伊月(いつき)(みやこ)までの道のり、歩きながら、前日の宿での出来事を頭の中で反芻(はんすう)した。

―― 必要以上に狼狽(うろた)えたな。

那美(なみ)湯治場(とうじば)で夫婦の真似事をし始めた時のことを思い出した。
一緒の部屋に泊まるのに、夫婦だというのが一番自然だし、那美(なみ)が純粋に伊月(いつき)の体を心配してやってくれたということも理解している。

―― なのに、あの時は(よこしま)な考えに支配された。

那美(なみ)に「あなた」などと呼ばれ、腕を組まれ、仲居から「奥様」「旦那様」などと言われて、どうしようもなく浮かれて、舞い上がった。
もしかしたら那美(なみ)が自分とそういうことをしてもいいと、言外に言っているのではないかという考えが一瞬頭をよぎった。
それで、期待を込めてそうなのかと問いただすと、那美(なみ)は全然そういうつもりはなかったと言った。
しかも部屋の端っこに布団を離して寝ると言われて、結構、いや、かなり、傷ついた。

―― いや、わかっていたはずだ。那美(なみ)どのがまだそういう準備ができてないことを。

自分が拒否されたような気持ちになって、ついむきになり、那美(なみ)に説教じみた事を言ってしまった。
それでも、ただただ伊月(いつき)のことを心配して、自分が廊下で寝るなどと言う那美(なみ)をみて、伊月(いつき)は自分のやましさが嫌になった。

―― 心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば、なんとかなるはず…

そう、思い、一緒の部屋で寝ることを了承すると、那美(なみ)は嬉しそうに笑っていた。

―― 何なんだ、この可愛さは。このような可愛い那美(なみ)どのと一晩一緒に過ごして、何もするなというのか!? まこと、生殺しではないか。

あの時は、そう思って多少の苛立(いらだ)ちを覚えた。

(あるじ)、お顔の色が優れませんが、大丈夫ですか。」

横を歩いていた平八郎(へいはちろう)が心配そうに言う。

「大事ない。」

短く答えると、

「やはり(あるじ)には個室に寝ていただいて、私どもが那美(なみ)様の護衛をするべきでした。野宿の後に廊下で寝られたのは(あるじ)だけです。他の皆は布団でぬくぬくと寝ましたのに。」

「そ、それはいい。」

平八郎(へいはちろう)は、伊月(いつき)が廊下で護衛に徹していたので、疲れているのだと解釈したようだ。
昨晩、那美(なみ)と一緒の部屋で布団でいちゃいちゃしながら眠りこんだなどとは口が裂けても言えない。

―― 今朝、那美(なみ)どのの寝顔も見れたしな。

伊月(いつき)は空を見上げて、那美(なみ)の寝顔を思い出した。
何の不安もなさそうにスヤスヤ眠っている那美(なみ)は小動物のようだ。
髪を撫でても、頬に口づけても、あんなことやこんなことをしても起きなかった。

―― あれは、癒されたな。

「あ、(あるじ)?どうかされましたか?」

「ど、どうもしておらん。」

伊月(いつき)は、きっと、ゆるみきっていただろう顔を慌てて引き締めた。
タヌキに化かされたときに女には気を付けるように皆に言ったのだ。

―― 自分がこうもたるんでいてはいかん!
―― 那美(なみ)どのの可愛さにいつも翻弄されているなどとは口が裂けても言えない。
―― しかも湯殿(ゆどの)であんなことをしたなどとは...

伊月(いつき)湯殿(ゆどの)での出来事を頭の中で反芻(はんすう)した。

―― あれはやりすぎた。

仲居が伊月(いつき)湯殿(ゆどの)に案内した時は驚いた。
家族湯などという贅沢な作りになっていて絹の湯帷子(ゆかたびら)まであった。

―― 貴族はこのように遊興するのか

と思いながらも、仲居が去った後、脱衣所に取り残され、どうしようか悩む。
湯殿(ゆどの)の中では那美(なみ)が、「ここにある1パーセントの食料でもあの村に分けられたら…」とつぶやいてる。

―― ぱーせんと、とは何だろうか。
―― あの村の者のことを考えているのか。

那美(なみ)伊月(いつき)の中に沸き上がる欲望に無頓着で、純粋に兵五郎(ひょうごろう)たちの村人たちを思っている様は、愛おしい。
しかし、こんなにも欲望を募らせているのが自分だけだと思うと、苛立(いらだ)ちも募った。
そして、無邪気にふるまって伊月(いつき)の欲望を(あお)那美(なみ)に、多少なりともいたずら心が沸いた。
那美(なみ)を少しからかうつもりで、意を決して、何事もないように風呂に入って行く。

―― 何だ、どうせこんな暗い所では何も見えんではないか。

少し興醒(きょうざ)めしながらも、伊月(いつき)は体を洗いはじめた。
案の定、那美(なみ)伊月(いつき)に気づき、騒ぎ始める。

―― いい反応だな。

狼狽(うろた)える那美(なみ)の声を聞いて、伊月(いつき)のからかい心が少し満たされる。

「洗い終わった。そっちに行くぞ。」

「え、ちょ、ちょっと待って下さい。じゃあ、私、出ますから...」

「駄目だ。」

慌てて湯船(ゆぶね)から出ようとする那美(なみ)の手首を掴まえて、湯船(ゆぶね)に引き戻した。
那美(なみ)を横に座らさせて緊張で震える那美(なみ)の肩を抱いた。
そのまま頭を撫でたりして、焦る那美(なみ)の反応を楽しみ、その辺で解放する予定だった。

―― しかし、あの瞬間、我を失ってしまった。

水にぬれた白い絹の着物が、那美(なみ)の体に張り付いて、体の線がくっきり見えた。
絹の張り付いた那美(なみ)の体の曲線は、官能的すぎて、その瞬間、自分の中の野獣が大きく育ち、那美(なみ)を手放せなくなった。
さらに那美(なみ)がたたみかけるように「い、伊月(いつき)さんが...い、色っぽすぎます。」と、苦しそうに言った。

―― なんなんだ、それは・・・

もしかして、那美(なみ)も自分のことを、欲しているのかもしれないと淡い期待が胸をよぎって、性急に口づけた。
なのに那美(なみ)は身をよじって、伊月(いつき)の口づけから逃れようとする。

―― やはり嫌なのか・・・

何とか暴走する自分を止めて、那美(なみ)の体を抱いたが、でもそれも間違いだった。
那美(なみ)の体が密着すると、また我を失いそうになる。
翻弄(ほんろう)され続けて苛立(いらだ)ちはピークに達した。

那美(なみ)どのは分かっていない。」

「な、何がですか…」

「そなたのすること、言うことが、いつも私を煽っているということを。」

「そ、それは…」

「そなたと二人きりになる度、私がどれだけ我慢を強いられてるか。那美(なみ)どのは全然分かっていないのだ。私がそなたにどんな事をしたいのかを。」

(うら)み事を言って、那美(なみ)の警戒心を(あお)ろうとした。
そのまま自分の手から逃げてくれれば、ひどいことをせずに済みそうだと思った。
それなのに、逃げ出すどころか、那美(なみ)伊月(いつき)にギュッと抱きついた。

伊月(いつき)さん、好きです。」

「く…そ...」

そして、もう自制が効かなくなった。
全ての理性が飛んだ。
那美(なみ)の口内を蹂躙(じゅうりん)して、耳を()んで、()めて、那美(なみ)の荒い息づかいと乱れた声を楽しんだ。
体を撫で上げて、那美(なみ)が肌を震えわせる様子を楽しんだ。
那美(なみ)華奢(きゃしゃ)な首筋に舌を這わせると、自分の頭を那美(なみ)が抱きしめ、甘美な吐息をもらした。
那美(なみ)(よろこ)び、自分を受け入れてくれているかもしれないという感じがあった。
そして、薄絹(うすぎぬ)の着物に手をかけ、その体を暴こうとした瞬間、那美(なみ)の体から全ての力が抜けた。

「な、那美(なみ)どの?」

完全にのぼせているみたいだった。

「大丈夫か? おい、しっかりしろ。」

そこでやっと我に返り、慌てて那美(なみ)を湯から出した。
脱衣所でぐったりする那美(なみ)を横たえ、水を飲ませ、体を冷やした。

冷静になると、自分のしたことの恐ろしさが後悔となって襲ってくる。
よく考えれば、那美(なみ)(よろこ)んでいたんじゃなくて、ただ具合が悪くて抵抗できなかっただけだとしたら。

―― 私は那美(なみ)どのを無理矢理抱いてしまうところだったぞ!
―― しかも、こんな初心(うぶ)な人を、こんな湯殿(ゆどの)で抱くなんて!

伊月(いつき)は自分で自分の両頬をバシバシ叩いた。
伊月(いつき)は深く、深く、ふかーく、反省した。

―― もう、淡い期待を持つのは辞めた方がいい。

伊月(いつき)は自分を(いまし)めた。

―― 那美(なみ)どのは自分を受け入れる準備はまだできていない。それで決まりだ。

那美(なみ)を介抱しながら、那美(なみ)を抱くのはちゃんとした夫婦になってからだと誓った。
一旦そう決めてしまえば、すっと心が落ち着いた。

―― あとは、那美(なみ)どのの言動に必要以上に心を動かされぬことだ。

どんなに可愛い事を言われても、されても、「那美(なみ)どのは自分を受け入れる準備はまだできていない」を合言葉に乗り切ろうと心に誓った。

お詫びのしるしに、今朝、宿場町の店で買った髪飾りを贈ったが、あんなもので(つぐな)えるだろうか。

「それにしても、那美(なみ)様と清十郎(せいじゅうろう)様や他の隊員たちと、随分と打ち解けられていらっしゃるみたいですね。」

平八郎(へいはちろう)の言葉に、現実に引き戻される。

「ん?」

(かご)の方に目をやると、確かに清十郎(せいじゅうろう)や他の者が(かご)のまわりで那美(なみ)と楽しそうに話している。

那美(なみ)様は隊の皆に別け隔てなくよくしてくださいます。素晴らしいお方ですね。」

「あぁ。」

「ずっと(かご)の中においでになって退屈されているかもしれませんね。」

「そうだな。先を急ぐぞ。」

「は。」

伊月(いつき)は都への道を急いだ。