「不便な物ですねぇ。居続ける代償に吸収してしまう記憶を、うまく選べないというのも。……この子が忘れてしまっても、『私』ばかりが覚えているのですから」
「俺やポタロウやクロエだって、こいつと過ごした月日を覚えている。だからお前は、しばらく眠れ。……大丈夫だ。お前が出て来る必要がないぐらい、こいつは見かけによらず逞しいところがあるからな」
夏が終わる夜空の下で、二人の男は、短い別れの時間を作った。『彼』がエルの過去を出来るだけ消化しない為には、必要な事だった。闇を統べる存在は、自身の意思を一旦凍結する方法を選んだ。
オジサンと『彼』は、最後に一度だけ握手を交わした。『彼』は「やけに長い握手ですが、これには意味があるんですかね」と口角を引き上げた後、「おやすみ」と言葉を述べた。
「――ああ、おやすみ、ナイトメア。俺はさ、最近のお前は嫌いじゃないんだぜ」
今にも泣きそうな顔で笑ったオジサンのいる風景が、『ナイトメア』と呼ばれた異界のモノが、物質世界で最後に見た光景だった。
場面は、次々に過ぎ去っていった。
過去へ、未来へ、そして更に深い過去へと潜り込む。まだ髪の長かった頃の幼い彼女が、両親に連れられて街を歩いている光景が現れた。
あれは、エルが三歳の頃の事だ。初めて綺麗な服を着て、写真館で家族写真を撮った帰り道、父が珍しくレストランを利用した。
女の子は、両親以外の大人を知らなかったから、人見知りしていた。けれど、ホテルを出る際に、一人の青年社員が彼女に微笑みかけ、可愛い動物の形をした風船をくれてからというもの、彼の事はすっかり好きになってしまった。
その青年は、ホテルの制服を着て、いつも建物の前に立っていた。小さなそのホテルの前を通るたび、女の子は彼に挨拶をした。
幼いエルにとって、唯一怖くない他人だった。
父と母は、勿論彼の名前を覚えてしまっていたが、幼いエルは、彼を見掛けるたび「ホテルマンさん」と親しみを込めてそう呼んだ。
今となっては、白いホテルの壁と、彼の微笑む口許しか覚えていないが、これも、きっと『ナイトメア』が消化してしまった為だろう。
「俺やポタロウやクロエだって、こいつと過ごした月日を覚えている。だからお前は、しばらく眠れ。……大丈夫だ。お前が出て来る必要がないぐらい、こいつは見かけによらず逞しいところがあるからな」
夏が終わる夜空の下で、二人の男は、短い別れの時間を作った。『彼』がエルの過去を出来るだけ消化しない為には、必要な事だった。闇を統べる存在は、自身の意思を一旦凍結する方法を選んだ。
オジサンと『彼』は、最後に一度だけ握手を交わした。『彼』は「やけに長い握手ですが、これには意味があるんですかね」と口角を引き上げた後、「おやすみ」と言葉を述べた。
「――ああ、おやすみ、ナイトメア。俺はさ、最近のお前は嫌いじゃないんだぜ」
今にも泣きそうな顔で笑ったオジサンのいる風景が、『ナイトメア』と呼ばれた異界のモノが、物質世界で最後に見た光景だった。
場面は、次々に過ぎ去っていった。
過去へ、未来へ、そして更に深い過去へと潜り込む。まだ髪の長かった頃の幼い彼女が、両親に連れられて街を歩いている光景が現れた。
あれは、エルが三歳の頃の事だ。初めて綺麗な服を着て、写真館で家族写真を撮った帰り道、父が珍しくレストランを利用した。
女の子は、両親以外の大人を知らなかったから、人見知りしていた。けれど、ホテルを出る際に、一人の青年社員が彼女に微笑みかけ、可愛い動物の形をした風船をくれてからというもの、彼の事はすっかり好きになってしまった。
その青年は、ホテルの制服を着て、いつも建物の前に立っていた。小さなそのホテルの前を通るたび、女の子は彼に挨拶をした。
幼いエルにとって、唯一怖くない他人だった。
父と母は、勿論彼の名前を覚えてしまっていたが、幼いエルは、彼を見掛けるたび「ホテルマンさん」と親しみを込めてそう呼んだ。
今となっては、白いホテルの壁と、彼の微笑む口許しか覚えていないが、これも、きっと『ナイトメア』が消化してしまった為だろう。