葵衣がもうひとつ嘘を吐いていたことを知ったのは、帰ってきた次の日に慶の家を訪ねたときだった。
慶の家の夕飯が遅いことは知っているから、六時過ぎにお土産を持って向かうと、とても間抜けな顔をされた。
「……え、花奏もくれんの」
「もしかして、葵衣にもらった?」
「ん、三箱な。花奏からのも入ってると思ってたんだけど、別って……なんか、悪いな。ありがとう」
差し出したまま宙ぶらりんになっていた紙袋を受け取り、中身を覗いた慶が目を見開く。
「多くね……?」
「あー……うん。ややこしいから何も聞かないで」
慶の前でなければ頭を抱えていたところだ。
葵衣がホテルを出て行った時間ではお土産屋さんはどこも開いていなかったはずで、あの小袋だけだと思っていたから、余分に買ったのに。
日菜は慶のような反応をしていなかったから、多分まだ葵衣に会っていないのだろう。
「じゃあ、またね」
玄関先でいつまでも話しているわけにはいかないから、早々に切り上げようとすると、慶が紙袋を置いて靴を突っ掛ける。
よろめいて前のめりに倒れてきそうになるから、そこはしっかりと避けておいた。
「いや、花奏!避けるなよ。受け止めろ」
「だって危ないし」
「俺がコンクリに顔面ぶつけるよりマシだろうが」
「慶の体重支えたらわたしが後頭部を壁にぶつけるでしょうよ」
こういうのは反射だから、避けたもの勝ちだ。
それに、反射神経に関してはわたしよりも慶の方が優れていることを知っているからこそ、下手に庇わずに避けたのであって、怪我をしてもいいと言っているわけではない。
「まあ…… 花奏に怪我させたら葵衣に合わす顔がないから、いいんだけど」
ぼそ、と呟かれた言葉を、以前なら聞き逃していた。
何を言っているんだ、と一蹴していた。
けれど、今ならわかる。
「葵衣のことが一番見えていないのはわたしだって言ってた意味、やっとわかったよ」
息を飲む音が、風の音に紛れて確かに聞こえた。
信じられないものを見るような目を向けられて、わたしも慶を見つめ返した。
「それで……言ったのか?」
「言わなかった」
言えなかった、ではない。
言えた、けれど、言わなかった。
「何でだよ!」
掴みかかる勢いで慶がわたしに詰め寄る。
本当は、握り締めた拳を振り上げたいはずなのに、筋がいくつも浮き出るほどに力を込めて堪えている。
「いい加減にしてくれよ」
「慶……」
そこまで慶が怒る理由がわからない。
わたしの味方をしてくれている、というだけではなくて、慶は葵衣の気持ちも知っている。
確信さえ持っていた。
慶は、わたしだけのことにここまで必死にはならない。
「俺は花奏の幼馴染みである前に、あいつの……葵衣の、親友なんだ」
わたし達ふたりの想いを知っていて、そう言ってくれる存在が、慶がいてくれて良かったと心底思う。
この状況で、そんなことを考えるのは場違いなのかもしれないけれど。
「中途半端に近付くくらいなら、もう離れろ」
慶だけは絶対に言わないと思っていたことを、はっきりと告げられる。
衝撃や悲しさが押し寄せるよりも先に、苦しげに歪む慶の顔を見たら、それが本心でないことはすぐにわかった。
人のための最善はいつも、自分の望むものにならない。
だからこそ、せめてその “ 最善 ” が最悪と名前のつくものにならないように、願う。
一番してはいけなかった形で慶を裏切ってしまった。
「どうして、本音ばかりを殺すんだ……」
直球でものを言う慶らしくない発言。
けれど、きっと、その通りだ。
自分で選んだことさえ、簡単に覆してしまえる。
「ごめん、慶」
項垂れる慶に背中を向けて、駆けた。
もう本当に、どうしようもない。
ふたつにひとつしか選べないのなら、わたしはいつだって葵衣を選ぶ。
その天秤にかけられたのが、葵衣と慶であっても、葵衣とわたしであっても。
エレベーターではなく階段を駆け下りて、何かから逃げるように家へと向かう。
本当に逃げたいものは、家にあるというのに。
誰もいないと分かりきった家の玄関先で膝から崩れ落ちる。
しっかりと地に足をつけているつもりで、ずっと浮かれていたのだろうか、わたしは。
近しい人ほど巻き込んでしまうのに、葵衣と過ごす時間に溺れて、挙句その瞬間があればいいとさえ考えていた。
軽率に近付くことが許される距離感ではないと知っていて、それでも触れたいと思ってしまう。
どこまで人を裏切れば、葵衣を諦められるだろう。
どこまで人を傷付けたら、過ちに気付くのだろう。
見て見ぬフリが得意だなんて言いたくない。
いつも、心が痛まないわけではないのだから。