「ライト兄弟は世界で一番最初に有人飛行を行ったんだ。それが、飛行機の始まり」

「え……?」

「人が空を飛ぶことは、理屈だけでいうと高い場所から落ちるだけで成り立つんだよ。だけど、飛行機で空を飛ぶってことは、空に居る状態のことだと思う」

「……うん」

「真野さんと好きな人は、きっと空に居るんだろうね」


親指でわたしの頬を押しながら、白い息を零して微笑む橋田くんの意図がわからずに首を傾げる。


「人が空に居られるようになってから、もう百年以上経ってるんだから、怖がらなくても大丈夫だよ」

「どういう、こと?」

「恋は落ちるものだから。真野さんは、そこが穴ではなくて空だっただけ。きっと、大丈夫だよ」


繰り返し、大丈夫、とわたしの頬を撫でる。

その言葉は橋田くん自身に向けられたものにも思えて、じっと瞳の奥を探る。

優しい眼差しが、わたしとの間に一線を引きたがっているように見えた。

都合のいい、幻想かもしれないけれど。


「ずっと、考えてたんだ」


頬から顎のラインを伝って橋田くんの指先が離れていく。

短く揃えられた爪からはみ出した指先の皮膚が震えながら去っていく。


「俺は真野さんのことを名前で呼ぶ緊張がずっと残ったままで、そのくせ真野さんには名前で呼んで欲しいなんてよく言えたなって」

「そんなの……! 頑張ってくれてただけじゃ……」

「そう。俺、前に自分で言ったのにな。頑張ることじゃないって」


無理をしていた、とは言いたくなかった。

ずっと、それだけは避けていた。

頑張っていれば、いつかは慣れる日が来るはずだって。


「欲しがるって気持ちは……嘘じゃない。真野さんが不安になる隙間もないくらい、奪いたいって思う」


嘘だらけのわたしとわたし以外の人の中で、橋田くんだけはいつも嘘とは真反対でいてくれた。

わたしが嘘を吐いてきたから、橋田くんもそれに合わせる他がなかっただけ。


「俺は忘れて欲しいとは言わない。好きだったなんて言わない。今も真野さんが好きだし、叶わなくたってずっと続いていきたい」


くしゃりと顔を歪ませた橋田くんに手を伸ばした。

けれど、その手は届かない。


「そう、思ってたんだ」


伸ばした手があと一歩届かない。

橋田くんの目元が赤みを帯びていく。

決して逸らされることのない瞳から、わたしが先に逃れてしまいたかった。


「今日、ここに真野さんがいなかったら、この先も絶対に伝えなかったことを、きみに言うよ」


瞬きと同時に橋田くんの目の淵から雫が落ちた。

その涙だけでも、この手で掬いたかったのに、やっぱり届かなかった。


「真野さんと、真野さんの好きな人を……好きだった人にしなきゃいけない日がずっと訪れませんように」


何かに祈るような、願うような響き。

それは確かにわたしに向けられていた。

叶えるのはわたしだと、いうように。


「どうして……」


橋田くんはわたしの好きな人が葵衣であることも、況して相手が双子の兄であることも知らない。

顔を合わせたことはあるけれど、一度だけだ。

これだけで察しがついているわけもない。


「半年間、ありがとう」


決定的な言葉を避けて、橋田くんが深く頭を下げる。

顎に伝っていた雫がアスファルトの隙間で弾けた。


「繋がっていないものよりも、繋がっているものを諦めることの方がずっと難しい。真野さんが本当に望んでいることは、頑張るようなことじゃないと思う」


わたしが本当に望んでいること。

包み隠さずに伝えて、わたしと葵衣が同じ想いであることを知っているのは、橋田くんだけだ。

諦めるためには頑張らなければいけないけれど、この気持ちを抱えたくて抱えていくのなら、それは頑張ることでも苦でもない。

ただ、乗り越えていかなければいけないものが、生半可な気持ちでは越えられないというだけで。


灰色の世界の中、この恋を “ 恋 ” と呼んでくれる人が三人もいる。

わたしがそうしているように、葵衣もわたしに背を向けていると思っていたけれど、それだって振り向いてこの目で見なくてはわからないことだ。


「さようなら、真野さん」


雲間から月明かりが覗いた。

橋田くんの頬に残った雫が煌めいて、けれどもう手を伸ばすことはしなかった。


倒れていた自転車を起こして、こちらを振り向かずに去っていく橋田くんに向けて、小さく吐息を零す。

喉が震えて、橋田くんを追いかけたがる「ごめんね」がいくつもいた。


首に巻かれたマフラーに手を置いて、気持ちとは相反して動きたがらない足に力を入れる。


「葵衣」


嘘はやめようと言ったから、葵衣はあの紙を出したのだろう。

最後まで嘘吐きだったのは、わたしだけだ。


ここへ来た時のように駆け出す。

マンションのエントランスのドアが開く時間さえも惜しくて、いつもは気にならない解除音までもが鮮明に聞き取れる。

ちょうど下に着いたエレベーターに乗り込んで、六階に上がる間に乱れた息を整える。


葵衣と顔を合わせたところで、気持ちを伝えるのかと問われたら、イエスとは言えない。

せめぎ合うのだ、どうしても。


けれど、葵衣に会いたい。

約束も、想いも、ぜんぶ。

忘れないでって、伝えたい。