頬を激しく打たれたことだけは、いつも必ず夢の終わりに唐突に出てくる映像だった。


 突然、夢から覚めた僕はベッドから飛ぶように身を起こした。全身が汗に濡れ、鼓動も呼吸も乱れまくっていた。

 頭を抱えたまま、ゆっくりと収まるのをじっと待ち続けた。頭痛が頭の中から響き、覚醒しているはずなのに現実感がなかった。

「兄ちゃん、どうした?」

 ふと声がして、豆電球に照らされた室内に目を向ける。物を置かない主義の部屋には、勉強机と丸テーブルしかない。丸テーブルのそばには、表情を失ったサラリーマンが立っていて、その横で薄ら笑いを浮かべるOL風の若い女性が座っていた。

 その存在を無視して勉強机に目を向けると、ハナが笑いながら机に腰かけて足をぶらぶらさせていた。

「嫌な夢をみたんだ」

 いつもなら相手をしないけど、今日はなぜかハナの問いかけに答えた。収まらない頭痛のせいだろうか。もしかしたら、やけにはっきりと睨みつける京香の顔を見たせいかもしれない。どっちにしても、耐えきれない後悔と罪悪感から逃れたくて、ハナに声をかけたのには間違いなかった。

「悪夢ってやつ?」

「そう、なるかな」

 僕の気などお構いなしに、ハナが鼻歌を口ずさみながら、僕の隣に腰かけてきた。

「辛いことあった?」

「色々とね」

「なら、慰めてあげよっか?」

 ハナはそう言うと、器用にできていると感心する花柄のワンピースを脱ごうとし始めた。

「ちょ、ストップストップ」

 慌て僕が制止すると、ハナは意味深な笑みを僕に向けた。

「冗談に決まってるじゃない。いくら兄ちゃんでもお金はもらうよ」

「だから、そんなつもりは」

「わかってるって。冗談だよ。兄ちゃん、他の男の人と違うもんね」

 ハナはそう言うと、にっこり笑って僕の背中を叩いてきた。といっても、叩かれた感覚はなく、ハナの手も僕の体をすり抜けていった。

 そう、ハナは生きていない。言うなれば幽霊だ。丸テーブルのそばにいる二人も幽霊であり、斗真が亡くなってから、なぜか僕は幽霊が視えるようになっていた。

「それよりさ、とんでもない奴が舞い込んできたよね」

 一瞬気まずい雰囲気になったけど、ハナが先に雰囲気を変えるかのように、タケルを押し込めてる押し入れを指さしながら口を開いた。

「聞いてたの?」

「うん。てか、あの姉ちゃん怖すぎ」

 ハナが眉間にしわを寄せて僕を睨んでくる。京香を真似しているのか、その仕草がおかしくて笑ってしまった。

「まあ仕方ないよ。京香も思うことあってのことだから」

 その思うことというのは、もちろん斗真のことになる。タケルを見て、京香が斗真を思わないわけがない。

「優しいんだね」

 ハナが少しだけ首を傾げて僕を覗き込んできた。

「優しくなんかないよ。ただ逃げてるだけだよ」

「逃げてる?」

「そう。僕はね、京香の一番大切な人を奪ったんだ。なのに、向かい合うこともせずに逃げてるだけなんだ」

 斗真がいなくなってから、僕と京香の間には決して埋まることのない溝ができた。それは京香も感じているはずだった。

 だから、京香は絶対に僕に対して笑顔を向けることはない。向けるのは、殺したいくらいの憎悪だけだ。

「だから死んじゃうの?」

 ハナはつまらないといった表情で、ベッドから飛び降りて勉強机に移動していった。

「そうなるかな」

「馬鹿みたい」

 僕の言葉に、ハナが即答してきた。

「嫌になったから死ぬって、そんなの馬鹿だよ」

「わかってる」

「全然わかってないよ!」

 出会ってから一度も取り乱したことのなかったハナが、急に真面目な顔で怒りだした。

「死ぬ意味もわかんないくせに、簡単に死ぬなんて言わないでよ。あいつだって――」

 多分、生きていたら泣いてるくらいに、ハナが顔を歪ませた。

「あいつって?」

 ハナの口から出たその言葉の意味を聞くと、ハナの顔が一瞬で固まった。

「知らない」

 ハナは僅かに動揺した表情を見せた後、そっぽを向いてふて腐れたように呟いた。

 こうなったら、ハナは自分の殻に閉じ籠ってしまう。短いつきあいだけど、それだけはすぐにわかったことだった。

 ハナは自分のことを語らないし、聞かれるのを極端に嫌がる。だから、ハナがどんな人生を歩んでどんな終わりを迎えたのかは知らない。

 ただ、普通ではないことはわかる。でも、こうして見たら、ちょっと変わってるけど普通の女の子にしか見えなかった。

「ごめん、悪かった」

 ハナのタブーに触れたことを謝ると、ハナはため息をつきながら僕に顔を向けた。

「ま、なにがあったか知らないけど、姉ちゃんが兄ちゃんを憎んでいるとして、でも、どうして一緒に暮らしてるの?」

「え?」

「私だったら、憎んでいる人と一緒に暮らすのは無理かな。顔を合わせるのも嫌なら、お父さんかお母さんについて行くけどね」

 ハナはそう言い残して姿を消していった。後には、相変わらず笑っている女性と、表情を失った男性の幽霊が僕を眺めているだけだった。

 ――なぜなんだろう?

 ハナの言葉に、僕は自嘲気味に自問自答してみる。答えは簡単だ。京香は、僕のそばにいることで、斗真を死なせた罪を思い知らせてやろうとしているのだ。

 長いため息をついて、僕は少しだけ声を出して笑った。

 京香の目論見は成功している。おかげで僕は、ちゃんと自分で死ぬことを決めることができた。

 ――それに

 薄暗い部屋を力なく見渡してみる。きっと斗真も京香の味方だと思う。

 なぜなら、幽霊が視えるようになった僕の前に、斗真は一度も姿を現したことはないからだ。