「もう、嘘はやめよう」


たくさん嘘を吐いて、疲れたでしょう。

唇は擦り切れて、舌の根には苦味が滲んで、心は削れていったはずだ。


わたしも苦しかった。

葵衣も苦しかった。


お互いのためにお互いを傷付けることは、プラスマイナスゼロのように見えて、実は与えた痛みの反動まであるものだから、自分で自分を傷付けるよりも痛い。


「卒業したら、わたしこの家を出て行くから。そのときは、葵衣が戻ってきて」


ずっと、決めていたことだ。

何度も重ねては霞んで、散り散りになりかけてきたけれど、葵衣に伝える今日の日まで、原型は留めていた。


「お願い、葵衣……」


いつまでも返事がないことに急いて、けれど縋りつくことは出来ないから、葵衣を見上げた。

隠しているつもりなのか、そうすることがもう身体に染み付いているのかはわからないけれど、表情は読み取れない。

伏せられた瞳の曲線は見えるけれど、奥底までは見えない。


肩を揺さぶることも、顎を掴んで上向かせることも、身体ごと掻き抱くことも、出来ない。

だから、ただ待っていた。

葵衣が頷く、そのときを。


お互いの呼吸の音だけが聞こえるような、静かな夜だ。

葵衣の首に下がるネックレスがチャリ、と音を立てて揺れる。

さっき、日菜がくれたタンザナイトについていたものと同じ太さの、ゴールドのチェーン。

タンザナイトの石は日菜からのプレゼントだとはっきり言ってはいなかった。

ニットの下に潜り込む、チェーンの先が気になるけれど、それを問える雰囲気でないことはわかる。


「俺は……」


言いかけて、葵衣は続きを飲み込んだ。

深く俯いた葵衣が彷徨う手を伸ばすから、わたしは後ろに身を引く。

わたしが動かなければ触れていた位置で静止した手の行方が、どうか明るい未来でありますように、と心の中で祈ったとき。


「っ……」


葵衣の顔が一瞬、間近に迫ってすぐに見えなくなった。

肩口に埋められた額が熱くて、漏れ出す声を必死に飲み込もうとして、嗚咽が零れる。

きっと、まだ涙は溢れていない。


葵衣の髪の先がわたしの首筋を撫でる。

微かな痛みと、くすぐったさについ声を上げそうになるけれど、そんな状況でないことはわかってる。


「一瞬でいい、から……」


掠れた声が皮膚の上を流れて、耳に入り込む。

突き放すことも包むことも出来ずに床に触れた手を握り締める。

続く言葉が、葵衣を苦しめるものでないことだけを祈って、目を閉じる。


「俺の……」


ぼかすように、鮮明には聞き取れなかった言葉の意味に、一瞬思考も鼓動も、血液の循環さえも止まった気がした。

驚いて目を見開くけれど、相変わらず葵衣の顔は見えない。

身体の距離は離さないまま、葵衣の片手が近くに放り投げられていたカバンを掴む。


カサッと布の擦れる音がした。

それは、葵衣が掴んだものがカバンの布に擦れた音。


左半身を触れ合わせたまま、右側に出来た空間に葵衣の手が戻ってくる。

そのままカバンに入れていたせいか、端が丸くなった一枚の紙。


目を見張った。

くっ、と飲み込んだ息が喉に引っかかる。


「書いて。花奏」

「これ……なに……?」

「聞かないで。書いて」


口に出して言うのが憚られるものであることは、葵衣もわかっているのだろう。

こんなものは受理されない。

どうして、これを葵衣が持っているのかと冷静に考える部分がわたしに残っていてくれてよかった。

取りに行かなくても、インターネットからダウンロードして印刷が出来ることをすぐに思い出した。

既に半分が記入された、婚姻届。


一番現実味を帯びたそれが目の前にあるのに、受け入れることに時間がかかる。

急かされるかと思ったけれど、わたしが余計なことを口にしなければ、葵衣も黙って紙を持っているだけ。


これを記入したところで、受理されるどころか友紀さんに見せることも出来ないのに。

意味を成さないと知っていて、成さないからこそ、こういう形を選んだのかもしれない。


いつも、葵衣はわたしの想像の先をいってしまう。

思い付いたところで、こんなこと、わたしには出来ない。


本当に、ひどい人だ。

けれど、双子の妹であるわたしにこれを差し出すことにどれほどの勇気がいることか。


葵衣は強いから。

わたしだけが、葵衣の弱さになっている。

わたしの弱さを庇うから、葵衣を傷付ける。


「……書けない」


たったの一瞬であっても、虚偽であっても、不完全であっても。

わたしは葵衣の隣に自分の名前を書くことは出来ない。


この先の未来で、わたしがこの紙を目にすることはあるのだろうか。

たとえもう一度この紙面に触れる日が来たとして、そこに記されるのは葵衣の名前ではない。


「ごめんね」


嬉しい。

同じくらい、悲しい。

こんな気持ちで触れていい紙じゃないでしょう。


葵衣が握っている片端がくしゃりと潰される。

右肩上がりの、整った綺麗な文字は、わたしのために書かれたものだ。

それだけで、幸福の色が見えた気がした。


夢の終わりは呆気ない。

始まりの前には終わりがあって、終わりの後には始まりがあるというだけの、簡単な理屈。


「忘れよう……? 葵衣、ぜんぶ」


葵衣の持つ側の反対を二本指で挟み込み、思い切り引くと、歪んでいた部分から一瞬にして裂けた。

たとえばこれが、裂いても破れず、燃やしても尽きず、投げても放れない、そんな紙だったのなら、わたしは観念して葵衣の隣に名前を連ねたのかもしれないけれど、更に力を込めてふたつに裂けたのは所詮紙切れだ。

身一つでわたしが存在することだけで葵衣を縛っているのに、破いてしまえば拘束力を一切失くしてしまうようなものに頼りたくない。

葵衣の望む、唯一だとしても。