「昨日はどきどきして、なかなか眠れなかったよ」 

 連夜続けて叫び声や罵声や怒号が飛び交っていたことを思い返して、カワさんがそう正直な感想をもらした。「俺もだよ」と答えるゼンさんのげっそりした顔には、褐色の肌に隠れるようにして隈が出来ている。

 雨期に入ってからというもの、愛之丘老人施設は日中問わず慌ただしい。夜は廊下を行き来する足音が絶えず、老人たちの叫び声やすすり泣きに加えて、職員たちの大声がゼンさんの睡眠を妨げていた。

 昨晩は赤子のような泣き声が廊下を切り裂き、それにつられて泣き出す老人が何人も出ていた。そこには相変わらず、身体の具合を訴える者も多くいあった。彼らは、締め切られた一人の静かな部屋が寂しいのだ。

 とはいえ、カワさんやゼンさんが眠れない本当の理由は、向かい側の部屋にあった。夜に起こる老人たちの叫びの中に、ミトさんの声が聞こえやしないかとハラハラしていたのだ。

 ここ十日ほど、ミトさんの姿を見ていなければ、声さえ聞いていなかった。それが更に彼らの不安を煽っていた。