五分前には着くようにと時間を計算していたのに、着いたのは十分以上も前だった。

緊張して、家を出たときから急ぎ足だったせいか、それともちょうど六階でエレベーターが停まっていたせいか、信号にひとつも引っ掛からずに来れたからか、何にせよ今日は偶然がわたしに優しい日らしい。

駅周辺を回るフリをして橋田くんの姿を探すけれど、まだ来ていないようだ。


手持ち無沙汰なとき、退屈していないように見せるのが苦手だから、約束の時間に早く着いてしまったときの対処法を知りたい。

この場で調べて実践するのもアリだなと考えていると、電車到着のアナウンスとともに一度短く警笛が鳴らされた。


そこでようやく、橋田くんがここに来るまでの移動手段が電車であることを思い出した。

降りてくる前に携帯で時刻表を調べると、この前の電車は三十分も前に着くらしい。

現在時刻は約束をしていた時間の五分前を指している。

画面が自然消灯するタイミングで改札を出てくる橋田くんを見つけた。


「橋田くん」

「あ、おはよう、真野さん」


呼び方、また戻っちゃってる。

けれど、そんなことよりも、制服でない私服姿の橋田くんが珍しくてじいっと見入ってしまう。

ネイビーのタートルネックに紺のジーンズというシンプルな格好で、コートは腕にかけている。


見惚れていたというよりも、単に物珍しくて眺めてしまっていたのだけれど、橋田くんは視線がくすぐったかったようで、戸惑っていた。


「見すぎ、真野さ……じゃない、花奏ちゃん」

「だって、私服って新鮮で、なんか……」

「ドキッとした?」


言葉に詰まると、追い打ちをかけるように意地の悪い顔でわたしを覗き込んでくる。

けれど、その仕草や言葉にときめくことはないし、別の男子の私服姿を見たときだって同じ反応をしただろう。

橋田くんらしくない言動に、頑張っているんだな、なんて他人事みたいに考えたあと、それ相応の反応を示さなきゃと焦るわたしがいる。


「……教えない」


目を伏せて、顎を引く。

これで、恥じらっているように見えるといい。

照れて隠そうとしているように、上手く見せかけられていないと困る。

もっと顔を近付けでもされたら、わたしは橋田くんを拒否する行動を取ってしまう。


付き合い始めて五ヶ月経つのに、手を繋いだことさえないのは、わたしがそうさせないからだ。

対等な立ち位置で紡ぎ始めた関係ではないから、橋田くんはいつも遠慮をするし、わたしをよく見ている。

わたしはそれに気付いていて、橋田くんに手を伸ばしたりはしない。


「どこ行こっか」


街に出たら行くところは沢山ある。

駅ビルだけでも半日は時間を潰せるし、屋内なら寒さも凌げるだろう。


一先ず駅構内に入ろうとしたわたしを橋田くんが止めた。

手を掴んだり、呼び止めたりするのではなくて、回り込んで横に手を広げる。


「この辺、少し歩かない? 学校までの道以外はあまり知らないし、花奏ちゃんのオススメの場所とかあったら行きたい」


橋田くんから提案をするのは珍しい。

大きな店はないし、大通りを逸れたら住宅が所狭しと立ち並んでいるだけで、散歩にも向かないことを伝えると、それでもいいとの了承を得る。


「じゃあ……真反対に行ってみようか」


学校方面やわたしの家の方へ行くと、本当に家ばかりで立ち寄れる場所なんてないし、線路越しの向こう側なら、気兼ねなく歩き回れる。

わたしが先に足を踏み出して、橋田くんが歩き出すのを待って、歩くスピードを調節する。

お互いに探り探りだけれど、最近ようやくわたしと橋田くんに合うペースを見つけた気がする。

橋田くんがわたしに合わせてくれているだけなのかもしれないけれど。


コンクリート製の階段を上っていると、わたしのブーツの足音と橋田くんのスニーカーの静かな足音が妙に不釣り合いに思えた。

ポケットに入れたり袖に包んだりせず、宙ぶらりんにしてある手を橋田くんは掴まない。


同じように宙ぶらりんな橋田くんの手を思い切って掴めたら、進展でもあるのだろうか。

そんな風に考えてしまうことで、自分が嫌々な気持ちで橋田くんといるように感じてしまい、心がずっしりと重くなる。


どれほど橋田くんと過ごしても、彼を好きにはなれない。

二年と言わず、橋田くんから切り捨ててくれることを少なからず望んでいる自分が嫌になる。


「花奏ちゃん、聞いてる?」

「え……」

「この先、曲がれるけどどっちに行く?」


線路沿いをずっと歩いて緩い下り坂を進むと、隣町まで続く真っ直ぐな道と、川沿いへの分かれ道にたどり着く。


「あ、えっと……右で」

「了解」


見通しは悪いけれど車はほとんど通らないから、道路を突っ切って行くつもりだったのだけれど、橋田くんはきちんと道沿いに行こうとするから、ついその場で立ち止まる。

ついて行けばいいだけだって、わかってる。

高架橋の上を、街に行くために乗るはずだった電車が通り過ぎていく。


「花奏ちゃん?」


立ち止まったわたしの手を引いてもくれない。

戻ってきてもくれない。

不思議そうに名前を呼ぶだけ。


どうしようもなく、腹が立った。

わたしを振り向かせると言ったくせに。

今の橋田くんは、マヌケなままだ。

いつになったら変わってくれるの。

いつになったら、わたしを変えてくれるの。


「まだ、嫌いにならない……?」


半ば懇願するように、橋田くんに問う。

まるで、早く嫌いになってくれと言っているみたいだ。

今日でなくても、明日でも、二年後でも、わたしから橋田くんを手放す気はない。

橋田くんの方から突き放されたという、名目がほしい。


やめときなよ、こんなにずるいわたしなんて。

何をしたって、どこにいたって、橋田くんを好きにはなれないよ。