自然と涙が止むのを待って、壁に向き合う。
軽く握り締めた拳を軽く二度叩き付けると、同じくらいの強さで二度叩き返される。
広げた手のひらを壁にぺたりと押し当てて振動を感じようとしたけれど、滑らかな質感だけが伝わる。
「葵衣」
夜中に日菜と通話をしていて、葵衣から苦情を受けたことは一度もない。
だから、この声も聞こえていない。
「……好き」
こつんと額を壁に当て、二度目の告白をする。
虚空に吐き出すことしか出来ない気持ちが世界で一番大切だなんて、笑ってしまう。
面と向かって言うことさえ出来ない。
きちんとフラれることすら、出来ない。
また涙が出てくるのかな、とどこか他人事のように考えていたら、部屋の壁ではなくドアがノックされた。
いつの間に、葵衣は廊下に出たのだろう。
「何かあったか?」
ドアは開けずに外から問いかけてくる。
このまま返事をしなかったら、葵衣はまた勝手に入って来るのかを試してみようかと思ったけれど。
「うん。あった」
ベッドに腰掛け、背筋を伸ばして言うと、ドアノブが半回転してぬるい外気と共に葵衣が顔を覗かせる。
「……起きてるのかよ。で? 何か持ってきてほしいものでもある?」
部屋には一歩も入ろうとせずに、わたしの様子を窺い見ている。
こんなことなら、布団に入って背中を向けていればよかった。
そうしたら、葵衣はベッド脇まで来てくれただろう。
その腕を掴んで引き込む勇気もないくせに、発想だけはいつもズルくて打算的な自分が怖くなる。
「わたし、橋田くんと付き合うよ」
真っ赤に腫らした目で葵衣を見つめた。
嬉しいとか、幸せとか、そんな感情は到底汲み取れないような顔をしているのだろう。
ぼんやりと、葵衣の目にわたしが映っているように見えるけれど、多分気のせい。
葵衣がわたしだけを見ている瞬間がずっと続けばいい。
そう願ったのも束の間、葵衣は表情ひとつ変えずに言い放つ。
「あっそ。それだけ言うために呼んだの?」
「呼んでないじゃん。葵衣が勝手に来たんでしょ」
「何かあったら壁叩けって言って叩かれたから来たのに、よくそんなこと言えるよな、お前」
“ そんなこと ” の意味は、わたしの報告を指しているのか、早口に捲し立てた言い掛かりのことなのか。
わたしが何も言わない、言えないことに気付くと、葵衣は早々に踵を返す。
ドアが中途半端に引っ掛かって閉じ切れないでいたから、ベッドを下りて自分の手で閉めに行く。
ドアノブに置いた手を回してしまったら、もう戻れない。
葵衣を追いかけて、閉ざされた部屋のドアを開けて、向けられた背か胸に飛び込めばいい。
ねえ、葵衣。
さっき言ったこと、ちゃんと信じてね。
嘘なんかではなくて、わたしが決めたことだから。
苦しくないよ、悲しくないよ、寂しくないよ。
「信じないで……」
零れ出した本音が隣の部屋に聞こえてしまえばいい。
膝から崩れ落ちて、ドアノブから滑った手が音を立てて床に当たる。
ズキズキと痛み続けるのはぼうっとし始めた頭ではなく、床に伏せる手でもなく、心と呼ばれる場所。
その痛みの止め方を、わたしは知らない。