ふと源次郎さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば、先日那美様がお助けになられたお仙様という方がここに訪ねて来られました。那美様の居場所を探しておられたのでオババ様の場所をお教えしました。」
「源次郎さんがお仙さんに私の居場所を教えてくれたんですね。お陰様で、お仙さん、タカオ大社まで来てくれました。」
「無事にお会いできて何よりです。」
「実はお仙さんに頼まれて、足軽の奥さん達に読み書きを教えることになったんです。あと、算術も。」
「え? それは凄いですね!」
「本当か。それは素晴らしい。」
源次郎さんも伊月さんも喜んでくれた。
「え? 那美様は読み書きと算術までなさるのか?」
と正次さんはびっくりしたようだった。
「那美様は美しく勇敢なだけでなく、大変な才がおありなのです。」
源次郎さんが正次さんに言うと、正次さんは私をまじまじと見た。
「そ、そんなに言われるほどじゃないです。」
手放しで褒められて恥ずかしくなった。
「オババ様も賛同してくれて、タカオ山の麓に使ってない小屋があるから、そこを手習い所として貸してくれるそうです。」
「あぁ、あの小屋か。」
伊月さんは少し懐かしそうに言った。
「随分とボロ小屋で修繕が必要なのではないか?」
「ふふ。その通りです。やっと足が良くなったので、明日から、お仙さんや皆と一緒に修理したりお掃除したり準備を始める予定です。」
「そうか。それは楽しみだな。」
「はい。やっとこの国で自分にも出来ることが見つかった気がして嬉しいです。大したことじゃないけれど。」
「いやいや、それは大したことですよ、那美様。」
正次さんが心底感心したように言ってくれて、うれしくなる。
「ん? 那美様、それは笛ですか?」
ふと、正次さんが私の帯にさした、八咫烏さんの笛を見た。
とても興味がありそうだったので、帯から出して、手渡す。
「おぉ、これはいい笛ですなぁ。那美様は笛もたしなまれるのか?」
「あ、いいえ、吹いたことないです。でも、オババ様が、迷ったらこれを吹けって。」
「おぉ、では某が、那美様の門出を祝って一曲!」
正次さんはそういうと、笛を吹く。
「ま、待て、堀!」
伊月さんが止めようとしたが、ピロローと優雅で綺麗な音色がした。
「正次さんは笛が吹けるのですか?すごい!綺麗な音ですね。」
笛の音色に感動している私をよそに、伊月さんはたしなめるように言った。
「堀、それは八咫烏の笛だぞ。」
それを聞いて、正次さんも、源次郎さんも、
「げ? 八咫烏の?」
「うわー八咫烏ですか。」
と、難色を示している。
―― 八咫烏って、一体、どんなあやかしなの?
そう思った瞬間、一羽のカラスが庭の方から飛んできて、客間の真ん中に止まった。
するとカラスの体から煙が出て、煙が消えるとともに、カラスの姿は消え、代わりに男の人が現れた。
黒くてツヤツヤの短髪に山伏頭巾をつけて、結袈裟をかけている。
背中からは大きな黒い翼が生えていて、金色に輝く瞳を持っている。
明らかに人間ではない。
―― うわぁ。ミステリアスな人だな。
その男の人は、びっくりして固まっている私を見ると、すっと手を取った。
「え?」
「お前があの美しき笛の音の主か?このむさ苦しい状況から救って欲しいのだな?」
「いえ、あの・・・」
源次郎さんが、その人の手をサッと私の手から引き離した。
「おい、八咫烏、その手を離せ!」
―― やっぱり、この人が八咫烏さんなんだ。
「その美しき笛の音を鳴らしたのは俺だ!」
正次さんが、八咫烏さんの顔を両手ではさみ、ぐいっと自分の方に向けた。
「げ、な、何をする!離せ!」
抵抗する八咫烏さんを正次さんが抑える。
「いいから、笛を吹いた俺の相手をしろ。その人から離れろ!」
「俺は若い女しか相手にせぬ! お前のようなむさ苦しい男が俺の笛を吹いたなどとは許せぬ!」
「私の間違いでお前を呼び出してしまい悪いとは思うが、那美様には手を出すなよ。」
―― 何が起こってるの??
私は状況がわからずにバタバタしている八咫烏さんと正次さんと源次郎さんを見る。
「おい、お前ら落ち着け!」
伊月さんが呆れて喝を入れると、源次郎さんも正次さんもピタっと静かになり、すごすごと座った。
八咫烏さんは私を改めて見ると、口の端を吊り上げて笑った 。
「そうか、お前がオババ様の言っていた那美か。なるほど美味そうな匂いがする。」
「え?」
不穏な事を言われて一瞬固まる。
「八咫烏、お前も、ひとまず座れ。」
伊月さんが促すと八咫烏さんは私の隣に腰を下ろして、私の顔を覗き込んできた。
「あ、あの、おはぎ食べます?」
私は少しの気まずさをかき消すように、八咫烏さんにおはぎの入ったお重を差し出した。
「おぉ。」
八咫烏さんは、一瞬、餌を与えられた子犬のような目をしておはぎを一つ食べ始めた。
―― あ、やっと落ち着いた。
顔を覗き込まれなくなり、ホッと一息つく。
「那美様、八咫烏は無類の女好きですので気を付けて下さいね。触れると妊娠します!」
源次郎さんが言う。
「そんなことはない。俺の美しさに人間の女の方から寄ってくるのだ。」
八咫烏さんは食べながらも反論するが、正次さんも反論する。
「お前は女となると見境がないではないか。」
「女なら誰でもいいという訳ではない。若くて美味そうな女しか相手にせぬ。」
伊月さんはやれやれという感じで、首を小さく左右に振っている。
「おい、那美、お前も、食え、ほら。」
八咫烏さんはそういうと顔をぐっと近づけておはぎを私のを口元に差し出した。
「え?」
「ほら、食べさせてやるから口あけろ! あーん」
「ちょ、いや、それはさすがにやめて!」
私はとっさに後ずさりして伊月さんの背中に隠れた。
八咫烏さんは一瞬驚いた顔をして、すぐに眉をひそめる。
「おい、何で隠れるんだ。しかも伊月のやろうに。」
「だって、いきなり近づくから!」
「私の周りで何やってるんだ。うるさいからやめろ。」
伊月さんは淡々とおはぎを食べながら、片手を八咫烏さんの肩に当て、ぐーっと押し返す。
―― あ、助けてくれた。
「こら、伊月、邪魔するな。」
「こちらの方が食べるのに邪魔だ。那美どのも、何故私の後ろに隠れる?」
「す、すみません…何か安全地帯で。」
八咫烏さんがあきらめたように体を離して座りなおした。
「ま、今日は伊月に免じて引き下がってやる。」
八咫烏さんはそういうと、私の湯呑を取り上げ、お茶をグイっと飲みほした。
―― あ、私のお茶。
ドンと空になった湯呑を畳の上に置いて、八咫烏さんはスッと立ち上がった。
「那美、今度はこいつらがいない時に俺を呼べ。野郎どもがいては、やり辛い。」
八咫烏さんは立ち去る素振りを見せた。
「あの、いつかお世話になるかもしれません。宜しくお願いします。」
私は伊月さんの背中から顔を出し、ペコリと頭を下げた。
「ああ。お前ならばいつでも助けてやるからな。」
八咫烏さんは私に妖艶な笑みを見せた。
「伊月もこの俺をこれだけ牽制したのだ。もうちっと那美を甘やかせ。」
―― え?
八咫烏さんは大きな羽を羽ばたかせ、そのまま庭の外へと飛んでいった。
私がスゴスゴと伊月さんの後ろから出ていき、もとの席に座り直すと、
源次郎さんも正次さんも、伊月さんを見てにやにやしている。
「へぇ…」と、源次郎さん。
「ふうん…」と、正次さん。
―― 何...???
伊月さんは不機嫌そうにお茶を飲みながら黙っている。
「あの、どうかしたんですか?」
伊月さんに聞くと、
「さあ。何かこの者達が勝手に勘違いしているのではないか?」
「勘違い?」
よく分からないまま小首をかしげる私に源次郎さんは、まあまあと言って、八咫烏さんに飲まれてしまったお茶の湯呑を片付けて、新しくお茶を入れ直してくれた。
「ところで堀、お前は何か用事があって来たのではないか?」
伊月さんが話題を変えると正次さんはハッとする。
「あ、那美様の美しさとおはぎの美味しさにスッカリ忘れておりました。」
―― この人も八咫烏さん並みに口が上手いな
「この前のような大きな魔獣はあれ以来現れておりませんが、地方に小物魔獣が増えております。」
「その報告は受けておる。」
「もう少し人手を増やしたいのですが、なかなか良き人材が集まらず。そこで武術大会を開催して若者を競わせ、見込みのある強者を軍に雇い入れたらどうかと。」
「うん。良い案だ。」
―― 武術大会かぁ
「何だか楽しそう。」
思わずそう呟くと、正次さんが身を乗り出して来た。
「那美様がご観覧席にいて下されば会が華やぐと思います!」
「え?」
「そうですねぇ、堀様。那美様、ぜひともご観覧下さい。」
源次郎さんも乗ってきた。
「見てもいいんですか?」
「良うございましょう? 主?」
源次郎さんが伊月さんに前のめり気味で聞く。
「別に構わんが...」
伊月さんも私と同様にこの二人の前のめり気味の反応に訝しげにしている。
正次さんはさっそく会場探しを始めると言っておはぎをもう一つ頬張ると、席を立つ。
「那美様にお会いできて光栄でした。おはぎも美味しゅうございました。それではまたお会いしましょう。」
正次さんが出ていくと、源次郎さんも仕事に戻ると言って退室していった。
「ふふふ。皆さん、楽しい方ばかりですね。八咫烏さんと伊月さんは古い知り合いなんですか?」
「ああ、共にオババ様のもとで修行をしておったよ。」
「そうなんですね。皆さん揃って仲が良さそうでした。」
「仲がいい? 馬鹿を言え。」
伊月さんは呆れたようにそう言うと、不意に私の手を取った。
―― ん?
「傷は治ったみたいだな。」
―― あ、この前の擦り傷を確認してくれてるんだ。
「はい。お陰様で。」
言いながら自分の心臓がトクトクと高鳴りだすのを感じた。
伊月さんの手はとても大きくてあったかい。
八咫烏さんから手を握られた時には感じなかった心臓の高鳴りだった。
「そ、そういえば。」
私は懐から手ぬぐいを出した。
「これ、捻挫をした時に貸して頂いた手ぬぐいです。本当にありがとうございました。」
綺麗な藤の文様が入った紫の手ぬぐいだった。
伊月さんの髪や目の色にとても合っている。
手ぬぐいを受け取る伊月さんの手が触れて、また、鼓動が高鳴った。