少女が、エルの姿を認めて微笑んだ。

「お帰りなさい、※※※」

 名前を呼ばれて、エルの涙腺は自然と緩んだ。暖かい声色で呼ばれた名は、エルが過去に失ってしまった本当の名前だ。両親が死んで、オジサンだけが時折呼んでくれた、本当の名前……


――『いいか、お前の名前は今日からエルだ。でもな、お前には両親がつけてくれた大切な名が、ちゃんとある。俺は、お前の両親が遺してくれた大切な名前は、絶対に忘れないつもりだ。だからお前も、絶対に忘れちゃいかんぞ』


 自分の名前を忘れるなんて、そんな馬鹿な事ある訳ない。

 けれど目が覚めるたび、オジサンは今にも泣きそうな顔で、エルの本当の名を呼んだ。まるでエルの過去が、まだ残されている事を確かめるかのように、そのやりとりは、エルの身体の傷が完全に癒えるまで、しばらく続いたのだ。

 あの時は気にも止めていなかったが、エルは一つの事実に気付いて落胆した。自分の本当の名字は、いくら考えても思い出せなかった。

 事故で記憶を失ったと言われたが、昔住んでいた家や、両親の名前も記憶には残っていないのに、家族と暮らしていた幸福で、何気ない風景ばかりは思い出されるのは何故だろう。辛い事も悲しい事も、大きな喜びや失敗もあったはずなのに、そこだけが、両親の顔と共に影がかかって出て来ない。

 自分がやるべき事、ここにいる理由、自分が成すべき約束……それが頭の中を駆け巡り、大まかではあるがエルの中で腑に落ちてしまった。

 完全に思い出せたわけではないけれど、やらなければならない道筋がエルの前に広がった。
 
 助けたいと思った心に偽りはない。

 だからこそ、エルは悲しくて泣いた。準備を待たずに思い出される様々な物事に対して、心の整理が追いつけなかった。その運命を選び取り、決心した頃の自分を、まだ思い出せずにいるせいだろう。