もう、言わなくてもわかってる。

伝えなくても、伝わってる。


葵衣は、わたしの最愛の、彼は。

わたしと同じ想いを、その胸に秘めている。


言って、言ってよ、葵衣。

叫ばなくていい。

わたしだけ聞こえるように、囁いて。


そうしたら、わたしも同じ言葉で応えよう。


「花奏」


妙に熱っぽい声が、また近くなる。

葵衣がわたしの方を向いているのがわかる。


「花奏……」


名前を呼ぶばかりで、続く言葉は一向に出てこない。


言って、言って。

言ってほしい、けれど。


「言わないで」


なけなしの理性が押し止めてくれた。

葵衣が飲み込もうとしているのに、わたしが促すわけにはいかない。

かといって、待っているだけではいけない。

もう、この想いはわたしだけのものではなくなってしまっているから。


「ごめんね……」


何に対しての謝罪なのだろうか、これは。

誰に対してなのかもわからない。


「部屋、戻ろう……?」


冷えた足を伸ばして床につけると、足裏がひやりとした。

既に全身が冷えきっているせいで、靄がかかるようにぼんやりとした頭に大した刺激はないけれど、冷たさを通り越して痛みさえ感じる。


葵衣は何も言わなかった。

けれど、先に立ち上がったわたしが正面に回って手を差し出すと、迷い子のように瞳を揺らして、縋るように握り締める。

その手が離れてしまわないようにしっかりと握り、部屋へ導いた。


先の見えない道ではないから、こうして先頭を行けるだけだ。

一歩先さえも見えない、たとえばわたしと葵衣の未来が続く道だとしたら、わたしは葵衣の背に隠れて、自分の力では一歩も歩こうとしないだろう。


部屋に入ってすぐ、葵衣の手を解いた。

ドア前で立ち尽くす葵衣を放って、片方の布団を壁際へ寄せる。

それから、一歩も動こうとしない葵衣を再び引っ張りに行く。


「ほら、葵衣が真ん中でいいから。早く入って」


暖房は付けっぱなしにしていたから部屋の中は寒くないけれど、冷えた身体はすぐに温もりはしない。


葵衣の肩を押さえると、力が抜けたように布団の上に膝をつくから、わたしも肩に手を置いたまま腰を折る。

ずり落ちたコートを拾い上げて一旦離れようとすると、強い力で手首を掴まれた。


「花奏」

「もう…… なあに、葵衣」


その先を紡げないことをわかっていて、優しく問いかけると、思っていた通りに口を噤む。

それでも手首を握る力を緩めてはくれないから、諦めてコートを枕元に放る。

葵衣の正面に座り、真っ直ぐに視線を合わせた。


わたしの手首を掴んだままの手から、一瞬力が抜けた。

その隙に腕ごと引っ込めると同時に、葵衣の顔が近付いて、肩にぽすんと落ちる。

腕はしっかりと背中に回されているし、ゼロ距離を更に詰めようと引き寄せられて苦しいほど。


「どうしたの」


返事なんてない。

出来っこないんだ。

わたしだって、単調なセリフばかりを繰り返す。


気付いたときには、葵衣と共に布団に倒れ込んでいた。

嘘だ。本当は、葵衣の身体が傾いていくのに合わせて、わたしから倒れ込んだ。

どちらかが覆い被さるわけではなく、抱き締められたまま、横たわったあと、わたしは身体を丸めて葵衣の胸に顔を埋めた。

心臓の音が肌に伝わって、わたしの心臓も同調したがっているのに、同じペースに落ち着かない。



こんなにも穏やかな夜が訪れるとは思わなかった。

ふたりで同じ部屋にいること、同じ布団で眠ること。

いっそ、ずっと閉じこもっていたい。

もっと、ずっと眠り続けたい。


そのうち、葵衣の口からは寝息が零れ始める。

眠れずに朝を迎えるのではないかと思っていたから、こんな状況とはいえ、葵衣が寝付いてくれてよかった。

葵衣の鼓動と寝息を満更でもなく甘受していると、眠気の霧がぼんやりと頭にかかり始めて、一度腕から抜け出そうと試みるけれど、無理に剥がすと起こしてしまうことを踏んで、早々に諦めた。


掛け布団も下敷きにしてしまっているせいで、かけるものが何もない。

わたしの布団は壁の隅に追いやっているから、手を伸ばしても届かない。

葵衣に頭から足先までを包まれているわたしはいいけれど、葵衣の背中は寒いだろう。

彷徨わせた指先に触れた枕元のコートを引き寄せて、届く範囲で被せると、葵衣が微かに身じろぐ。

目を覚ましはしないけれど、小さく唸る声が聞こえて、背中を優しく摩る。

そうすると、少しは安心出来ると思ったから。

束の間で、偽りの安心だとしても。


ようやく葵衣と同じペースで鼓動を刻み始めた心臓の音を感じながら、顔ごと押し当てたわたしのものでない鼓動を耳に流し込む。

メトロノームはタイミングをズラして始動させても、いずれは同期するという話を、随分と前に聞いた。

揃っては歪み、また揃う。

それがなぜだかとても、蠱惑的なものに思える。

メトロノームが振るう音も、アナログ時計の針が動く音も、実際には取るに足らないのだけれど。


もう、何も考えたくなかった。

明日のことも、昨日のことも、これからのことも。

わたしを包む温もりひとつあれば、それでいいと思えるのに、朝になれば葵衣は振り向きもせずに行ってしまうのだろう。


悲しいわけじゃない。

だってそれは、正しい選択だから。

けれど、苦しい。

それは、こんなにも穏やかで優しい時間と温もりが、今この瞬間で最後かもしれないから。


同じ気持ちでいるとわかっても、伝えることは出来なかった。

度を過ぎた欲求はボロボロと零すのに、その一言だけは是が非でも避けようとする自分自身を褒めてやりたいくらいだ。


目が覚めたら、葵衣はいない。

目が覚めたときに葵衣がいたら、わたしはそっと見なかったフリをしなければいけない。


旋毛を押し付けるように葵衣の胸に縋る。

体温の境目が曖昧になって、このまま溶け合いたいとさえ思う。


夜明けが葵衣を迎えに来る前に、光の届かない場所に隠してしまいたい。

けれど、どうしたって、わたしは葵衣に明るい空の下にいてほしい。

わたしがその妨げになっているのだとしても。


背を丸めなくても葵衣にすっぽりと包まれてしまえることに甘えて、月明かりとそのうち昇る朝日から逃れるように一ミリの隙間もないほどにくっつく。

そうして、目を閉じた。

優しい鼓動の音と、穏やかな寝息と、どこからともなく忍び寄る不安の気配を感じながら、眠りに就く。


明け方、葵衣がわたしから離れていく前に、一瞬だったけれど、何かを囁いた。

ほとんど吐息と同化していて、はっきりと言葉にはならなかったけれど、ぼんやりとさえも聞いてはいけないような気がして、シーツに顔を擦り寄せる音でかき消した。


物音を立てずに、荷物だけを掴んで葵衣が出ていったあと、遮るものをなくして容赦なく射し込んでくる陽光を細目で睨みつける。

ふわりとかけられたコートに残る葵衣の残り香を肺いっぱいに吸い込む。

ずっと微睡みの中にいたような感覚で、眠った気はしないけれど、この明るい中で寝直す気にもなれずに、重い体を起こして浴室へと向かう。

布団の上に落ちたコートを踏みつけて。


空っぽの浴槽を見ると、雨の日に葵衣がお湯を張っていてくれたことを思い出した。


熱いお湯を頭から被り、両手で顔を覆う。

お湯よりも熱い雫が瞳から溢れ出す。


幸いなのは、葵衣の前で泣かなかったことだけ。


「言わないで……」


わたしは葵衣が眠っている間に伝えたりしなかったのに、わたしが眠っているのか起きているのかも確認せずに、切なげな声で、あんなことを言わないで。


壁に取り付けられた鏡に薄らと映るわたしの瞳は、昨夜の葵衣の瞳のように揺れていた。

もしかしたらずっと、わたしは葵衣と同じ目をしていたのかもしれない。


浴室を出て備え付けのドライヤーを窓際のコンセントに繋ぐ。

時刻は八時前。

始発はもっと早いはずだから、夜明け前に出て行くことも出来たのに、葵衣はそうしなかった。

単に少しでも長く眠っていたかったわけではないだろう。

少しでも長く、葵衣といたいというわたしの気持ちを見透かしたのか、それとも葵衣がわたしと離れがたかったのかは、考えないことにした。


頭上からの陽光は眩しいけれど、僅かに窓を開くと肌を突き刺すような風が一気に入り込む。

鼻腔に残る葵衣の香りを消すように、冷たい空気を吸い込むと、鼻や喉がキリリと痛む。


ドライヤーの温風に外からの冷風が混ざり合って、すぐに乾いた髪を両手で背中に払うと、ようやく目が覚め切った。


荷物をまとめて、自分のコートはボストンバッグに詰め込む。

代わりに、葵衣のコートを脇に抱えた。


部屋を出る間際、ぴしりと四方の揃った布団と、潰れた掛け布団を見遣り、苦笑が零れる。


夢のような、夜だった。

間違いなく、この旅行の中で最高の時間だった。


襖に描かれた松の絵を最後にじっと見つめるけれど、やっぱり約束は思い出せない。

けれど、なぜか漠然と、その約束は忘れたままでいる方が良いような気がした。