葵衣は? と聞こうとして、やめた。
望む答えであっても、望まない答えであっても、わたしは葵衣の未来を心から応援は出来ない。
そこにわたしがいたとしても、いなかったとしても、そのどちらも、喜ぶことが出来ない。
三十分ほどして、友紀さんが食事を誘いに来た。
二階はフロア全体が六分割されていて、友紀さんはビュッフェスタイルの方へ行ってしまった。
朝食は三人で摂ることにして、夜は各々自由にしようということらしい。
メニューブックを見て周り、あっちにしようかこっちにしようか迷っている間、葵衣はわたしについて来るから、どこがいいか聞いてみると、どこでもいいと返してきた。
「鍋かなあ……ねえ、葵衣も鍋でいい?」
勝手について来ているのだから、聞く必要なんてないかと思うのだけれど。
「しゃぶしゃぶ以外にもあんの?」
「すき焼きもあるし。あ、ほら。カニもあるよ」
メニューブックをパラパラと捲って、わたしはもうここにしようと決めた。
カニか、肉か、とぶつぶつ言っている葵衣を置いて中に入ると、すぐに追いかけてきた。
どうせ、別のところへ行く気はなかったのだろう。
案内された奥の個室は掘りごたつ席になっていて、いつの間にか並んでいた葵衣の先を越して足を下ろす。
「あったかあ……こういうの、居酒屋以外でもあるんだね」
「鍋食ってたら暑くなるぞ、絶対」
コートは部屋に置いてきたせいで、ここに来るまでに冷えてしまった身体を縮こまらせてテーブルの下の足を伸ばすと、葵衣の足首辺りにぶつかる。
真正面に座らずに少しズレて座ってくれたら、お互いに足を伸ばせるのに、わたしも葵衣も動かない。
注文を取りに来た女将さんに注文を済ませ、湯気を立てるほうじ茶の湯のみを両手で包む。
「お肉じゃなくてよかったの?」
「こんなときじゃないとカニなんか食わないだろ。肉ならお前のもらえばいい」
「わたしもカニ食べたい」
「わかってるよ」
半分こをする気満々で料理を待つ。
仕切りがあるから、他に遠慮をすることもない。
行燈の仄かな明かりが心地いい。
足元や背中のぬくもりも相まって、眠くなってくる。
ふと向けた視線の先に置かれたパーティションには松の模様が彫られていて、部屋の襖にも杉が描かれていたことを思い出す。
「懐かしいなあ……」
「何だよ、突然」
「ほら、覚えてる? 昔大きい杉の木の下で何か約束したこと。わたしはあんまり覚えてないんだけど」
子ども同士の約束だし、覚えていなくて当然だと思っていた。
だから、何でもないことのように言ったのに、葵衣が僅かに瞳を揺らすのを見てしまう。
「葵衣……?」
「覚えてない。そんなこと、あったっけな」
嘘だ。絶対、覚えてる。
そんなに大事な約束をしたのだろうか。
忘れてはいけないようなことを。
幼かったわたし達が、一回りも成長した今になっても必要な約束の心当たりがない。
葵衣はそれきり口を噤んで話そうとしないから、パーティションの杉を一心に見つめて、約束を思い出そうとするけれど、何も掴めない。
そうしているうちに料理が運ばれ、上の空で説明を聞く。
鍋が滾る音、カニの殻が暴れる音、火が燃え上がる音、すべての音が、今は余計な情報になる。
「今思い出さなくても、いつか絶対に思い出すから、そんなに考え込むなよ」
真っ赤なカニの足を持ち上げて、小皿に載せたかと思うと、わたしの料理の脇に置く。
わたしも皿に盛られた肉をいくつか小皿に載せて葵衣に差し出そうとして、手を引っ込めた。
箸で持ち上げた肉を鍋の中に潜らせて、底の深い皿に入れ替える。
ポン酢をかけようとすると、葵衣に止められたけれど。
「そこはゴマダレだろ」
「は? ポン酢でしょ。何言ってんの」
「お前の好みは知らない。勝手にかけんなって」
すっと伸びてきた手が皿とゴマダレの瓶をさらっていく。
器用に指先で皿を持ち、丸めた手のひらで瓶を押さえるから、落とすんじゃないとヒヤヒヤした。
お互いに自分の料理ではなくもらった方を食べる。
せっかくあつあつなのに、冷えてしまうといけない。
「美味しい……!」
「美味い」
一口では入りきらないほど大きなカニの足をポン酢につけて食べる。
ゴマダレに浸すというよりも、僅かにつけただけの肉を一口に頬張る葵衣とほぼ同時に言った。
顔を見合わせて、笑い合う。
やっと自分の料理を口に運び、舌鼓を打つ。
「こっちも美味しい」
「やっぱ、カニだな。でもそっちも捨てがたい」
「いっぱいあるから食べなよ」
こちらに寄っていた鍋を真ん中に動かして、肉の皿も葵衣へ近付ける。
葵衣も同じようにして、カニの足をいくつかわたしの方へと向ける。
自分が頼んだものよりもお互いの料理に手を伸ばしてしまっていることに気付いたけれど、人が食べていると美味しそうに見えるのだから仕方がない。
遠慮しろと言われたのならそうするけれど、葵衣も黙々とわたしの料理をつまんでいるから、何本目かのカニの足を勢いよく引き抜いて口に頬張る。
飲み込むたびに、自然と口角が上がって頬が緩む。
ふと顔を上げると、箸を置いた葵衣がじっとわたしを見ていた。
「なに?」
答えないのではなくて、何も聞こえていないように、葵衣はわたしを見ている。
次第に、温もった身体が別の熱を持つ。
いけない。
綺麗なふたつのガラス玉を独占しているだなんて、考えてはいけない。
わかっているのに、その瞳から逃れられない。
逃れたくない。
見つめ合っているわけではないのに、お互いの目にはお互いだけが映っている。
この時間がずっと続けばいい。
余計な言葉はいらない。
ただ、葵衣だけを見ていられる、この時間が。
そう思ったのも束の間、瞬きをした隙に葵衣は視線を別のところへ向けていた。
何もない壁をぼうっと見つめる葵衣を、今度はわたしが見つめ続けた。
「残すならもらうけど」
鍋の中に揺蕩う肉をいつの間にか持っていた箸でつかみ、わたしの小皿に残っていたポン酢に浸してその口へと運んでいく。
目が離せなかった。
僅かに光る唇に触れたいと、そんな欲求が込み上げて、両手を顔に当てた。
「だから言っただろ。鍋食ったら暑くなるって」
見当違いも甚だしいな。
きっと、わざと言っているのだろう。
今度こそ葵衣が箸を置いて湯呑みをぐっと呷るのを見届け、先に立ち上がる。
受付に立つ女将さんに一声かけて通路に出ると、店の中との寒暖差に身震いをする。
葵衣を置いて先に行ってしまおうと思ったけれど、エレベーターを待っている間に隣に並ぶことになる。
短い沈黙を破ったのはわたしでも葵衣でもなく、エレベーターの開閉音。
気まずくさせたのは葵衣なのに、平気な顔をして隣に立つのが気に食わない。
部屋のある階で降りて先に行こうとすると、エレベーターと通路床の狭間を跨ぎかけたわたしの腕を葵衣が握る。
「なに」
どうせ答えないのはわかっていて、不機嫌さを隠さずぶっきらぼうに告げると、少しだけ動揺の色を見せる。
その動揺さえ、わたしの態度のせいなのか、腕の熱のせいなのかが見抜けない。
触れられた部分から広がる熱が、どれだけ葵衣に伝わっているのかは、わからないけれど。
「……約束、本当に覚えてねえの?」
苦し紛れに聞くにしても、もっと他にあるでしょう。
さっき自分で埋めたものをもう掘り返してしまうなんて、あんまりだ。
「覚えてない」
軽く振り払ったつもりが、思いのほか強く振りかぶってしまい、いつかのように葵衣の手を弾く。
葵衣がどんな顔をしているのか。
簡単に想像がついてしまうから、逃げるように駆け出した。
歩いていては追いつかれてしまう。
今なら、走って追いかけては来ないだろう。
ルームキーを翳してドアが開いていく時間さえも惜しくて、手動を加えてわたしひとりが入れるスペースを作りさっさと中へ入ると、来た時には敷かれていなかった布団が二組、畳に並べられていた。
月明かりと行燈の形をした間接照明にぼんやりと照らされる室内で、一際目立つ襖の前に座り込む。
「約束……」
そっと指先を滑らせて頭を空っぽにしても、記憶の海は凪いだまま、小波さえ立てない。
そのうち、いつまで経っても葵衣が戻ってこないことに気が向いてしまい、結局何も掴めなかった。