次の日の放課後、すぐには帰ろうとせずに席に座ったままのわたしを昨日と同様に何か言いたげな目で橋田くんが見下ろす。

顔を上げて横を見ると、視線がかち合う。

まだ教室に残っているクラスメイトのひとりに「何見つめ合ってんだよー!」と茶化されるけれど、わたしも橋田くんも反応をしない。


「あんた、余計なこと言わないの!」

「だ、だってさあ……!ふたり、喧嘩でもしたの?」

「知るわけないでしょ!」


全部、丸聞こえなんだよなあ。

睨み合っているわけじゃないから、喧嘩に見えるかと言われたらそうではないのだろう。


「何でもないよー」


パッと先に視線を外して、こそこそと話しているつもりのふたりに向かって言うと、ビクッと肩を跳ねさせたあと、にへらと笑って手を振られた。

どういう意味なんだ、それは。


「花奏ちゃん、今日一緒に帰りませんか」


振り絞ったような声が落ちてきて、もう一度橋田くんを見上げる。

強ばった顔で、ちゃんと名前で呼べているのに、敬語になってしまっている。


「いいよ。わたしも話したいこと、あるから」


多分、わたしも橋田くんと同じような顔をしている。

重苦しい空気がクラスメイトに伝わってしまう前に、荷物と、ついでに橋田くんの手を引っ掴んで教室を出た。

わたしに手を引かれるまま、階段に差し掛かったところで、橋田くんが足を止める。

一歩前に行ってしまった弾みで、手が解けた。


「ここで話したい」

「……人、通るよ」

「うん、でもここがいい」


わたしにはここでないといけない理由がない。

さっきのクラスメイトや他クラスの人達が通るかもしれないことを考えると、ここにいない方がいいのは確かだ。

橋田くんも、ここでないといけない理由を持っていないような気がしたから、あえて聞かないでおく。


長居するつもりはないのか、橋田くんから口を開いてくれた。


「色々、考えたんだけど」


続く言葉がどんなものであっても、受け入れる準備はしていた。

たとえば、別れ。

たとえば、今以上の距離。

どちらも、本心では拒絶したい。


「やっぱり俺は花奏ちゃんがいい」


思い出も何もないこの場所が “ いい ” と言った響きと変わらないのに、なぜか無性に橋田くんに手を伸ばしたくなった。

その貪欲さに卑しさはなく、手で触れてもきっと痛くない。

ずっと、触れるものすべてが棘や針を持っていたから、腫れた指先は痛くて仕方がない。


トン、と指先が触れたのは、橋田くんの肩口。


「そんなに優しいと、いつか損するよ」

「そうなったとき、花奏ちゃんは俺を放っておけないでしょう」

「ひどいなあ……優しい人は優しいフリまで出来ちゃうんだね」


クラスメイトで、今は恋人で。

そんな橋田くんを守りたい、支えたいって気持ちはある。

けれど、わたしは胸を痛ませながら、涙を流しながら、簡単に人に背中を向けられる。


「好きな、人がいるの」


橋田くんには言わないつもりだったのにな。

守りたいと言いながら、傷付けるのはわたし。

支えたいと言いながら、よろめかせるのはわたし。


「だけど、わたしはその人をいつか、好きだった人にしなきゃいけない」


ずっと好きでいてはいけない。

手が二度と届かない場所に行ってしまったとしても、抱えて生きていくことは出来ない。

きっと、どこかにいる葵衣を探してしまう。


「その人も……」


確信なんて、ない。

けれど、たぶん、そう。


「わたしを、好きだった人にしなきゃいけない」


人の気持ちに踏み込んで、同じ気持ちであることを知って、どうして、喜ばずに恨まなければいけないの。


世界は残酷だ。

そんな言葉が脳裏を掠めていった。

いつも、何か、大事なものを攫っていく。

そのくせ、道端に落として行ってしまう。

わたしが、ボロボロに砕けて割れたそれを何度でも拾ってしまうことをわかっていて、繰り返し攫っていくのなら。

いっそもう、指の隙間から零れ落ちてしまうくらい細かい粒子になってしまえばいいのに。

けれど、目に見えない粒になってしまったって、わたしは思い切り息を吸って飲み込んでしまうのだろう。


ずっと黙っていた橋田くんが、いつの間にか腕の辺りまで滑り落ちていたわたしの手を取る。


「花奏ちゃんは、その人のことがすごく好きなんだよ」

「……嫌いになりたいくらい、すき」

「花奏ちゃんが、好きだったって言えるようにならなきゃいけないと思うのなら、それが正解なんだろうね」


本当に、そう思っているのか。

正解の丸をつける人がいないから、わたしはいくらでも答えをすり替えられるし、三角をつけることも出来る。

そんな曖昧さだから、迷ってしまう。


「言わないの?」

「言えないよ」

「言いたくないの?」

「……言えない」


その理由が、恥ずかしいだとか、他に恋人がいるからだとか、そんなことだったらどれほどいいか。

自棄になって、嫌になって、投げ出したくなっても、葵衣に伝えることだけは考えられない。


言いたいよ。言えるなら。

聞きたいよ。聞けるなら。