部屋に入ってしばらくは聞こえ続けていた音が不意に途切れる。

家にいないと思ってくれたのか、わたしが居留守を決め込んだことを察したのかはわからない。


何も感じないと思っていたのに、音が止んだことに安堵して、いつの間にか強ばっていた肩の力を抜く。

呼吸に合わせて、一点に集中していた力を分散させたのも束の間、聞こえるはずのない音が響いた。

決して大きくはない、むしろ、小さく抑えられているはずのその音が耳を劈き、反射的に身を固める。


自室のドアを凝視し、為す術もなく息を飲む。


無遠慮に、かける一言もなく、ドアノブが反転して開かれた。


「花奏」


どちらかだろうとは思ったけれど、部屋に入ってきたのは葵衣ではなく日菜だった。

その後ろを、葵衣と慶がリビングに向かっていく姿が見えた。


「入るよ」


居留守がバレたことも、今この家の中に四人が揃っていることも、日菜の穏やかな声音も、頭が拒否したがっている。

日菜が返事を待たずに部屋に踏み入ってきたあとに緩く首を振るけれど、出て行ってくれない。


「三人で待ってたんだよ。花奏から開けてくれるの」

「……さん、にん?」


二人の間違いだろう。

葵衣が後から来たのなら合点はいくけれど、三人で待っていたというのはおかしい。

今しがた、鍵を開けて入ってきたように、葵衣がいるのなら玄関で立ち往生する必要はない。


「慶の隣にいたから見えなかったのかな。隠れてたわけじゃないんだけどね」


日菜はそう言うけれど、ドアスコープから見えない位置にいたのなら、意図的かもしれない。

内側から見ることのない日菜とは違って、葵衣と慶は同じ造りの家に長年住んでいるのだから。


「日菜が連れてきたの? 葵衣のこと」

「ううん。花奏が下のインターホン押しても出なかったから、慶に入れてもらったんだけど、家に行ったら葵衣もいただけ。葵衣を連れてきたのは慶」


慶の家にいるなんて、一言も連絡を寄越さなかったくせに。

いつからいるのか知らないけれど、何時だろうと鍵を持っているのなら帰ってこられたはず。

今更、二人を引き連れて帰って来る意味がわからない。

ここは葵衣の家でもあるのだから、ひとりで帰って来ればいい。


「何しに来たの……?」


そんなつもりはないのに、つい不信感を隠しきれずに顔を強ばらせながら言うと、日菜は眉を下げて笑う。


「え? 花奏の誕生日だもん。お祝いしに来たんでしょ?」

「……うん」


言葉の裏を探ろうとするほど、自分を追い詰めるような気がして、素直に飲み込む。

突っ立ったままのわたしを座るように促し、そばに腰を下ろした日菜がコートのポケットから小さな袋を取り出す。

薄いピンクのラッピング袋は手のひらに収まる大きさで、差し出されるままに受け取る。


じっと日菜の顔を見ていると、早く開けなよ、と手元を覗き込まれた。


細いリボンを引き抜いて、袋を斜めに傾けると深い海の底にぺたりと押し付けて色を移したような、美しい青色の石が転がり落ちる。

チェーン付きの石を指先で掴んで、明かりに透かした。

青が部屋中に散らばって遊び回る。


「サファイア……?」

「まさか。タンザナイトって石」


青い石をサファイアにイコールするのは安直過ぎた。

タンザナイト、聞いたことはない。



「今日の誕生石なんだよ」

「へえ……」


月の石があるのは知っていたけれど、日の石まであるのか。

わたしはもちろん、日菜が鉱石に詳しいという話は聞いたことがないし、知らない。


手のひらの窪みに転がすと、光の加減で皮膚に青色が滲む。

ほんのりとあたたかいような気がするそれを握り締める。


「珍しいね、日菜がこういうのくれるって」


これまでの誕生日プレゼントは流行りのアイテムばかりで、バスボムだとかボディクリームだとか、消耗品が主だったから。

形に残るものを渡されたのは初めてだ。


何気なく言ったのに、日菜が顔を歪めて泣き出す前のような目を伏せる。

慌てて俯いた日菜の膝に涙の粒が落ちて、涙も歪んだ顔も見間違いではないことを確信する。


「日菜、泣かないで 」


狼狽しながら彷徨わせる手が日菜に行き着かない。


突然泣き出した理由が先の発言で、原因がわたしであることは疑いようがない。

何度、日菜を泣かせるのだろう、わたしは。

こんな手が日菜に触れたところで、無力なだけだ。


「慶、呼んでくる」


何も出来ないけれど、何もしないわけにはいかない。

気まずいだなんて小さな言い訳は、せめて自分の手が微力でも日菜を安心させられるようになってから口にするべきだと思うから、直ぐに部屋を出ようとした。


「行かないで…… 聞いて、花奏」


日菜の横を過ぎようとしたとき、弱い力で服の裾を掴まれた。

振り解いて部屋を出ることも出来たけれど、悲痛気な声に押し留められる。



「お節介は最後にするって言ったのに、やっぱり無理だった。花奏が一番苦しいことはわかってるのに、困らせて、一緒に背負うどころか増やしてるのはあたしだけど、でも……花奏に出来ること、探したい」


追い詰めて、追い込んで。

恋心なんてものがあるから、日菜にここまで言わせてしまう。


「ごめんね、日菜。ごめん……なさい」


繰り返す謝罪に痛みの色が見えたらいいのに。

心が痛いと泣いたって、人には見えない。


葵衣のためなら、日菜も慶も切り捨てられるって本気で思っていた。

それは、日菜と慶の優しさがわたしを傷付けるだけの話だったからだ。

今は、ちがう。


日菜の優しさが、想いが、葛藤が、日菜を苦しめる。

わたしがこれまで抱いてきたものの一部が日菜にまで侵食してしまって、それでもわたしのために出来ることを探してくれていた日菜を切り捨てることなんて、出来ない。

葵衣を諦めること、諦めないことと同じくらい、日菜に背中を向けてその声を聞かなかったことにすることは、出来ない。


「どうしたらいいの」


吐き出してはじめて、先の見えない道の真ん中で自分が迷い子のように蹲っていることに気付いた。

時間だけが確かに進んでいく世界で、いつかは葵衣と離れる日が来る。

その流れに身を任せて、切なさと悲しさに堪えていられるかどうかしか、残されていないとさえ思っていたのに。

今更、白紙の地図を落として泣き出しそうになる。

何も示してくれない地図だけれど、決して無意味ではなかった。

ボロボロと崩れて破れて、風に攫われた、我慢の意味。

手のひらに閉じ込めていた石が床に落ちて、カツンと乾いた音を立てる。


「ちゃんと言おうよ。大丈夫だから。葵衣がいるから、花奏は苦しいんでしょう? だったら、それは葵衣のものでもあるんだよ」

「言えない。これは、わたしだけが持っていればいいものだから」

「それを決めるのは花奏じゃない」


涙混じりの声なのに力強くて、攻防を続けるうちに語尾が掠れて小さくなっていくのはわたしの方だった。

ついに口を閉ざしてしまったわたしの手に、落としたタンザナイトを握らせて、日菜が真っ直ぐに視線を上げる。

こうして、視線を合わせるのは随分と久しぶりな気がした。

日菜に限らず、色んな人の目から逃れたかったから。