ビルの立ち並ぶ繁華街まで足を伸ばしてみたところで、住居と企業が乱立しているような、見慣れない背の高い建物の群れを見上げた。空を覆う雲は厚いが、低くはない。どうやら雨は降らないようだ。

 クロエは老猫なので、一日に何度も仮眠をとるのも珍しくはない。川沿いに抜けた頃、クロエはボストンバックの中で眠りに落ちていた。

 エルは、この辺りに猫同伴でも大丈夫な食事処はないかと考えながら、しばらく川を眺めた。川は濁っていて、眺めていてもつまらなかった。どこからか聞こえる工事現場の音や、表通りの車の騒音を耳にしながら足を休めた。

 暫く休んだ後、クロエが目を覚ました頃合いを見計らって、エルは、川の反対側を目指した。

 少し空腹を覚えていたので、美味い匂いに溢れた国際通りまで戻る事にした。歩道で旅行者の団体に遭遇し、そっと道を譲って見送った後、不意に、辺りの喧騒が耳から遠のいたような違和感に足を止めた。

 チクリと、首の後ろに違和感を覚えたのは一瞬だったが、名前を呼ばれたような気がした。

 驚いた、というよりは、その名前に、身体が自然に反応してしまったという方が正しい。ハッとして振り返った時には、喧騒が耳に戻って来ていた。

 気のせいだったのだろうかと、エルは訝みつつ足を進めた。その名前を呼んでいたのは、少しの間まで一緒に暮らしていた男だけだ。彼は、エルのもう一つの名前を大事に呼び、秘密を抱えたまま死んでいったのだ。

 歩きながら、エルはクロエへ視線を向けた。案の定、クロエがどこか心配そうな眼差しを返したので、苦笑を浮かべた。

「ごめん、なんでもないよ」

 この地区に、幼少期の頃の知り合いなどいるはずもないのだ。いたとしても、それは随分と遠い過去の話で、今は誰も、あの頃のエルを覚えてはいないだろう。

 エルは気を取り直し、大きな交差点で一度信号を待ってから先へと進んだ。

 一際大きな白い建物が向こうの通りに見えた時、再び、後方から名を呼ばれたような気がした。