「あのときは、あたしもすごくびっくりして……ショックで、ちゃんと話もせずに勝手なことしちゃったよね。花奏の気持ちも葵衣の気持ちも無視して、ただ花奏を止めなきゃって思った」


日菜の考えていることが読めないながらに、優しさ故の行動だってことだけはわかっていた。


「葵衣がどうして頷いたのか、気になってたでしょ? 花奏は慶のことが好きなんだよって言ったの。信じてくれないと思ったけど、それしか考えつかなくて。花奏が慶と会ってたこと、葵衣も知ってたから」

「わたし、最低じゃん、それ」


慶を好きだと聞かされていたのに、橋田くんと付き合うことになったなんて、五ヶ月前の葵衣はわたしが思うよりも困惑して怒っていただろう。

葵衣は慶と日菜が両想いであることを知っている。

それを差し置いて、日菜に身を引かせた上に別の人と付き合う、そんなことをわたしがすると信じる葵衣もどうかしてる。


「葵衣が花奏を誤解してでも、止めたかった。兄妹に戻ってほしい。今もあたしはそれだけを願ってる」


やっぱり、日菜の方こそずっと誤解をしている。

言葉だけでは信じてもらえないかもしれないけれど、この先の未来で証明される、わたしの決意を日菜には話しておこう。


「葵衣に伝えるつもりはないよ」

「え……?」

「葵衣にだけは言わない。日菜が不安になるような関係にはならないし、なりたいとも思ってない」


口から出任せなんかじゃないって、信じて。

たくさんの嘘の中、これだけは真実だってこと。


「なんで……だって、好きなんでしょ」

「望んでないよ、最初から」

「どうして……」


譫言のように言うから、思わず眉を寄せてしまう。


わたしと日菜自身の関係を一度壊すようなことをしておいて、虫が良すぎるでしょう。

どうして、と言いたいのはわたしの方だ。


「日菜に言われなくても、いけないことだってわかってたよ。恋愛は自由じゃないから。自由なのは想うところまでだって、それくらい自分で気付ける」

「花奏っ、あのね」

「お願いだから!」


また感情のままに声を荒らげて、きちんと話をすると決めたのに日菜を遮る。


「葵衣との未来は望んでいないって、これだけは言える。……だから、お願い。想うことだけは許して」


項垂れた首を一度持ち上げて、言葉尻とともに深く頭を下げる。


許されない恋はないのだと、信じさせて。

たとえ、結ばれることはなくても。


「花奏……顔、上げて……?」

「いいよって言ってくれるまで、上げない」

「ちがうの、言わないよ。言えないよ、ねえ、花奏……泣かないで」


肩を押されても、必死で抵抗をした。

下を向いているせいで、目から溢れた雫は鼻先を伝い落ちる。

覆い被さるように、日菜がわたしを抱き込む。


「花奏……っ、ごめんね」


聞きたくなくて、花奏に抱き締められて身動きが取りづらい中、首を横に振る。


「応援は、出来ない。諦めてほしいって思う。……っ、だけど!花奏が泣くのは、ちがうよ……どうしたら、笑ってくれる……?」

「笑う……」


もうずっと、笑い方を忘れている気がする。

楽しくて、嬉しくて、そんな風に笑ったのはいつが最後だろう。

笑って “ 見せる ” ことが増えて、自分がどんな顔で笑うのかさえ、思い出せない。


「もう一度、ちゃんと聞かせて」


両頬を包んだ日菜の手が、わたしの顔を持ち上げる。

情けなく歪んで涙に濡れた顔を見て、日菜が唇を噛み締める。


「花奏が葵衣に向けている気持ちは、あたしが慶に向けている気持ちと一緒?」


幼い頃から一緒にいたのは、葵衣だけじゃない。

日菜や慶と出会ったのは、両親が亡くなってこの町に来てからだけれど、それでも日菜が誰を見ていて惹かれているのかくらいを悟るには十分な時間を過ごしてきた。

日菜の視線の先を追うと慶がいるように、わたしの視線の先にも葵衣がいた。

だからあの日、隠していた気持ちを日菜が一番に見つけた。


そんなものは恋じゃない、とは言ってくれない。

日菜は、許してはくれなくても、この想いが恋であることを否定しない。

だったらもう、嘘で縁取り、涙で満たすようなことは、やめよう。


「日菜のと……同じだよ」


胸を張っては言えなかった。

どうしたって、好きな人と血の繋がりがない日菜のことが羨ましい。


「そっかあ……」


悲しいはずなのに、悔しいはずなのに、下手くそに破顔した日菜に強く抱き締められる。


「……こんなこと、あたしが言っちゃいけないと思う。無責任に軽々しく口にしちゃいけないってわかってるけど……でも、花奏。本当にいいの? 言わなくて、後悔しない?」

「するよ、多分一生後悔する。だけど、わたしの気持ちを言葉にしたら、葵衣の人生を変えちゃうくらい大きな力を持つんだよ。そんなこと、絶対に出来ない」


日菜の腕の中で目を閉じて、熱い目頭が震えるのを感じる。


伝えることは簡単だ。

伝えようとすることが、すごく難しい。


口から出たあとの言葉への手網は離してしまえるけれど、まだわたしの内にいる間は想いの方から絡まって解けない。


「ねえ、さっきのお願い、あたしが許すから。もう撤回なんてしないからね。その代わり、花奏は葵衣とちゃんと話して」

「それ、慶も言うんだよ。もうずっと会ってもいないのに」

「帰ってこないの?」

「わたしが、帰ってこられない家にしちゃった」


連絡を取り合うこともないし、冷蔵庫に入れた料理も減らないんだ。

葵衣なら、どれほど怒っていても呆れていても、わたしのいないときに食べてくれるはずなのに。

いつも、そうだったから、きっとそれは変わらない。

減っていないしなくなってもいないということは、葵衣はこの家に帰らずにどこかで過ごしているのだろう。

わたしの知らない場所で、わたしの知らない誰かと。


「それ、おばさんは知ってる?」

「さあ……でも何も言わないから、知ってると思う」


わたしと葵衣の間には暗黙のルールとして、友紀さんには心配をかけない、というものがある。

葵衣ならきっと、何を隠してでも友紀さんに心配をかけまいとするだろう。

友紀さんに葵衣のことを聞かれたときに答えられることが何もないわたしは、葵衣の行方を聞き出すことも出来ずにいた。