この夜、「このままでは疫病が蔓延する」と言って、伊月さんは、皆に命じ、村に転がる死体の処理を先導した。
伊月さんたちとの戦いで亡くなった人たちの弔いも兼ねた総合葬儀みたいになった。
兵五郎さんたちは伊月さんたちがそこまでしてくれたことにいたく感動していた。
夜もすっかり更けて、この日の移動は無理になってしまったけれど、この村には伊月さんたち一隊が泊まれるような家はなく、私以外は皆、野宿になった。
私は村の女性たちと、それから女性に扮したキヨさんと一緒に小さな小屋の中で寝ることになった。
「今日泊まる予定だった宿場には、明日早くに行って、もう一度そこで休めるよう算段を立てる。予定が少し狂ったが、許せ。」
伊月さんが私に言う。
「許せ、なんて言わないで下さい。私、伊月さんたちの今日の働き、素晴らしかったです。」
伊月さんはそれには応えず、ただ私の頭にポンと手を置いた。
「そなたにも辛い一日であったな。キヨがついているので、安心して休め。」
「はい。ありがとうございます。」
次の日の早朝、護衛隊は持っていた非常食を全部村人のために置いて、出発した。
兵五郎さんと他の男衆たちも護衛隊に加わり私たちを送ってくれる。
道中、伊月さんはずっと兵五郎さんと話しをしていた。
これからどうやって村を建て直せばいいのかを教えているようだった。
やがて、宇の国と於の国境に差し掛かり、伊月さんが 「次は港まで護衛の隊を組んで来るように。」と、いい含め、兵五郎さんたちと別れることになった。
兵五郎さんたちは私たちが見えなくなるまでずっと頭を下げて見送ってくれた。
―― やっと、於を抜けて、宇に入ったんだ。
とは言え、まだまだ郊外なので、山道が続き、集落は見えない。
日が頭上に上ったころ、土地が開け、宿場町が見えてきた。
今日はここで宿を取る、と、伊月さんが皆に言うと、皆も安堵の色を示した。
護衛隊は昨日の戦闘のあと、村の人たちを助け、炊き出しをし、けが人の看病をしたり、死体の埋葬をしたり、野宿したり、休みなく働いて、随分と疲れている。
この辺りは治安も悪くないのか、私も籠を出ることを許されて歩き始めた。
近くにいる清十郎さんに話しかける。
「ここの人たちは飢えてないですね。」
「ええ。ここは貴族がよく来る湯治場ですからね。」
「湯治場ってことは温泉ですか?」
「はい。皆も楽しみにしていますよ。那美様も湯に浸かって体をお休め下さい。」
「さっきの山からそんなに離れていないのに、随分と雰囲気が違いますね。」
「国を収める者次第で民の暮らしは随分変わります。我が主が於の国主ならもっと国を富ませられますのに。」
「私も改めて伊月さんすごいなって思いました。」
「主が人を切るのを見たのに、那美様は肝が座っておられましたね。」
「見てて気分がいい物じゃないです。正直吐きそうでした。でも生きるために必要なことだったんだって思います。不謹慎かもしれないですけど、殺されたあの人の代わりに、平八郎さんが助かって良かったって思いました。」
誰の命も平等だって言いたいけれど、あんな状況になって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら、そんなこと言ってられなくなるんだ。
誰しも自分の仲間を救いたい。
「誰も飢えずに人から物を盗らなくても生きていける世の中になったらいいなって思うのは甘いですか。」
「いいえ、そんなことはありません。そのようにお考えになる那美様だからこそ、主も心をお許しになっているのでしょう。」
「え? どういうことですか?」
清十郎さんはそのままの意味ですよ、と、言って、それ以上は話さなかった。
宿場町に着いたはいいけど、伊月さんは充分な部屋を確保するのに苦心していた。
予定が狂って一日到着が遅れたことと、貴族たちの夏の休暇の時期が今日から始まったみたいで、どこを見ても宿泊客でいっぱいだった。
どの宿も満室か、空いていても一つの宿につき、一部屋だけだった。
伊月さんは一番高そうな宿の唯一空いているひと部屋を私のために押さえてくれた。
その時、 「那美どのを一人だけ宿においてはおけぬ。こうなれば今夜は私が那美どのの部屋の前の廊下で寝ながら護衛する。」 と、伊月さんが平八郎さんに言っているのを聞いた。
私も一人で宿に泊まる勇気はない。
個室といっても、現代日本のホテルのようにしっかりした鍵があるわけでもないし、しっかりしたプライバシーがあるわけでもない。
宿は夜になると酔っ払いだらけになる。
ある程度カムナリキで自衛ができると言っても、寝てる時に何かあったら対応できない。
かといって、伊月さんが廊下で寝るのは絶対嫌だ。
―― ただでさえ昨日も野宿であんまり休めてないのに。
色んな宿と交渉をして、ようやく、全員の泊まる所が決まり、皆、散り散りに自分たちの宿へと行った。
皆が行ったのを見届けて、宿の仲居さんが私と伊月さんを部屋へと案内してくれた。
伊月さんが、では、私は予定通りここで、と廊下に居座ろうとしたので、
私は仲居さんに、すかさず、「この人と一緒に泊まります。」 と言って、伊月さんの腕に自分の腕を絡めた。
「な、那美どの…?」
伊月さんに何も言われないように言葉を遮った。
「さっきまでこの人と夫婦喧嘩してて、売り言葉に買い言葉で、あなたは廊下に寝てって言っちゃったんです。」
「まあまあ、そんなことだと思いましたよ。時々する夫婦喧嘩も円満の秘訣ですよ。」
仲居さんは、ニコニコしながら言う。
私の下手な芝居も信じてくれているらしい。
「でも、それはかまいませんが、追加料金になりますよ。」
「お金は私が払います。」
「な、那美どの!」
「もう、あなたは黙って部屋に入ってて! 私の荷物持って行ってよね。」
私は伊月さんをぐいぐい押して部屋に入れる。
「奥様の言う事はお聞きになった方がいいですよ。旦那さんは女房の尻に敷かれているくらいが丁度いいって言うんです。うふふ。」
仲居さんも乗ってきてくれる。
私は伊月さんを部屋に入れて、ふすまをピシっと閉めた。
懐から財布を出して、追加料金を払うと、「今夜は仲直り頑張って下さいね」と言って、仲居さんは嬉々として去っていった。
部屋に入ると、激おこ顔の伊月さんが座っていた。
―― いつになく、顔がこわい!
「伊月さん、すみません。でも、ああでもしないと、伊月さん廊下に寝るって言い張ると思って。」
「元よりそのつもりだ。那美どのはどういったつもりでこんな事を?」
「伊月さんにちゃんと、お布団で休んで欲しくて。」
「布団に寝ないことなど慣れている。こんな勝手をされては困る!」
伊月さんの声が大きくなって、私は一瞬ひるんだ。
「こ、困るって…。そ、そんなに私と一緒の部屋が嫌なら、私が廊下に寝ます!」
「な、何と?」
私は泣きたくなってうつむいた。
「どうして、そんなに拒むんですか。そんなに私が嫌なんですか?」
私の声が震えてしまい、泣きそうになっているのが分かったのか、伊月さんが焦り始めた。
「な、泣くな。拒んでいるわけではない。嫌ではない。ただ…。」
「ただ、何ですか?」
「一旦、ここに座ろうか…」
伊月さんが私を座らせ、私と膝を突き合わせる形で正座する。
「那美どのは、私が男だということを忘れているのではないか?」
「え? 忘れるわけないじゃないですか…。」
「では、那美どのは覚悟があってこうしたのか?」
「覚悟って何の覚悟ですか?」
「だ…だから…その…私と…その…そういうことをする…。」
急に、伊月さんは言い淀みながら、顔を赤くした。
その瞬間、私は伊月さんの言いたいことが分かった気がした。
―― そういうことって、男女のそういうことってこと?
そういわれると、私にその覚悟は全然できてない。
恥ずかしいけど、この年まで、私はそういう経験がない。
―― え? もしかしてそのために伊月さんを部屋に連れ込んだとか思われたの?
今度は私が焦り始めた。
「あ、いや、そういうんじゃなくて、そういうつもりじゃ全然なくて…!私はただ、伊月さんに休んでほしくて。わ、私はこっちの端っこに布団を敷いて寝ますから!伊月さんはあっちの端っこに布団を敷いて寝ればいいじゃないですか?」
「那美どの…」
「はい・・・。」
「那美どのは男がどういうものかわかっていない!」
「そ、そんなの、男になったことないから分かるわけないじゃないですか。」
伊月さんは盛大にため息をついて、どう説明すればいいんだ、と、ブツブツ言っている。
「つまりだな、私にとっては、那美どのと一緒の部屋で寝ながら手を出さないよう我慢するのと、廊下に寝るのとでは、前者の方がよほど苦しい修行になるということだ。」
「いやいや、そんな事、いい説明が出来たみたいなドヤ顔で言われても!」
「ドヤ顔とは何か?いや、そんな事は今はどうでもいい、とにかく那美どのは私にそういう苦行を強いろうとしているのだ。」
「う…」
私は言葉を失うと同時に伊月さんの言いたかったことがはらおちして、自分の顔がブワっと赤くなったことが分かった。
―― でも…
「だったら、やっぱり、私が廊下で寝ます。伊月さんがあんなに戦って、人を助けて、野宿して、皆のために宿の手配をして、すごく疲れている日に、廊下に寝かせるなんて、私にとって、とても苦しい修行です。」
「那美どの・・・。」
私が譲る気がないと分かったのか、伊月さんがため息をついた。
「わかった。今夜はこの部屋で寝る。で、できるだけ…我慢する。」
「良かった!」
私はホッと一息ついた。
「あ、でも、本当に私、そういうつもりで伊月さんを部屋に連れ込んだわけじゃないんです。そこはわかって下さい。」
「そ、そんなに念を押されると結構傷つく…。」
「え? 何て言ったんですか?」
伊月さんが何かボソボソと言っていたけど、「何でもない」と言われた。
もう一度言ってくれる気はなさそうだ。
「じゃあ、伊月さん、その旅装を解いて、少し楽にしてください。 私、お茶を淹れますから。」
「…わかった。ありがたく頂く。」
軽装に着替えた伊月さんにお茶を出していると、さっきの仲居さんが戻ってきた。
「お客様、湯殿の準備ができましたよ。温泉、いかがですか?」
「わぁ、温泉入りたいです!」
「ご案内しますよ。」
「先に行ってきたらどうだ。私はこの茶を飲んでから行く。」
「じゃあ、行ってきます!」
「それでは旦那様の方はまた後でご案内に上がりますね。」
「ああ、頼む。」
夫婦のお芝居を始めたのは自分だけど、普通に旦那様とか言われるとすごく恥ずかしい!
伊月さんは平然としているのに!
私は一人ドキドキしながら、湯殿に向かった。
伊月さんたちとの戦いで亡くなった人たちの弔いも兼ねた総合葬儀みたいになった。
兵五郎さんたちは伊月さんたちがそこまでしてくれたことにいたく感動していた。
夜もすっかり更けて、この日の移動は無理になってしまったけれど、この村には伊月さんたち一隊が泊まれるような家はなく、私以外は皆、野宿になった。
私は村の女性たちと、それから女性に扮したキヨさんと一緒に小さな小屋の中で寝ることになった。
「今日泊まる予定だった宿場には、明日早くに行って、もう一度そこで休めるよう算段を立てる。予定が少し狂ったが、許せ。」
伊月さんが私に言う。
「許せ、なんて言わないで下さい。私、伊月さんたちの今日の働き、素晴らしかったです。」
伊月さんはそれには応えず、ただ私の頭にポンと手を置いた。
「そなたにも辛い一日であったな。キヨがついているので、安心して休め。」
「はい。ありがとうございます。」
次の日の早朝、護衛隊は持っていた非常食を全部村人のために置いて、出発した。
兵五郎さんと他の男衆たちも護衛隊に加わり私たちを送ってくれる。
道中、伊月さんはずっと兵五郎さんと話しをしていた。
これからどうやって村を建て直せばいいのかを教えているようだった。
やがて、宇の国と於の国境に差し掛かり、伊月さんが 「次は港まで護衛の隊を組んで来るように。」と、いい含め、兵五郎さんたちと別れることになった。
兵五郎さんたちは私たちが見えなくなるまでずっと頭を下げて見送ってくれた。
―― やっと、於を抜けて、宇に入ったんだ。
とは言え、まだまだ郊外なので、山道が続き、集落は見えない。
日が頭上に上ったころ、土地が開け、宿場町が見えてきた。
今日はここで宿を取る、と、伊月さんが皆に言うと、皆も安堵の色を示した。
護衛隊は昨日の戦闘のあと、村の人たちを助け、炊き出しをし、けが人の看病をしたり、死体の埋葬をしたり、野宿したり、休みなく働いて、随分と疲れている。
この辺りは治安も悪くないのか、私も籠を出ることを許されて歩き始めた。
近くにいる清十郎さんに話しかける。
「ここの人たちは飢えてないですね。」
「ええ。ここは貴族がよく来る湯治場ですからね。」
「湯治場ってことは温泉ですか?」
「はい。皆も楽しみにしていますよ。那美様も湯に浸かって体をお休め下さい。」
「さっきの山からそんなに離れていないのに、随分と雰囲気が違いますね。」
「国を収める者次第で民の暮らしは随分変わります。我が主が於の国主ならもっと国を富ませられますのに。」
「私も改めて伊月さんすごいなって思いました。」
「主が人を切るのを見たのに、那美様は肝が座っておられましたね。」
「見てて気分がいい物じゃないです。正直吐きそうでした。でも生きるために必要なことだったんだって思います。不謹慎かもしれないですけど、殺されたあの人の代わりに、平八郎さんが助かって良かったって思いました。」
誰の命も平等だって言いたいけれど、あんな状況になって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら、そんなこと言ってられなくなるんだ。
誰しも自分の仲間を救いたい。
「誰も飢えずに人から物を盗らなくても生きていける世の中になったらいいなって思うのは甘いですか。」
「いいえ、そんなことはありません。そのようにお考えになる那美様だからこそ、主も心をお許しになっているのでしょう。」
「え? どういうことですか?」
清十郎さんはそのままの意味ですよ、と、言って、それ以上は話さなかった。
宿場町に着いたはいいけど、伊月さんは充分な部屋を確保するのに苦心していた。
予定が狂って一日到着が遅れたことと、貴族たちの夏の休暇の時期が今日から始まったみたいで、どこを見ても宿泊客でいっぱいだった。
どの宿も満室か、空いていても一つの宿につき、一部屋だけだった。
伊月さんは一番高そうな宿の唯一空いているひと部屋を私のために押さえてくれた。
その時、 「那美どのを一人だけ宿においてはおけぬ。こうなれば今夜は私が那美どのの部屋の前の廊下で寝ながら護衛する。」 と、伊月さんが平八郎さんに言っているのを聞いた。
私も一人で宿に泊まる勇気はない。
個室といっても、現代日本のホテルのようにしっかりした鍵があるわけでもないし、しっかりしたプライバシーがあるわけでもない。
宿は夜になると酔っ払いだらけになる。
ある程度カムナリキで自衛ができると言っても、寝てる時に何かあったら対応できない。
かといって、伊月さんが廊下で寝るのは絶対嫌だ。
―― ただでさえ昨日も野宿であんまり休めてないのに。
色んな宿と交渉をして、ようやく、全員の泊まる所が決まり、皆、散り散りに自分たちの宿へと行った。
皆が行ったのを見届けて、宿の仲居さんが私と伊月さんを部屋へと案内してくれた。
伊月さんが、では、私は予定通りここで、と廊下に居座ろうとしたので、
私は仲居さんに、すかさず、「この人と一緒に泊まります。」 と言って、伊月さんの腕に自分の腕を絡めた。
「な、那美どの…?」
伊月さんに何も言われないように言葉を遮った。
「さっきまでこの人と夫婦喧嘩してて、売り言葉に買い言葉で、あなたは廊下に寝てって言っちゃったんです。」
「まあまあ、そんなことだと思いましたよ。時々する夫婦喧嘩も円満の秘訣ですよ。」
仲居さんは、ニコニコしながら言う。
私の下手な芝居も信じてくれているらしい。
「でも、それはかまいませんが、追加料金になりますよ。」
「お金は私が払います。」
「な、那美どの!」
「もう、あなたは黙って部屋に入ってて! 私の荷物持って行ってよね。」
私は伊月さんをぐいぐい押して部屋に入れる。
「奥様の言う事はお聞きになった方がいいですよ。旦那さんは女房の尻に敷かれているくらいが丁度いいって言うんです。うふふ。」
仲居さんも乗ってきてくれる。
私は伊月さんを部屋に入れて、ふすまをピシっと閉めた。
懐から財布を出して、追加料金を払うと、「今夜は仲直り頑張って下さいね」と言って、仲居さんは嬉々として去っていった。
部屋に入ると、激おこ顔の伊月さんが座っていた。
―― いつになく、顔がこわい!
「伊月さん、すみません。でも、ああでもしないと、伊月さん廊下に寝るって言い張ると思って。」
「元よりそのつもりだ。那美どのはどういったつもりでこんな事を?」
「伊月さんにちゃんと、お布団で休んで欲しくて。」
「布団に寝ないことなど慣れている。こんな勝手をされては困る!」
伊月さんの声が大きくなって、私は一瞬ひるんだ。
「こ、困るって…。そ、そんなに私と一緒の部屋が嫌なら、私が廊下に寝ます!」
「な、何と?」
私は泣きたくなってうつむいた。
「どうして、そんなに拒むんですか。そんなに私が嫌なんですか?」
私の声が震えてしまい、泣きそうになっているのが分かったのか、伊月さんが焦り始めた。
「な、泣くな。拒んでいるわけではない。嫌ではない。ただ…。」
「ただ、何ですか?」
「一旦、ここに座ろうか…」
伊月さんが私を座らせ、私と膝を突き合わせる形で正座する。
「那美どのは、私が男だということを忘れているのではないか?」
「え? 忘れるわけないじゃないですか…。」
「では、那美どのは覚悟があってこうしたのか?」
「覚悟って何の覚悟ですか?」
「だ…だから…その…私と…その…そういうことをする…。」
急に、伊月さんは言い淀みながら、顔を赤くした。
その瞬間、私は伊月さんの言いたいことが分かった気がした。
―― そういうことって、男女のそういうことってこと?
そういわれると、私にその覚悟は全然できてない。
恥ずかしいけど、この年まで、私はそういう経験がない。
―― え? もしかしてそのために伊月さんを部屋に連れ込んだとか思われたの?
今度は私が焦り始めた。
「あ、いや、そういうんじゃなくて、そういうつもりじゃ全然なくて…!私はただ、伊月さんに休んでほしくて。わ、私はこっちの端っこに布団を敷いて寝ますから!伊月さんはあっちの端っこに布団を敷いて寝ればいいじゃないですか?」
「那美どの…」
「はい・・・。」
「那美どのは男がどういうものかわかっていない!」
「そ、そんなの、男になったことないから分かるわけないじゃないですか。」
伊月さんは盛大にため息をついて、どう説明すればいいんだ、と、ブツブツ言っている。
「つまりだな、私にとっては、那美どのと一緒の部屋で寝ながら手を出さないよう我慢するのと、廊下に寝るのとでは、前者の方がよほど苦しい修行になるということだ。」
「いやいや、そんな事、いい説明が出来たみたいなドヤ顔で言われても!」
「ドヤ顔とは何か?いや、そんな事は今はどうでもいい、とにかく那美どのは私にそういう苦行を強いろうとしているのだ。」
「う…」
私は言葉を失うと同時に伊月さんの言いたかったことがはらおちして、自分の顔がブワっと赤くなったことが分かった。
―― でも…
「だったら、やっぱり、私が廊下で寝ます。伊月さんがあんなに戦って、人を助けて、野宿して、皆のために宿の手配をして、すごく疲れている日に、廊下に寝かせるなんて、私にとって、とても苦しい修行です。」
「那美どの・・・。」
私が譲る気がないと分かったのか、伊月さんがため息をついた。
「わかった。今夜はこの部屋で寝る。で、できるだけ…我慢する。」
「良かった!」
私はホッと一息ついた。
「あ、でも、本当に私、そういうつもりで伊月さんを部屋に連れ込んだわけじゃないんです。そこはわかって下さい。」
「そ、そんなに念を押されると結構傷つく…。」
「え? 何て言ったんですか?」
伊月さんが何かボソボソと言っていたけど、「何でもない」と言われた。
もう一度言ってくれる気はなさそうだ。
「じゃあ、伊月さん、その旅装を解いて、少し楽にしてください。 私、お茶を淹れますから。」
「…わかった。ありがたく頂く。」
軽装に着替えた伊月さんにお茶を出していると、さっきの仲居さんが戻ってきた。
「お客様、湯殿の準備ができましたよ。温泉、いかがですか?」
「わぁ、温泉入りたいです!」
「ご案内しますよ。」
「先に行ってきたらどうだ。私はこの茶を飲んでから行く。」
「じゃあ、行ってきます!」
「それでは旦那様の方はまた後でご案内に上がりますね。」
「ああ、頼む。」
夫婦のお芝居を始めたのは自分だけど、普通に旦那様とか言われるとすごく恥ずかしい!
伊月さんは平然としているのに!
私は一人ドキドキしながら、湯殿に向かった。