会いたいけれど、会いたくないという思いが心のどこかにあったのか、二十日の夜になっても帰ってこない葵衣に、少しだけホッとした。

予定通りに出張と被ってしまい、今日も明日も友紀さんはいない。

こんなときに帰って来られたら、わたしは葵衣にどこまで触れてしまうかわからない。


数日間、ずっと考えていた。

慶の言う通りにするのが一番良いのではないかって。


慶に言い返す言葉も見つからないまま、日菜に相談も出来ないまま、橋田くんと上手く話せないまま、時間だけが過ぎていく。


葵衣の誕生日に、何か物を用意しているわけではなかった。

帰って来るかどうかがわからないから、ではなくて、毎年こうなのだ。

好みはお互いに熟知しているはずだけれど、最後にプレゼントを渡し合ったのは、両親が生きていた頃。

誕生日の前後に欲しいものを聞いて、渡すことはたまにしていたけれど、今年はそれすらないのだろう。


今日、帰ってくるかどうかの確認さえも、葵衣に聞けなかった。


日付が変わる数分前になっても連絡ひとつ寄越さないなんて、敢えてそうしているにしても薄情過ぎる。

散々迷って作った豪勢な料理に、端からラップをしていく。

小さなベルの音がソファに置いていた携帯から響いたのは、ちょうど最後の皿にラップを被せたときだった。


わたしが自分で設定した、バースデーミュージック。

虚しくなるだけだから切っておこうと思っていたのに、後回しにしているうちに日付が変わってしまったらしい。


可愛らしい音楽が響き続ける中、手を止めて耳を澄ませる。

穏やかな音楽とは裏腹に、心の中には小波が立つ。


何が誕生日だ。

帰って来ないのならと、葵衣にはメッセージを送ることも電話もしなかった。

祝ってほしいわけじゃない。

祝いたいわけでもなかった。


以前よりも貪欲に葵衣を求めている。

知ってしまったからだろう。

葵衣の体温を。葵衣の、熱を。


身体を重ねたわけではないけれど、この間の一夜でわたしには十分だった。


葵衣がそこにいたら、わたしはきっとその背中や胸に触れたがってしまう。

突き放すどころか、しがみついて離れない。


もう、自分の力では葵衣を突き放すことすら、出来ない。

だから、葵衣の方から距離を置いて保っていてくれることがありがたい。


あと、一年と少し。

二度目はない、二度とない、残りの時間を今度こそ刻み付けていきたい。


幸い、誕生日を共に過ごすチャンスは来年にもある。


これからだ。

冬が過ぎて、春が来たら、葵衣と過ごす最後の一年が始まる。


寂しいのか、悲しいのか、安堵しているのか。

わたし自身、よくわかっていない。


慶や日菜があんなだから、葵衣に手を伸ばすことがそれほど悪いことではないように思えてしまうことが、たまにある。

けれど、わたし達はまだ十七歳になったばかりで、これまで生きてきた世界の狭さに無知であることを覚え、今立っている場所がたくさんのものに守られていることを知っていたって、いつかそれらは崩れていくし剥がれてしまう。


全力で止められたら、全力で反発して傷付け合うくせに、いっそ葵衣に伸ばす手を縛り付けてほしいほど、外的な何かに止めてほしかった。

そうでないともう、止まれない。


期限があるからと、不用意に葵衣に近付こうとしたせいだ。

気付いたときには、引き返せないところまで来ていた。

わたしが自分の力で出来ることは、これ以上一歩も進まずに留まること。

そうしていれば、いつかは葵衣の姿が見えなくなるだろう。

暗く深い闇の中に取り残されるのが、わたしだけだとしても、葵衣までを巻き込むことは出来ない。


決意を繰り返すたびに、脆くなる。

より強固にしているはずなのに、最初からヒビ割れているような、そんな感覚。

心のどこかにいつも、葵衣と生きる未来を望んでいるからだ。


葵衣の未来を閉ざすわけにはいかない。

これから知る、広い広い世界のすべてを欠けることなく葵衣に見させてあげるためには、この心は何よりも邪魔になる。


まだ鳴り続ける音楽を止め、ソファに顔を突っ伏す。

クッションを手繰り寄せて抱きしめると、少しだけ落ち着いた。


冷静になってようやく、どこから来たかもわからない焦燥に駆られていたことに気付く。

疲れきった身体も頭も、おかしくなっているらしい。


わたしは葵衣を好きになりたかったのではない。

むしろ、こんな気持ちはいらないとさえ思う。


どうしても、葵衣のことが好きで。

けれど、葵衣を好きでいたいわけではなくて。


いっそ、何に代えても、何を奪って犠牲にしてでも葵衣がほしいと言えたのなら、どれほど楽になるか。

口に出して言えないのは、そこまで気持ちが追い付いていない、というのも事実だった。


指先が触れる場所に置いてある携帯の電源を落とす。

どうせ、葵衣からの連絡はない。

あったとしても、メッセージで済ませられたら、わたしはまた自分でも面倒なくらいに落ち込んでしまう。


それなら、誰からのメッセージもメールも電話も受け取らない。

どこまでも葵衣が中心にいることを、葵衣に染まっているというのなら、立派な依存だと思う。


葵衣がずっと遠くへ行ってしまえばいい。

わたしが探して駆けて手を伸ばしても届かないくらい、遠くへ。


葵衣がいなくたって、生きていける。

葵衣がいるから、葵衣を求めてしまう。


あと、少し。

あと、一巡りだけだから。


痛むくらいならいくらでも我慢をする。

ひび割れるくらいなら何度でも庇ってあげる。


だから、溢れてこないで。

葵衣に届きたいって、望まないで。


振り回しているのはわたし自身だというのに、そんなエゴのすべてを引き受けて痛み叫ぶ心の在り処を手で押さえ込む。

そうすると、顔を出しかけた想いが引っ込んでいく気がするのだ。

あくまでも、気休めで気の所為なのだけれど。


リビングの電気を消さずに自室に戻る。

ひとつひとつの動作に気を張ってしまって、ふとした瞬間に緩んで瓦解してしまいそうだから、余計なことはしたくなかった。


レースカーテンだけが窓ガラスに沿って揺れ、月明かりが部屋の中を満たす。

淡くて、危ういほどに綺麗な目の前の光景に息を飲んだ。


足元から攫われるような恐怖感があって、窓に近付くとすぐにカーテンを引いた。

物の輪郭が見える程度に暗くなった部屋の中、長年過ごしてきた感覚だけでベッドに倒れ込む。


目を閉じて、また開くとき、二十二日の朝であればいいのに。

きっと、そんなことはなくて、わたしは目が覚めたあとの一日をどんな風に過ごせばいいのだろう。


ひとつだけ組み込まれてある予定は括弧付きで、わたしは行けない、行かないとはっきり言った。


葵衣のこと、慶のこと、日菜のこと、橋田くんのこと。

ひとつずつ除外していくのなら、橋田くんが一番だと思ってしまえる自分が、少しだけこわい。

曲がりなりにも恋人として半年共にいるのに、何の情も生まれていないのだから。