ラビは、髪に触りたいなんて言われたのは初めてで、その様子を静かに見守っていた。彼が更に身を屈めてきて、近くからラビの顔を覗きこみながら、耳の上の髪に指を絡めた。
一瞬だけ、躊躇するようにその手が止まったが、今度は先程よりも深く指先を髪に埋めて、耳の後ろに流すように優しく梳いてくる。
どこかで誰かが息を呑むような声が聞こえたが、ラビは動けなかった。頭皮に微かに触れたテトの指先は熱くて、ずっと昔に亡くなった父と母が、よくこうして触れてくれていた懐かしさを思い出した。
ああ、寂しいなと、漠然とそう感じた。
「……本当に金色なんだな……そういえばさ、さっき頼まれた事があるんだけど、ラビって夢とかある?」
どこか物想いに耽る顔で、テトはすくい上げた髪に指先で触れながら、近い距離からそう問い掛けてきた。
ラビは、その様子を不思議に思ったが、テトの大きな手が耳を包み込む熱に懐かしさを覚え、「あるよ」と促されるまま囁いた。
「遠くを旅したい。父さんも母さんもいなくなった村を出て、オレを誰も知らないところへ、ノエルと――」
その時、静かな表情のテトの指先が、ラビの頬に触れる直前、横から素早く伸びた手がそれを止めた。
ラビは、驚いて我に返った。すぐそこにユリシスがいて、彼は二人の間に割って入るように手を突き出し、表情なくテトの腕を掴んでいた。
「――テト。聞き出すように頼んではいましたが、やり過ぎです。おかげで副団長を抑えられなくなりました」
直後、セドリックがユリシスを荒々しく退けた。彼はテトに詰め寄ると、「あなたは何でラビの髪に触ったんですかッ」と胸倉を掴み上げた。
テトは、何故セドリックが怒っているのか分からず、その剣幕に慌てて「珍しくて」「つい」と説明した。
ラビは、ただ髪を触られただけなのだが、と首を捻った。一体、この幼馴染は何を心配しているのだろうか?
その時、外から戻って来たノエルが、『騒がしいなぁ』と鼻頭に皺を作った。彼はラビへと歩み寄ると、お帰り、と目で伝えてくる彼女に『おぅ』と答え、尻尾を大きく振った。
『だいたい絞り込めたぜ。今日は疲れちまったから、とりあえず明日動こう』
明日動く、と聞いたラビの脳裏に、初めて訪れた町をノエルと歩く光景が思い浮かんだ。
調査の一環だとしても、彼と二人ならとても楽しいに決まってる。
目の前の騒ぎに対する疑問も忘れて、ラビは期待感のまま立ち上がった。今のうちにその予定を確保してしまいたくて、テトを掴み上げるセドリックのジャケットの裾を掴み、忙しなく引っ張った。
「セドッ、セドってば! ちょっと聞いて欲しい話があるんだけど」
「な、なんですか、ラビ……?」
昔の愛称で呼ばれ、セドリックは目を丸くしてそう訊き返した。目の前で揺れる金色の髪に先程の光景を思い出し、悔しくなって僅かに目を細める。
ラビはそれに気付かず、彼の袖を上下に揺らしながらこう言った。
「明日は、一人で町を見て来てもいい? 少し調べたい事もあるし、村の外の町って初めてなんだもん。獣師としての調査だから、遊びとかじゃないよ。一人の方が気も楽だし、いいよね?」
セドリックは、彼女の一人称が『オレ』でなかった時代を彷彿とさせる素直な口調と、期待に輝く大きな瞳を見て、ダメとは言えない空気に言葉を詰まらせた。
彼の沈黙を肯定と受け取ったラビは、続いてユリシスへと好奇心の強い瞳を向けて、「ん」と右手を差し出した。
「被害者が足を運んだ場所とか、記録は残ってた?」
「――え。ああ、はい」
ユリシスは、数秒遅れでメモ用紙を取り出した。実際の調査資料を見せる訳にはいかないので、要点だけ書き写したものだと説明し、彼は神妙な顔でそれを手渡した。
ラビはメモ用紙をポケットにしまいながら、ノエルにそれとなく目配せした。今日大きく動かないのであれば、ちょっと寄り道したい事があったのだ。
すぐに内容を察したノエルが、『いいんじゃねぇの』と言った。
『せっかくの機会だ、見せてもらおうぜ。俺もゆっくりしたいし』
改めて男達へ視線を戻したラビは、彼らが僅かに身構える様子にも気付かず、「地図とかってどこに置かれているんだ?」と尋ねて、それをすぐに見たいと要求した。
ラビは書庫の鍵を借りるなり、ノエルと中に閉じこもった。
書庫は保管用であって、閲覧席は一切設けられていなかった。ラビとノエルは床にそのまま腰を下ろし、先程ゆっくりと見る事が出来なかった手書きのメモ用紙から確認した。
そこには、被害者の男が目撃された日時と場所、立ち寄った先の店名が並んでいた。
「うーん、名前だけ見ても分かんないなぁ」
『実際に回ってみるしかないだろうな。もしかしたら、俺が絞り込んでいるところにある店かもしれねぇし』
ひとまずは、明日出歩いてみればハッキリするだろう、という事で話しは落ち着いた。
書庫には、地図や土地に関する多くの本や図鑑が揃えられていた。本のページいっぱいに拡大された各土地の図は、細かな地形まで描かれて見やすく、土地の害獣や植物に関わる図鑑も色が鮮明に付けられていた。
ラビは、胡坐をかいて床に本を広げた。ノエルが彼女の背もたれのようにのんびりと寝そべり、同じページを覗きこんでラビの疑問に答える。彼の話は豊富で、知らない土地の名前が出るたび、それに関わる地図と図鑑が引っ張り出された。
しばらく夢中になっていると、少し強めに外から扉が叩かれた。
「二時間も立てこもっていると聞いたけど――ッて、鍵掛がかってる!?」
「ん? その声、グリセン?」
ノエルとの時間を楽しく過ごしていたラビは、訝しげに耳を済ませた。外からは、グリセン以外の声と数組の足音が聞こえたので、どうやら彼は部下を従えてやってきたらしいと分かった。
掛けられた言葉からして、特に急ぎの用がある訳でもないと察したラビは、扉も開けず「一人にしといて」と軽く返した。その後ろで、ノエルが『やれやれ』と大きな欠伸を一つこぼす。
すると、扉の外から、先ほどよりも強いノック音が上がった。
「髪を触られたのが原因なんですかッ」
そうセドリックが慌てて尋ねる声が続いた途端、ドシンと倒れる音と共に、「団長が倒れたぞーッ」と複数の男達が叫んだ。扉の外が一気に騒がしくなり、ラビは渋々立ち上がると、内鍵を開けて廊下に顔を覗かせた。
目の前にいたのは、セドリックだけだった。
他の奴らはどうしたのだろうと廊下の向こうへ目を向けると、意識を失ったグリセンを運ぶ男達の集団が見えた。一人だけ労力を貸していないユリシスが、先導するようにそばを歩いている。
というか、何でまたあの人は倒れたんだ?
「で、なんか用? オレ、集中して読んでるんだけど」
「ラビ、あなた先程テトに触られていたでしょうッ? 頬にも触られましたか!?」
「頬? 金髪が珍しいって見られただけよ」
ラビはそう答えて、「とりあえず邪魔しないで」と怪訝な顔で扉を閉めた。廊下で残されたセドリックは、さっぱりしすぎる彼女を思ってしばし動けなかった。
窓から差し込む日差しが、西日に変わった。
そのまま書庫にこもっていたラビは、控えめに叩かれる扉の音に気付いて、ようやく顔を上げた。
「ラビ、扉を開けて下さい。サンドイッチを持って来ましたから」
扉の向こうから、セドリックの声がした。
言われてみれば、少し小腹がすいたような気がする。思えば昔も、薬草の勉強にのめり込んでいると、いつもセドリックがやって来て「食事をしなさい」「少しは眠って下さいッ」と何かと世話を焼かれた覚えがあった。
ラビは申し訳なく思って、素直に扉を開けた。
「わざわざ持って来なくてもよかったのに……」
「朝食で胃がもたれているのなら、ラビなら夕食も抜くかもしれない、と思いまして」
「……まぁ、そうかも」
彼は、普段のように話すラビを見て、どこかほっとした様子で「どうぞ」と言ってサンドイッチが入ったバスケットを手渡した。
セドリックはそこで、床に広げられている大量の地図と図鑑に目を向け、しばし思案するような間を置いた。
「ラビ、楽しいですか?」
「すごいんだ、色が付いてて動物もすごいリアルッ」
「……なんだか本当に楽しそうですね。あの、僕もご一緒していいですか?」
『お前がいたら、俺がゆっくり出来ねぇだろ』
テーブルも置かれていない倉庫のような書庫は、唯一窓のそばにスペースがあるばかりで、あまり広いとはいえなかった。ノエルがゆったりと座ってしまうと、ラビの他に大人が座る事は難しいぐらいに狭くなる。
ラビは一度書庫の方を振り返り、少し考えて「ダメ」と答えた。
「ダメって、ひどい……」
「だって狭くなるだろ」
「……ラビは昔から、集中すると僕を構ってくれなくなりますよね」
セドリックは残念そうな表情をしたが、気遣うようにやんわりと微笑んだ。
「ちゃんと食べて下さいね。それから、僕は少し外に出ますから、ちゃんと自分で時間を確認して部屋に戻――」
「大丈夫だいじょーぶ」
ラビは、自信たっぷりに言って、セドリックを書庫から追い出した。
しかし、それからとっぷり夜が暮れ、消灯時間が過ぎて辺りが静まり返っても、ラビは書庫に居座っていた。
鍵を返しに来ない事に不審を覚えたユリシスが、扉の向こうから「団長の胃に穴があいたらどうしてくれるのですか」と声を掛けてようやく、ラビは予定の時間が過ぎている事に気付いた。
ラビがそろりと扉を開けると、そこにいたユリシスは、書庫の床に乱雑する地図や図鑑の散らかりようを見て、美麗な顔を引き攣らせた。
「……最後はちゃんと元通りに片付けてから、戸締りをして下さい。そして、明日の朝一番に必ず鍵を返しなさい。いいですね?」
どうやら、ユリシスは室内の惨状を見て、すぐに鍵を掛けるのは無理だと悟ったらしい。ラビは返す言葉もなく、唇を尖らせつつも「ごめん」と口にしてユリシスを見送った。
結局、書庫内の片付けが終わったのは深夜遅くで、夜空に浮かんだ三日月もだいぶ傾いていた。
ラビは欠伸を噛みしめつつ静まり返った廊下を歩き、部屋に戻ってから手早くシャワーを浴びた。
開いた窓から吹きこむ夜風は心地良く、大地を照らし出す青白い月明かりが、部屋に差しこんでいた。普段ホノワ村から眺める夜空とは、星の位置が少し違っているようにも見えて、ラビは、ノエルの隣から少しだけ夜空を眺めた。
「ねぇ、ノエル。【月の石】を見付けたら、どうするの?」
『俺は妖獣だ。力を取り込まないで、そのまま発動だけさせて使用済みにしてやればいい』
なんだか魔法みたいだ、とラビは思ったが、眠気に勝てず続けて欠伸が込み上げ、そのままベッドに潜り込んだ。
『窓、閉めようか?』
ノエルが隣に寝そべりながら、頭を持ち上げてそう訊いた。
「別に寒くないよ」
『よし。じゃあ子守唄でも唄ってやる』
「ノエルって音痴じゃん」
可笑しくなって、ラビは声を潜めて笑った。何度ノエルに教えても、彼は上手く音程が取れないままだったのだ。