エルが右拳を左手に打ち当てると、鼠男が、どこからともなく鉄製の槍を取り出し、槍の先端をエルへと向けた。どうやら、人間らしい挑発にも乗ってくれるらしい、とエルは場違いな感想を抱いた。

 両者とも、しばらく動かなかった。エルは、相手が動き出す一瞬を待った。

 そのまま、数十秒が過ぎた。吹き抜けた風が、一瞬、ふわりと凪いだ時――


 鼠男が走り出すのと、エルが地面を蹴り上げるのは、ほぼ同時だった。


 体躯逞しい大きな身体を持った鼠男の誤算は、エルがたった一つの跳躍で、一秒もかからずに鼠男の懐まで到達可能であった事だろう。

 鍛えられたエルの高い身体能力は、足場の砂利を抉る程の強力な瞬発力を起こした。一瞬で間合いを詰める判断力と、突き付けられた槍先を紙一重でかわすエルの動体視力は、常人の運動能力を遥かに超えていた。

 迫りくる小さな捕食動物に対して鼠男が放った槍は、彼女の肌に触れる事も出来ずに宙を切った。

 槍を突き出しきった敵の眼前で、エルは更に踏み込んだ。その拍子に、砂利がぴしゃりと跳ね、鼠男の体毛と、柔らかなエルの髪先が揺れた。

 エルが身にまとう黒いコートが、ふわりと風で膨らんだ。

 エルは槍の先端を避けた後、間髪入れず鼠男の真下に、その身を滑り込ませていた。右手の甲を鼠男の顎の下から打ち付けると、脳震盪を起こす鼠男の脇腹に、続いて全身の遠心力を利用し蹴りを叩き込んだ。

 放たれた蹴力に耐え切れなかった鼠男の身体が、軽く宙を舞って吹き飛んだ。
エルは、鼠男が吹き飛ぶ同じ方向へ突き進むと、飛び上がり、工場の壁に叩きつけられた鼠男の首に、躊躇なく膝を突き入れた。
 
 ゴキリ、と野太い音が響き渡った。全身を強打し、首の骨を折られた鼠男の身体が、全身の力を失い崩れ落ちた。