「今日は帰ってくるよ、きっと」

「来ないと思うけどなあ……」

「余計なお世話だってわかってたけど、ごめんね」


何のことなのかわからなくて目を瞬くと、日菜は制服のポケットから携帯を取り出して操作し、わたしに誰かとのメッセージのやり取りを見せる。

【 葵衣 】と記された相手には、今日のお昼頃にメッセージが送られている。

葵衣はそれに対して、わかった、と一言だけの返信を寄越していた。


「これって」

「半分嘘。だから、あたしは帰るね」

「……っ、待って。嘘……」

「もう、最後にするから。お節介、焼かせてよ」


携帯をポケットに仕舞った日菜が、呆然とするわたしを置いて立ち上がる。

ちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がした。


「隠してもいいけど、葵衣に嘘だけは吐かないで」


潜めることも誇張することもない足音が無情にもこの部屋に向かって来る。

きちんと閉め切らずにいたドアがノックの弾みで僅かに開く。


わたしを見下ろしていた日菜が返事を待たずにドアの方へと近付いて、葵衣とすれ違う。

葵衣が日菜を制止する戸惑い混じりの声が聞こえた直後、日菜の震えた声が『 もう泣かせないで 』と紡ぐのを聞いた。


目元に残る涙の跡を葵衣に見せたくなくて、制服の袖で雑に拭う。

そんなことをする方が赤くなってしまうことはわかっていたし、日菜が余計なことを言うから泣いていたことは葵衣にバレてしまっている。

それに、次は紺色の袖の涙を吸った部分が濃く変色していることを隠さなきゃいけなくて、腕を腹部に回し力をこめる。

まるで、腹痛を訴えているようだけれど、痛いのはお腹じゃない。


日菜が出て行く音と、葵衣がわたしのそばに膝をつく衣擦れの音が重なる。


くっ、と顎に指をかけて上向かせられると、抵抗する間もなく葵衣に顔面を曝すことになる。


「目、擦っただろ」


久しぶりに聞いた葵衣の声。

呆れているだけ。怒ってはいない。

長い指先は、顎を支えていても別の指が目元に届く。

熱いそこに触れられると、痺れるような痛みが走った。


「鼻も真っ赤」


親指で鼻の先を弾かれて、反射的にぎゅっと目を瞑る。

小刻みに震える瞼を押し開くと、残っていた涙の膜が取れたらしく、至近距離にいることもあって葵衣の顔がよく見えた。


「……なんで泣くんだよ、花奏」


妹に触れたいなんて思わない。

そう前に言っていたけれど、今のこの状況では、妹だからこそ触れているのだろう。

わたしだって、葵衣としての涙はもちろん、双子の兄の涙なんて見たくない。

理由がわからない涙は、流している本人よりも周りの人間を不安にさせるものだと思うから。



【 花奏と三人で話したいことがあるから、夕方には自分の家に帰って 】


日菜からのメッセージはこうだ。

それなのに、帰ってきたらわたしは泣いているし、日菜は帰ってしまうし、わけがわからないはずなのに、一番に駆け寄って触れてくれた。


「あいつと何かあったのか?」


“ あいつ ”

葵衣はもう、橋田くんの名前を忘れたのだろうか。

わたしは、中学生の頃に葵衣と付き合っていたあの女の子の名前を今でも覚えている。

忘れたくても、忘れられない。


「それとも、俺のせい?」


視線はぶつかっているのに、頷くことも声を発することもしないわたしを葵衣は急かさない。

正解が出てきたら、何かしらの反応を示すと思っているのだろうけれど、上手くいくはずがない。

だって、何で泣いていたのか、わたしにも理由がわからない。


双子だからという理由で葵衣の察しが良くないことが、今は救いだった。

言葉にしなくても伝わってしまうなんてことがあると困る想いばかりを抱えているのだから。


「葵衣こそ……どうして帰ってこないの」


喉から出た声は自分の発したものと思えないくらいに低くて、心の声が漏れ出したみたいだ。

しっかりと葵衣の耳に届いてしまっているけれど。


「ずっと、どこにいたの?」

「先輩の家。友紀さんには伝えてるし、花奏が心配する必要はないよ」


どこにいて、誰といるかを心配しているんじゃない。

帰ってこない理由を知りたい。

けれど、心配する必要はない、という言葉には線引きの意味が込められている気がした。

ここで言いたいことや聞きたいことをぐっと飲み込んでしまうからいけないんだ。


わたしの顎を支えていた指が離れていっても、葵衣を見つめ続ける。


「信じても、信じなくてもいいよ」


やっぱり、すべてを問い質したって納得は出来ないだろうから、言いたいことだけを伝えることにした。

本当のことを話そうとしているのに、そんな前置きをしてしまう自分に心底嫌気がさすけれど、一度奥歯を噛み締めて口を開く。


「わたしは慶のことも橋田くんのことも、好きじゃない」


初めて、葵衣に向かって『 好き 』の二文字を告げた。

喉が乾き切るほど緊張したのに、葵衣宛の言葉にはなれないことが、悔しくて、悲しくて、虚しくて。

まるで精一杯に嘘を吐いたみたい。


全部、全部、本当のことなんだ。

信じなくてもいいなんて、嘘だから。

わたしのことだけ、信じていて。