「……葵衣なんか、いなきゃいいのに」


嘘だ。

葵衣さえいてくれたらよかった。


葵衣以外はいらないと本気で言えるのに。

この世界に、葵衣とふたりでいられる場所はどこにもない。

誰かの手を借りて、誰かの世話にならなきゃ、今もこれからも生きていけない。


無力な手には針と鋭い切っ先しか残っていない。

こんな手では、葵衣の手を引くこともできない。


自分の右手の甲に、左手の爪を立てる。

痛みを通り越すほど、皮膚を突き破るつもりで食い込ませた爪を強く引くと、冷たい液体が指に流れる。


うわ言のように、葵衣の名前を繰り返し呼ぶ。

裂けた皮膚に更に爪を立てると、一瞬視界が揺れるほどの痛みが走る。


この程度の痛みですべてが許されて、葵衣と生きていられる世界に変わるのなら、身体から血液が無くなるまでこうしていよう。

重ねた手を入れ替えて、左手の甲に爪を置いたとき、伸びてきた慶の手がわたしの行為を止めた。


「違うだろ」


怒りを滲ませた声にさえ、もう怯えることはない。

ただ、胸のうちを黒く包むほどの虚しさが、全身を満たしていた。


「葵衣に言えよ。好きだって」

「言えない」

「あいつは、花奏が黙っていたっていつか自分で気付く。その前に言え」

「言わない、絶対に」


それだけは、できない。

慶の言うように、いつか葵衣に悟られてしまうときが来たとしても。


「中学に入った頃から日菜と花奏がふたりで過ごす時間が長くなったってことは、俺らもそうだってわかってるか?」


埒が明かないと呆れたのか、わたしの意志に折れたのか。

そのどちらでもないのだろうけれど、慶は突然脈絡のないことを言い出す。


「一番、葵衣のことが見えていないのは花奏だよ」

「そんなことない」

「あるんだって。恋は盲目って言うからな」


淀みに淀んだ心と空気を一掃するように、慶が笑い混じりに言った一言に、ピクリと肩が跳ねた。


「……恋?」


あまりにも自分に当てはまらなくて、初めて “ 恋 ” という言葉を口にした子どものように、目を真ん丸くして慶を見る。


「恋以外に何があるんだ。俺が日菜を好きなのと一緒だろ。花奏も葵衣に恋してるんだから」


同情や気まぐれなのではと疑う余地もないほど、当然のように言い放つから、人前では決して流すことのなかった涙が堰を切って溢れ出す。