「まだ、覚えてたんだ……」


あの音は、いつまで続いていたのかな。

いつも先に眠ってしまっていたから、途切れる瞬間をわたしは知らない。


昔の癖を思い出して、葵衣は特に意識せずに言ったのかもしれないけれど。

怒っているはずなのに、この家に、隣の部屋にいてくれるということだろう。


葵衣の気持ちがわからなくて、自分の気持ちもどこか地に足をつけた感覚がなくて。

揺らめくから、零れ落ちていくから、掴んでいようと必死になる度に何かを間違える。


わたしの知らない葵衣がいることに苛ついて、目の前にいる葵衣に当たり散らしてしまうことが嫌で嫌で仕方ない。

慶の言うことがきっと一番正しくて、重なり続ける誤解も本当のことも、葵衣と話さなければわからない。


橋田くんが絡むと妙に感情的になるその意味が、わたしの期待とは違うって言ってくれなきゃ困るんだよ、葵衣。

日菜の吐いた嘘の根源に、わたし達がいるんだよ。

傷付けて、傷付いて、その両方の原因がわたし達だと言うのなら、もうわたしの決意の半分は壊れていることになる。


『 葵衣に気持ちを隠して、残りの高校生活を過ごす 』


簡単なことだと思っていた。

ずっと隠し続けてきたから、そうすることが得意なのだと心のどこかで自負していた。


あの雨の日、葵衣に触れられたかった。

なし崩し的に瓦解していく、望んでいた日々を元の形に戻すことは、もう出来ない。



「どうしたらよかったの」


想うだけでは済まなくなった。

唇を触れ合わせたいと望むようになって、いつかは身体を重ねたいとまで願ってしまうだろう。

そうなってしまったときに、葵衣から拒否をされるのが怖いわけではない。

兄妹という境界線をわたし自身が冒して、うわ言にでも葵衣に想いを告げてしまうのではないか、それだけが怖い。


日菜と葵衣の関係が本意のものではないとして、解消させるためには、わたしが日菜の納得する行動をしなければいけない。

利用するというと聞こえが悪くて、けれどその二文字以外には当てはまらない方法を使えるのは、慶か橋田くんだ。

慶は首を縦には振らない。


慶に何とか日菜を説得してもらう手もあるけれど、わたしだけ知らん顔をしていて、時間が過ぎるのを待っていたって、一向に解決はしない気がした。


だから、これは仕方のないこと。

いつかは捨てなければいけない想いのための犠牲。


初めて、自分から橋田くんに電話をかけた。


「……橋田くん?」


数秒もせずに通話中に切り替わり、衣擦れの微かな音が聞こえたから、潜めた声で橋田くんの名字を呼ぶ。


『 真野さん……? どうしたの? 』


寝起きなのか、慌てて電話を取ったのか、少し上擦った声には緊張の色が濃く表れている。


「わたし、本当にズルいから……」


誰も幸せにはしなくて、誰かを不幸せにさせてしまうことを前提に、ある提案をした。


『 ……うん。いいよ。わかった 』

「いいの? 最低なこと、言ってるんだよ?」

『 そんな最低な条件に乗るマヌケな男って評価が変わるくらいには、真野さんのことを振り向かせられるように頑張る 』


条件のつもりではないのだけれど、橋田くんにとってはそうなのだろう。

こんなに良い人だから、騙したくはない。

本当のことはいくつも言えないけれど、嘘はひとつも吐かなかった。


通話終了画面を眺めたまま、ゆっくりと瞬きをすると、両目から涙の粒が落ちた。

今日は、よく泣く日だ。

自分のした選択を後悔してはいない。

けれど、誰にも聞こえていない、誰も見ていない今だけは、止めどころを知らない涙を放っておいてやろうと思う。


「あと、二年……」


今日、二つ目の意味を持った残りの時間を、わたしは間違えずに過ごせるだろうか。

そんな自信は、澱んだ心に手を伸ばして探ったところで、一欠片も掴めなかった。