背中に当たる誰かの大きな手のぬくもりとともに、ハーブのようなスパイスのような柔らかな薬草の香りをかすかに感じた。
やがて口の中にほろ苦くて、どこか(なつ)かしいような味を感じる。
思わずゴクリとその味を飲み込む。
心地よい温かさが喉を通り、胸まで下り、やがて四肢(しし)にまで染み渡った気がした。


目が覚めると見知らぬ天井が目に飛び込んできた。

―― うっ…。

起き上がろうとするとズキズキと頭が痛い。

―― ここは、どこ?
―― 私、確かあの桜の木のうろに落ちて…

障子(しょうじ)から差し込む優しい光に、薄暗い部屋の中の輪郭が浮かび上がる。

―― ずいぶん大きい和室っぽいな。

卒業式用に着ていた着物と(はかま)は、単衣(ひとえ)に着替えさせられている。

―― え? 一体誰が?

痛む頭を押さえながら、ゆっくり起き上がって障子をそっと開けてみる。
どうやら上階らしく、廊下に朱塗(しゅぬ)りのきれいな欄干(らんかん)がかけられている。
欄干(らんかん)に手をかけ、下階を覗き込む。
茂みがあるということはなんとなくわかるけど暗くてよく見えない。
次に空を見上げてみる

「え?」

私は思わず声をもらした。

「月が・・・ふたつ???」

「目が覚めたか?」

その時、女の人の声がした。
振り向くと、廊下の角から裾引(すそひ)きの着物を着た女性が現れた。
幾重にも重ねられた着物は平安貴族を思い出させる。
一番上に羽織っている蒼いシースルーの着物が月光を受けてうっすらと光っている。

「あ、あなたは?」

2つの月の光に照らされた腰まであるその人の長い髪の毛は銀色に輝いている。
まるで天の川みたい。
思わずそう思ったほど人間離れしている見た目だ。

「わしはこの屋敷の主だ。名をタカオという。」

「タカオさん…。あの、ここはどこですか? 私はどうしてここに?」

「オヌシは気を失っておったところをここに運ばれたのだ。」

「え、じゃあ、助けて頂いたんですね。」

「まぁ、保護した、ともいう。こちらに来い。ひとまず茶でも出そう。」

促すように歩きだしたその人の後に私も続いた。
通された和室にはいくつもの提灯(ちょうちん)が灯してあり、明るかった。
部屋の中央に座卓がありそこに座るように言われ大人しく従う。

「さて、オヌシ、()は?」

タカオさんも座卓に座り、私をしっかりと見据えた。
明るい部屋で見て初めて気づいたが、この人の目は深紅色だ。
ますます人間離れしている。

「わ、私は、那美(なみ)といいます。あの、あなたが私を助けて下さったんですか?」

那美(なみ)か。」

私の質問には答えずタカオさんは私の目をじっと見た。
緊張感が走り、思わず目をそらす。

「あ、あの。。。」

いよいよ居心地が悪くなり何か会話をしようとした時、部屋の奥から、13歳くらいの女の子が出てきた。

赤い水干(すいかん)を着ていて、つやつやの茶髪をおかっぱにしている。
目がクリクリと大きくて可愛い女の子だ。

「目が覚めたのね。良かった。はい、お茶をどうぞ。」

その子は私の前に湯呑をおいた。

「あ、ありがとう。」

「このわらじは夕凪(ゆうなぎ)という。」

タカオさんが紹介すると、夕凪(ゆうなぎ)ちゃんはペコリと頭を下げる。

「ここで家事手伝いをしておるワシの眷属(けんぞく)じゃ。」

「ケンゾク?」

「はい、オババ様もお茶、どうぞ。」

女の子はタカオさんの前にも湯呑を置く。

この屋敷の主はオババ様と呼ばれたが、どう見ても30代前半か半ばくらいに見える。
しかも切れ長の大きな目、ふくよかな唇、パッと見は妖艶な感じのかなりの美女だ。
喋り方はちょっと年寄りっぽいけども。

それでもツッコミを()れることなくタカオさんは私に向き直り口を開いた。

「オヌシを助けたのは私ではない。共舘伊月(ともだて いつき)という亜国(あこく)の将軍じゃ。」

―― 将軍?

タカオさんはそういうとお茶をすする。
私もつられてお茶を飲む。
どこか懐かしい味のするハーブティーだった。

共舘伊月(ともだて いつき)が倒れているオヌシを見つけ、ここまで連れてきたのだ。」

「そうだったんですね。あの、本当にありがとうございます。いつかその方にもお礼を言わなきゃ。」

「それよりオヌシ、面白きカムナリキを持っておるな。どこぞの巫女か?」

「へ? カムナリキってなんですか? み、巫女って、神社のバイトの??」

「は?」

私とタカオさんはどうやら話が合わずふたりともはてなの文字が顔に張り付いたみたいに固まった。

「オヌシ、出身は?」

「東京の郊外ですよ。」

「とうきょう? 聞いたことのない地じゃ。」

「え?東京知りませんか?」

「知らぬ。」

タカオさんもさっきの女の子も日本語が通じるし、ここも和室でとにかく日本ぽいから、同じ日本国内だとは思うんだけど。
日本人で東京を知らない人いる?

「えっと、日本ですよ? 日ノ本ジャパン。 ジパング。 ハポネス。」

一応、色んな名称で日本を説明してみる。

「何? 日ノ本じゃと?」

タカオさんは驚いたように声を上げた。

「さてはオヌシ...異界から来たか?」

「異界って、異世界転生モノじゃあるまいに。普通に日本人ですよ、地球の...」

不思議そうな視線を送って来るタカオさんに答えながらふとさっき見た2つの月を思い出す。

「あの、もしかしたら...この世界には月が2つありますか?」

さっき月が2つ見えたけど、めまいか何かで目がおかしくなっていたと思っていた....

「もちろん2つじゃ。」

タカオさんはキッパリと答える。

「もしかしてオヌシのいた世には月が1つしかなかったか?」

「そ、そうです。じゃあ、やっぱりここは地球じゃないの?」

「そうか、オヌシ、日ノ本という所から来たのじゃな? これは面白い!」

タカオさんの目が面白いおもちゃを見つけた子供のようにキラキラと輝いた。

そして何が何だか訳が分からずただ唖然としている私にタカオさんは色々と説明してくれた。

この世界は尽世(つくよ)と呼ばれているらしい。

タカオさんは先祖代々この地を守る龍神と人間のハーフだとか。
かれこれ1,200年くらい生きているらしい。

「せ、1200年ですか!?」

「まぁ、神の血を受け継いでおるからな。神の世界ではひよっ子のほうじゃ。」

それで、タカオさんは皆からオババ様と呼ばれている。
人間離れした見た目も、年寄りっぽい口調も納得だ。
そして、

「オヌシもワシのことはオババ様と呼べ。」

と、言われた。
見た目が若い人に言うのには違和感があるけど…

「この辺り一帯の土地の名もタカオ山、ワシが管理しておる神殿もタカオ大社というので紛らわしいのじゃ。」

ということらしい。

タカオ山の中腹に、この屋敷や、タカオ大社もあるそうだ。
そして、このタカオ山は()の国と()の国の国境にあるそうだ。

「国とは言うが完全に独立しておるわけではない。帝国の一部の領土じゃ。だが帝国の皇帝は力を失っており、各国は領土をめぐって争いばかりしておる。」

オババ様は嘆くように言った。
どうやら話を聞く限りでは日本の戦国時代っぽい。

「帝国の名前は何ですか。」

「タマチ帝国という。」

そこへまた夕凪(ゆうなぎ)ちゃんがお茶のお代わりを持ってきてくれた。

「あ、ありがとう。お茶、とても美味しいです。」

「それは何よりです。」

夕凪(ゆうなぎ)ちゃんはニコッと笑ってまた奥に引っ込む。

―― かわいい!

夕凪(ゆうなぎ)は化けダヌキのあやかしじゃよ。」

「そ、そうなんですか?」

どうやらこの世界では人間や動物以外にも神やあやかしや鬼や魔獣など不思議な存在がいるらしい。

「信じられないけど、私、本当に異世界に来ちゃったんだ。」

ため息交じりにつぶやいた。

「異界から来た者だからだろうか。オヌシは珍しきカムナリキを持っている。」

「あのぅ、そのカムナリキって何ですか?」

「女だけが生まれ持つ、巫女の力じゃ。」

オババ様によると、この世界ではカムナリキという巫女の力を使える人が稀にいて、私にもその力があるのだという。

「ところでオヌシ、ここに来る前は何をしておったのじゃ。」

「私は… もう少しで殺されるところでした。」

あの時の恐怖を思い出し、身震いする。
でも今度は私が素性を説明する番だ。

私は高校の教師で、地元の高校に勤務して一年目の卒業式。
自分が受け持った教え子たちが卒業するので気合を入れて、朝から美容室に行って髪もメイクもばっちりにして、(はかま)を着付けてもらった。
桜が咲き乱れる中、式は何事も滞りなく順調に進み、感動の涙で終わった。
式が終わってもまだ皆は校庭で写真を取ったり、話したり、まだ冷めやらぬ感動を共有していた。

私はそんな皆んなを微笑ましく思いながらも、帰路についた。

家の近くまで歩いていると後ろからけたたましい悲鳴が聞こえた。

―― な、何?

ただならぬ雰囲気を感じ取った私はさっき曲がった角まで戻って、角を覗き込む。
そこで私が見たのは3,4人の人が血を流して倒れているところだった。

―― 一体何が?

他の皆は逃げまとっていて、それを追いかけ回す半狂乱の男がいた。

「に、逃げろー!」

誰かの声で我に返ると、その男の近くにいたのは私だけになっていた。

男は立ち止まり私を見てニヤリと笑った。

―― ヤバい。

私は逃げ始めた。
とにかくがむしゃらに。
そしてあの桜の木まで逃げ、うろに落ちたのだ。

「こうこう?そつぎょう?何やらわからん言葉も色々あったが、とにかく辻斬(つじぎ)りのような狂ったやつに追いかけられたのじゃな。」

こくり、とうなづく。

「それでその御神木に助けられたのだな? 」

「はい。不思議ですが、そうだとしか思えません。」

「なあに、不思議ではないさ。神はどの世界でも何らかの形で氏子(うじこ)を助けるものじゃ。」

「どの世界でもってことは尽世(つくよ)や私の来た世界だけじゃなくて、もっと色んな世界があるのですか。」

「もちろんじゃ。そして神の力はどの世界にも影響を及ぼす。」

オババ様は色んなことを知ってるみたいだ。

「オババ様、私がもとの世界に戻れる可能性はあると思いますか?」

「まぁ、ないじゃろうな。」

はっきりといわれてガクンと肩を落とす。

「その(ほこら)の桜の木はオヌシを助けた。だが神はタダで人間の願いを叶えることはないぞ。何かしらの対価を要求するものだ。」

「対価って…お賽銭(さいせん)とか?」

「ははは! いかにも人間らしい考えだが違うな。例えばオヌシの人生そのものじゃ。今まで培って築き上げたものだったり。」

「だから別の世界に飛ばされたってわけですか?」

「多分な。」

私は命を助けてもらった代わりに失った物を考えた。

もともと家族はいない。去年唯一の家族だったおばあちゃんも亡くなった。
失ったものといえば、貯金や老後のための資金。退職金、年金・・・

異世界でも頑張れば失ったものはまた得られる気がする。

私は膝の上できゅっと拳をにぎる。

「オババ様、私をここにしばらく置いてくれませんか? この世界のことをもっと理解して、自立できるまで。もちろん働きます。料理、洗濯、掃除、一通りできます。雑用も引き受けます。お願いします。」

私は深々と頭を下げた。

「こちらの世界でやっていく覚悟を決めたのか?」

「はい。」

「まぁ、そんなに(かしこ)まらんでもいいさ。私はお前のような身寄りのないものを何人も面倒見てきた。500年でも1000年でも好きなだけいると良い。」

「そ、そんなに長くはいられないですけど。ありがとうございます!」

「ただし、オヌシには家事よりも、そのカムナリキを使えるようになるまで修行をしてもらうぞ。」