「それが、本当なら……」


言いかけて、葵衣は唇を噛み締めた。

丸め込んだ唇には歯が食い込んで痛いはずなのに、苦しそうな顔は、きっとそのせいではない。


「いや、何でもない」


迷わずに、悩まずに、もうお互いに踏み込んではいけないところまで足を出さなければ、わたし達は以前のように戻れない。

心の奥まで踏み入ったって、戻れるとは限らないけれど、何も聞かずに言わずにいるという選択肢はわたしにはない。


思えば、いつも葵衣はわたしの心の手前で引き返していた。

何かから逃げるように、目を逸らすように。


無防備な部分を晒して待っていても、葵衣は決してわたしには触れない。

だったら、わたしから触れてやる。


「日菜とはまだ続いてる?」


驚いたことに、わたしの声はもう震えていなかった。

むしろ、清々しいほどに真っ直ぐな声音だ。


「日菜のはフリだよ」


言い淀むと思ったのに、あまりにも呆気なくネタばらしをされる。

日菜も葵衣も、お互いに本気でないことはわたしや慶がよくわかっていたから、フリだと言われても納得が出来る。


「……どうして、教えてくれるの?」


さっきから、葵衣の言動に疑問を抱くのではなく、躊躇いもなく答えられることに戸惑ってしまう。


「花奏が俺のことを信じられるように」

「わたしに信じてもらえるように、じゃなくて?」

「信じられなくさせたのは、俺だろ」


二人揃って、同じことを考えていたらしい。

双子らしいところなんてひとつもないと思っていたけれど、足元を見てみたらいくつかはちゃんと散らばっていて、見ないフリをしたいときには足裏に隠せるから、とても都合が良い。


「それを言うなら、葵衣を帰ってこられなくさせたの、わたしだよ」

「いや。帰らないって決めたのは俺だから」

「ほら、帰ってくる気ないんじゃん」


聞きたくなかったことのはずなのに、なぜか笑って受け入れてしまう。


葵衣は、突然ケラケラと馬鹿笑いを始めたわたしに戸惑っているみたいだ。

そこは、わけがわからなくてもつられたフリをして笑えばいいんだよ。

どうせ、笑い止む頃には、何を話してたっけ?と惚けて流せるような内容ではないのだから。

少しくらいはこうやって、場の空気というやつを和ませないとやってられない。


「わたし、頑張らなかったんだけどね」


上手に話すことも出来ないのか、わたしは。

この期に及んで、と嘘を吐くたびに思う。

どこまで落ちていくのだろう。

底の見えない闇の中を、たったひとりで落ちていくのは怖いけれど、それ以上に誰かを巻き込むことがこわい。


「頑張ってみようと思う」


多分、本人が聞いたら『 だから、そういうのは頑張ることじゃないって 』と苦い顔をされそうだけれど。


「そうか」


何のことかわかっていないくせに、細めた目に映ろうとするわたしの輪郭さえも遮るようにくっついた葵衣の上瞼と下瞼をこじ開けてやりたい。

わたしのことをその目に焼き付けろ、と言ってやりたい。

両手を葵衣の目元に伸ばそうとしたけれど、わたしの手が動き出すよりも先に葵衣が瞼を開く。



「なら、それは信じないでいようか」

「どっちも信じてよ」

「お前、言ってることめちゃくちゃなんだよ」


目を糸のように細めて笑う。

葵衣は身内だとか兄妹だとか好きな人だとか、そういう贔屓目を省いてもなかなかにハンサムだけれど、笑った顔だけは減点ポイントにしたい。

目、細すぎるんだよ。あと、唇が右上がり。


「そういえば、旅行の話、聞いた?」

「一泊二日で温泉街だっけ。友紀さんが知ってるところなんだよね」


ひとしきり笑った葵衣が、さらりと話を摩り替える。

まだ終わっていないのだけれど、とは言わない。

慶や日菜の言う通り、話はした。

あとはわたし達の好きにしていいだろう。


「俺、休み取ったって姉さんに言っといて。誕生日にも休み取ってるから、前後は働き詰めだけど」

「自分で言いなよ」

「わざわざ送れってか。いいだろ、花奏が顔合わせたときに言ってくれたら」

「忘れないようにわたしに送っといて」

「意味ねえよ、ばーか」


わざとこのくだらない言い合いを引き延ばそうとしていることに気付いたのか、わたしの額を軽く小突いて切り上げようとする。

どうにかして引き留めたいけれど、引き留める理由が思いつかない。


わたし達は兄妹だから。

いかないで、って言うためにも理由が必要なのだ。

寂しいから、って言うと、それにも理由が必要。

それ以上になると、約分し終えたみたいに何も言えなくなってしまう。


「じゃあな」


葵衣はひらりと手を振って、自分の部屋にも寄らずに玄関に向かって行ってしまう。

わたしの部屋のドアは全開にしたまま。

追いかけてきてほしいのかって勘違いしそうになる。

それを狙っていたとして、素直にかかるわけにはいかない。


部屋のドアよりも重い玄関のドアが閉まる音のあと、ガチャンと金属と金属がぶつかり合う音がした。

丁寧に鍵までかけて、わたしが追いかけて来られないようにしたのだろう。

砦や壁を建てるのはいつも葵衣だ。


薄々、気付いていることがある。

けれど、それは、それだけは。

薄くなっていく膜を吹いて払ってはいけない。

強固な鍵はとっくに壊れていて、触れても落として中身が出てきてしまいそうなそれを、嘘や言い訳で幾重にも守って抱えていなきゃいけない。

どこかに捨てられる日まで。

もしくは、取り出した中身をわたしが抱えて泣かずにいられる日まで。

そのどちらの日も、永遠に訪れないことを願いたい。