「やれやれ」

 ゼンさんは胸ポケットから老眼鏡を取り出すと、テーブルに置かれていた新聞紙を広げて必要な欄を読み進めながら、さりげなく室内の様子を窺った。隣のカワさんは、もじもじと手を動かしつつ落ち着きなく左右を見やる。

 思考能力がハッキリしている二人は、こうやって朝食時に、施設の内部を観察することから一日を始めていた。

「カワさん、あの小さなイトミネの婆さん、見えるかい?」
「ああ、見えるよ」

 ゼンさんは、新聞を持ち上げて声を潜めた。カワさんは俯きがてら、看護師たちに唇が見えないよう肩をすぼめてそう答える。

 五月の過ごし易い気候もあって、朝は冷房機が止められ、空気の入れ替えのため開かれた大窓からは涼しげな風が吹き抜けていた。おかげで薬品臭や、女性看護師たちのきつい香水の匂いも薄れてくれている。

「あの人は自分で車椅子も押せないから、ああやって、いかつい看護師が押している。あの車椅子の肘置きに置かれた彼女の左腕、真っ白なところに、ほら、紫の痣があるだろう?」
「…………また、抓られたんだね」

 カワさんは、遅れてそれを目に留め、ごくりと息を呑んだ。